第15話 王、崩ず       

 離石りせきに次々ともたらされる、劉曜りゅうよう様の、世龍せいりゅう殿の戦勝報告。病床の元海げんかい様に代わり万騎を動かす劉聡りゅうそう様にとっても、お二方の働きはさぞ頼もしく映ったことでしょう。

「これならば、玄明げんめいとくを譲っても障りはなさそうだな」

「何を仰いますやら。戦場を駆けられぬが口惜しい、とご尊顔そんがんには記されております」

 孤人こじん薬湯やくとうを煎じると、寝台に横たわる元海様に差し出します。

 謁見の間で倒れられてより、数日。なんとか喋るまでは回復されたものの、その僅かな日々にて、元海様の気精きせいはすっかり抜け落ちてしまっておりました。

遺詔いしょうの草案は、書き上がったか?」

「は、読み上げます」

 かたわらの竹簡を開きます。

 ――途端竹簡が、文字が滲みました。

「これ、元達げんたつ」元海様が苦笑なさりました。

「私はまだ壮健だ。君にも言っただろう、万が一に備えて、と。我ら武人には、いつ不慮の死があるとも知れぬのだ。此度の件で、身につまされた」

 袖にて目元のを払った後、孤人は「全くです」とうそぶきました。

「王が倒れられた、それだけでしん賊より甚大じんだいなる逆撃を受けたのです。これに懲りて、ご自愛下さいますよう。ましてや夜の町への行幸ぎょうこうなどもっての外です」

「それは約束し切れんな」

「何としてでも、守って頂きます」

 改めて、竹簡に目を落とします。

 遺詔に曰く。晋賊蕩平とうへいがなされるまでは、国は戦時である。ちんの葬儀は薄葬はくそうを以てなし、必要以上の期日、費用を掛けぬようにせよ。任地にある将兵は任地を離れることを禁じる。また、我がしゃくを継ぐ王には、そうを任じる。併せてよう韓公かんこうに、石勒せきろく趙公ちょうこうに任じる。聡の双翼そうよくとして、良くこれを助け、晋賊を打ち払い、天下臣民に安寧をもたらすようにせよ――云々。

 漢臣の中でも、世龍せいりゅう殿の躍進は著しいものであった、と申せましょう。并州へいしゅう刺史しし叙任じょにんも、この折でしたね。

 一通りを聞き遂げ、元海様は大儀そうに頷かれました。

 息をつくと、枕に頭を沈められます。

「これで、大きな荷を下ろせたかな」

「何の。朝廷には、王の印璽いんじを待つ事案が日ごとに増えております」

「恐ろしいな。それを聞くだけで命数みょうすうが尽きてしまいそうだ」

 元海様が、孤人が笑いました。

 劉聡様は良く百官の助けも得られ、数多の政務をこなしておられました。元海様のお手をわずらわせるほどのものは皆無、と呼んですら良かったほどです。

 孤人も少なからぬ政務に追われる日々を送ってはおりましたが、元海様直々のご要望と言うこともあり、しばしば傍らにはべるを許されておりました。

 とは申せど、それは漢臣の内、最も元海様の衰微すいびせるを目の当たりにせねばならぬ立場にあった、と言うことでもありましたが。


 そして、あの秋の昼下がり。

 夏を惜しむかのごとき日差しが柔らかな暖かみを残す、あの日。

「聞いたぞ、元達。また世龍殿が勝ったそうだな」

 斯様な報せは届いておりませんでした。

 いえ、無いわけではありません。

 ただし、届けうる、全ての報せは伝え切っていたはずでした。

 薬湯を取り落としそうになります。気を取り直し、何とか笑みをつくろいました。

「誠に。世龍殿の威名、もはや天下に知らぬ者もおりますまい」

 うむ、と元海様は微笑まれました。しかし、その微笑みが、すぐさま曇る。

「私は、高帝こうていのようにはなれなかったな」

「まさか。その偉業、高帝に勝るとも――」

「そうではない。私は、韓信かんしんを殺せなかった。殺したいと、思えなかったのだ」

 万感を込めたお言葉だったのでしょう。

 それが孤人の拝聴はいちょう叶った、最期のお言葉でした。



 ――さて。

 ここからは、ふたたび王、とお呼び致しましょう。


 韓信殿、とあなた様をお呼びするのは、さすがにたわむれが過ぎるでしょうか。お許し下さい、一度、お呼びしてみたかったのです。

 王が崩ぜられると、間もなく王弥おうびが、王浚おうしゅんが、乱を起こしましたね。両名は王にであれば北面ほくめんするのもやむなし、先主せんしゅに従う理由はなし、と考えていたのでしょうか。離石にあっては并州の両名に対する捷報しょうほうを聞き届けるのみでしたが、そう容易たやすき相手ではなかったであろう、とは想像がつきます。

 また時を同じくして、越司えつしが病死した。

 まこと天の配剤とは、人の身にては読み切れぬにも程があります。越司の手腕に大いに頼っていた晋は、瞬く間に瓦解。漢を斯くも苦しめた険敵けんてきが、ああも易々と墜ちるとは。

 ともあれ後顧こうこの憂いを除き、洛陽らくよう、更には長安ちょうあんを落とし、王の大願を果たされた先主は、満を持して帝位にお就き遊ばされた。

 公の爵位しゃくいにあった者のうち功績甚だしきは王へと進爵。なるほど、并州。あなた様は、確かに趙王ちょうおうにお就きになられた。

 なれど、ご寛恕下さい。主上しゅじょう趙帝ちょうていを名乗られた以上、孤人はあなた様を趙王とお呼びするは叶わぬのです。

 帝位に就いて間もなくほうぜられた先主。その後は長子、劉粲りゅうさん様がお継ぎになられた。

 しかし劉粲様、及び周辺の者らは、常より主上に怯えておりました。強く、苛烈なる主上が王弥王浚のならいにはならぬと、どうして信じることができたでしょう。誅滅ちゅうめつの動きになるのは仕方のない事だったのやもしれません。

 問題は、その手続きが余りにも稚拙ちせつに過ぎた事でありましょう。動きを気取られると、却って主上に大義名分を握られ、郎党共々敗死。

 帝位に就くや、主上は国号をちょう、と改められた。すでに趙王のあなた様がいらっしゃるにもかかわらず。誰が見ても、并州を排せん、と企図された振る舞いでありました。

 とは申せど、今にして思えば、むしろお二方が共にあったことの方が、まれなることであったのでしょう。龍と虎とが同じ場にありながら、争い合わずにおれたようなものです。

 止めようのない事でした。故に孤人は、何の手立ても講じることも叶わぬまま、お二方の懸隔けんかくの広まるを、ただ、見届けるより他ありませんでした。


 ――あぁ。

 思いがけず、長々と話し過ぎてしまったようです。


 近頃折に触れ、義父上がせんぜられた「三國志さんごくし」を読み返すことがあります。この書は、孤人には、義父上が抱かれた漢再興の願いに思えて仕方がないのです。

 司馬炎しばえんに献ずる書でありますから、を、しんを正当と記さねばならぬは避けようがありませんでしたでしょう。なれど昭烈帝しょうれつていの項にては、明確に「皇帝」と記しておられている。司馬炎も、よくもこの表現を許したものであります。

 三国志にては、漢の正統なる継承者が昭烈であった――と、控え目ではありながらも、斯く宣ぜられております。故にこそ孤人は、王に劉禅りゅうぜん様の跡を継がれるよう説きました。

 魏は簒奪者さんだつしゃ王莽おうもうのごときであり、いくら正当な手続きを踏んだからと言って、漢の祖霊が斯様な凶逆を許すはずがありません。まして、簒奪者から更に簒奪をなした晋の正統性など何程のものがありましょう。

 王の徳望、その不尽たるに、孤人は確信いたしました。黄巾こうきん跋扈ばっこより揺らぎ、またひとときは潰えまでした漢の威信いしんは、王の践祚せんそを以て蘇るのだ、と。

 なれど、蓋を開けてみれば、どうでしょう。

 王が崩ぜられて後、国内は乱れ、あまつさえ漢の名をすら失うありさま。それもこれも、孤人が王に漢を襲わしめんと奏ぜねば起こり得なかったことでしょう。

 悔恨の念は、今も我が身を苛んでおります――敢えて、断じましょう。孤人こそが、漢を殺すに至ったのです。


 并州。

 孤人に天の意は伺えず、ただ人の意がいま、主上と并州のお二方に集っていることがわかるのみ。お二方の雄才が、天下をいかに導くのか。不遜ふそんな物言いではございますが、その行き着く先が楽しみでなりません。

 社稷しゃしょくけがれは、孤人が請け負いましょう。并州におかれましては、天をおそれず、ご雄飛下さいますよう。


 孤人のれ言に最後までお付き合い下さり、感謝、深甚しんじんえません。

 并州の武運長久たるを、お祈り申し上げます。

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