六月十五日

「なんか虚しいっスよね、こういうの」

 デスクに広げた新聞を見下ろして、根本がため息をついた。その一面には事故の記事が載っている。車両六台が絡む玉突き事故。死者四名、怪我人が二人。原因となったのは大型トラックの居眠り運転。ガードレールに正面から突っ込んで運転席は潰れ、運転手は即死。コントロールを失ったトラックが横滑りして横転、後続の車両がそこに次々と突っ込んだ形だった。

 運転手の名前は、神林和也。三日前に助けたばかりの、何もしなければ三日前に死ぬはずだった男だ。

「……管轄外だ。考えなくていい」

 根本に対してはそう言ったが、真木自身は考えるのをやめられなかった。この事故は夢の中では起きなかった事故だ。たかが夢だと繰り返し自分に言い聞かせてみるものの、「神林を助けなければ事故は起きなかったのではないか」という疑念が払いきれない。もしあの時神林を助けなければ、残り五人は死傷せずに済んだのではないか。そう考えれば自然、気分も沈む。

「真木、根本」

 ぱんぱんと平手を打つ音で我に返ると、鐘崎がデスクの前に立ってこちらを見下ろしていた。

「立ち止まっている暇はない。起きてしまったことは仕方がない。君たちのしたことは正しい。それ以上でもそれ以下でもない」

「……うっス」

「ありがとうございます、すみません柄にもなく」

「責任感が強いのは悪いことじゃないがな、それを後悔に向けるくらいなら未来に向けなさい。我々の責任は未来にある」

「はい」

 真木と根本、二人が声を揃えて返事すると、それまで難しい顔を作っていた鐘崎はすぐにそれを崩し、唇の端を引き上げた。

「まあ、これも受け売りなんだけどな。一度言ってみたかったのに、お前らと来たらなかなか落ち込まないもんだからやっと言えたよ」

「受け売りっスか? えっと、どなたの?」

「海老名さんだ。真木は会ったことあるよな?」

「ええ、まあ。随分前に退職されたと」

「腰を悪くしてな。いてくれるだけでも助かるからって随分引き止めたんだが、刑事って仕事にプライドがあったんだろうなあ。あの人には随分助けられた」

「んー、覚えがないっス。たぶん配属当たってないっスね」

「最近までちょくちょく顔出しててくれたんだが、そういえば一年近く会ってないな」

 うまい具合に気が緩んで真木は息をつく。こちらの様子を見て気を回したのか、下村が缶コーヒーを四つほど抱えてデスクに来るところだった。

「どうぞ。好みがわからなかったんで、適当ですけど」

「ありがとう。先に自分のを取ってくれ」

「や、いいです。俺は余ったのを飲みますんで。――神林の件はともかく、国木田の方ってどうなりました? 何か上がったんですか?」

「いや」真木は首を振る。捜索に入った国木田の部屋からは何も出なかった。国木田本人は「盗まれた」と主張したが、鍵や窓が壊された形跡もなく、誰かがそれを盗んだという根拠も、物証も、無かった。

 国木田はすっかり青褪めて、「本当に殺される」「助けてくれ」と喚き、暴れ、一時はひどい騒ぎになったのだが、なにせその主張を信じる理由も、根拠も物証も出なかったのだ。とにかく巡回を増やすからと確約して何とか場を収めたのだが、その後も特に不審者がうろついているだの何だのといった報告は無い。あとは国木田自身が妙な気を起こして本当に犯罪を起こさないかが懸念点ではあるのだが、勾留延長には至らなかった。

「国木田の証言は単なる嘘だったんですかね」

 全員に回った缶コーヒーの最後一本を取ってプルタブを引きながら、下村が訊いた。「いや」と口を挟んだのは根本だった。

「だとしたって不自然スよ。ただの物取りならハンマー持って玄関から入ろうなんてバカみたいな話ですし、そもそも国木田はまっすぐ神林の部屋に向かって、神林が出てきたタイミングで殴ろうとしたんスよ。他の部屋を伺うでも、中の様子を探るでもなく」

「まあ、そりゃただの物取りなら不在の家を狙うかひったくりか強盗にはなりますよね。平日の真昼間に、男の家を狙う必要性は無い」

「そして国木田と神林の間に接点や面識が無いことは双方の聴取で確認済み、か」

 鐘崎がのんびりした口調で付け加える。

「俺と真木さんが身柄取り押さえたときも抵抗しませんでしたし、いっそ物証出た方が話の筋は通ったんスけどね」

「既往歴とかは出なかったんですよね? その、いわゆる、精神病的な。妄想とか」

「無いっスね。だからって妄想じゃないとも言い切れないんでしょうけど」

 根本の様子はすっかりいつも通りに戻っている。鐘崎は少し思案する様子を見せてから、飲んでいた缶コーヒーの残りを一気に煽って、空き缶でデスクを叩いた。コン、と軽い音が、雑談の終了を合図する。

「まあ、筋を通すことが警察うちの仕事ではないからな。推理ごっこもたまには良いが、あまり本腰入れるなよ」

「気をつけます」

 根本がひらひらした軽い敬礼で答え、鐘崎はそれを微笑んで見る。鐘崎と根本、下村の間には親子と言って差し支えないほどの年齢差があり、そのせいか二人を見る目がときどき父親のそれになる。無論、そんな鐘崎だからこそ慕う部下が多いのも事実だ。

「それでだ。真木と根本、お前たち少し煮詰まってるみたいだから、外に出てきなさい」

「外ですか? どこへ?」

「うん。一つ目の事件、凶器の入手ルートがわかったようだから、その店と周辺で聞き込み。あとレジの履歴の参照と、監視カメラの映像の差し押さえ」

「令状は」

「取ってある。新田さんが持ってるから、引き継ぐって言って受け取っていけ」

「はい」


 未来への責任。真木は口の中で呟く。ならば今するべきことは、一刻も早くこの事件を解決することだ。

 現在出ている物証はそう少なくない。一件目から三件目の事件では、それぞれ凶器となったものを回収している。

 一件目、六十代の男性が刺されたナイフは、近所の川の下流で雨合羽に包まれて発見された。当日は事件直前まで雨が降っていたから、雨合羽を着た人間が目立たなかったのだろう。ナイフからも合羽からも被害者の血液が検出されている。

 二件目、四十代の主婦が自宅で絞殺された事件。直接の死因になったのは素手での絞殺だが、押し入る時に持っていたらしい包丁は現場に残っていた。床に深く突き刺さり、抜くことができなかったのだろうと推察される。この事件では犯人の足跡も見つかっているが、今のところ犯人の発見には結びついていない。

 三件目、国木田晴彦の事件。これは持っていたハンマーを直接押収している。

 それから、二件目の事件では犯人と思しき男が目撃されている。被害者宅から出てきた、配達員の服装をしているわけでもない男だ。身長百七十センチほどの痩躯で、短髪に無精髭を生やしていた。これは被害者の夫の外見とは一致しない。

 それから、三件目の事件。加害者である国木田は「脅されて」犯行に及んだと主張している。もしもこれが事実であるならば、本当の意味で神林を狙ったのは別の人物だということになる。これが嘘ならば、国木田は単独で神林を狙ったことになる。

しかし、それにしては根本の言う通り「筋が通らない」。国木田の言い分の信憑性はともかく、心情としてはむず痒いものがある。

 それに、二件目の事件で目撃された不審者の外見は国木田と一致しない。もちろん、目撃された男が本当に犯人ならの話だが。

「まあ、取り敢えず鐘崎さんの言う通りっスよ。納得のいく推測が出ないのはキモいっスけど、それに拘っちゃったら見えるもんも見えなくなるんで」根本が助手席から口を挟む。「あ、そろそろ右折なんで、タイミング見て車線変更してください」

「ん。――自分だってさっきまでぶつぶつ言ってただろうに、もう切り替えたのか」

「飽きっぽいのが俺の長所なんで。真木さんも見習っていいっスよ」

「……善処する」

 真木は根本にそう返答した。釈然としない気分が半分と、感心したような気分が半分。実際のところ、部下のこういう調子に助けられることはままある。


 県内に四店舗ある系列店を回り、普段の客層、最近変わったことがなかったかなどを聞き取り、ナイフの取扱時期と購入者をリストアップする。リストに上がった人間を一人ひとり聴取にかけ、可能性を洗っていく。しかし、

「びっ……くりするほど何にも出ないっスね」

 書類作業の限界を迎えたらしい根本が、背もたれに反り返りながらぐったりと呟く。

「そうだな」

「接点なし動機なしアリバイあり、あと何人でしたっけ聴取」

「いや、ここで一旦終わりだ」

 真木は調書の束から視線を上げないまま答える。リストに上がった十一人の内、連絡の取れた八人全員の聴取が終わっている。今のところ、めぼしい成果は上がっていない。

「あと連絡取れないの三人でしたっけ」

「一人は県外に出張中だそうだ。現地の県警を通して連絡済み、来週には出頭すると言ってる」

「対応が既にシロっぽいっスよね」

「そうだな」

「手詰まり感がパない」

「仕事は山ほどあるぞ。まず――」

「あーあーあーあー。聞きたくないっス。やーだー」

「やかましい」

 今回の凶器として使われたナイフは頑丈なカバーがセットになっていて持ち運びやすいものであったらしく、聴取した人間の大半は釣りやキャンプを趣味としているようだった。

 一人だけ釣りもキャンプも趣味としていなかった男がいたが、こちらは木彫りの彫刻が趣味だったらしい。犯罪者の汚名を着せられまいと必死だったのか、見せられた作品の写真はどれもこれも息を呑む出来映えだったが、それを差し引いてもうんざりするほど話が長かった。

「最初十五分くらいは面白く聞いてたんスけどね、あれ」

「だいたいそれくらいだろうな。情報量が多すぎた」

「すみませーん」ドアの外から声がして、真木は顔を上げる。下村の声だ。「両手が塞がってて、ドア、誰かドアを開けてくださーい」

「俺行きます。はーいすぐ開けますー」

 根本が返事をしながらドアの傍まで駆け寄って、それを開ける。外から、両手にダンボール箱を抱えた下村がよろよろと部屋に入ってくる。根本が「うわ、何スかそれ」と、真木が「何だその量」とそれぞれ声を上げたのは同時だった。

「いや、それがですね、――っと、ああ重かった、犯罪予告っていうか、そういうのが大量に湧いてて、ネットに」

「え? それは一課うちじゃなくて生活安全課じゃないっスか? なんで一課に?」

「それがですね、ほらあるでしょう、最近の連続殺人、あれの四人目を誰にするかとかなんとかの話で、実名上げられた被害者とかがばんばん通報してきてて。本題はあっちで処理するらしいんですけど、一応うちにも関係があるから目を通しておくようにって」

「うーわあ……迷惑……」

「それ全部か?」

「ああいえ、これを元に今から摘要を作ります。さすがにこれ全部全員が読むってのは無理です、印刷すっげ雑ですし。根本さん、そっちの作業飽きたならこっちと代わりましょうか?」

「いやいやいやいいです遠慮します。乗りかかった船っていうかほら、仕掛りの仕事は最後までやりたいっていうか」

「鐘崎さんとは一緒じゃなかったのか?」

「鐘崎さんは、この件で特別対策チームを組むかどうかの話し合いをしてます。『過去の三件から見て有意義な情報とは思えない』って意見と、『だからって無視するわけにもいかない』って意見でぶつかっちゃってるみたいで」

「まあ確かに、今までの分の予告も見つかったとかならまだしも、今の今で急に予告だけ出されても同一犯とは考えにくいっスもんね」

「です。かといって今まだほとんど進捗が上がっていない以上、面目のためにも対策班はあった方がいいっていう」

「オトナノジジョーっスね」

 根本と下村が交互にピーチクパーチク言っているのを聞きながら、真木は下村が抱えてきた書類のひとかたまりにざっと目を通す。そのほとんどはスクリーンショットに近い。「本題はあっちで処理する」ということだから、調査前の書き込みだけをこちらによこしたのだろう。

「これ、マスコミにはもう流れてるのか?」

「だと思います。さすがに昼のワイドショーまでチェックしてませんけど、それくらいの時間からガッと電話が増えたらしいので」

「書き込んだのがただの愉快犯なら、まあ十中八九ただの愉快犯っスけどこれ、マスコミに見つかったのはマズいっスよね」

「ですね。たぶん、これから便乗犯も増えるんでしょうねえ」

「迷惑千万だな」

 こちらの予想通り、その後、わずかだが便乗犯が出た。ただし、便乗犯一人に対して反応するのは一人ではない。対処するのは一課ではないが、それでもいくらかはげんなりする。

「問題はですよ真木さん」

 根本が真面目な顔を作って言う。

「特別対策チームを立てたところで、俺らの仕事は減りやしないってことです」

「……まったくだ」

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