第13話 鄴都攻防       

 射兵に給する矢の中に、赤い布を巻き付けたものを数本ずつ交える。

「合図に応じ、この矢を一斉に放つ。こいつが鮮卑せんぴどもの調略を物語るしるしだ。既に噂は行き渡らせてる。あとは、しかるべき機に弾くだけだ」

 そう言い残し、王弥おうびは鮮卑らの元に向かいました。

 ぎょうの町の前に精甲鋭矛せいこうえいぼうきらめかすは、かの王弥をして「化け物」と言わしめた驍将、祁弘きこうの率いる軍。眺望ちょうぼうの利く高台より孤人は戦を見届けておりましたが、生き物のごとくうねる劉聡りゅうそう様、破城槌はじょうつちのごとき衝撃をていする劉曜りゅうよう様の両軍を絡め取り、いなし、はじき返す。軍容でありながらにして、まさしく砦、と呼ぶべきでありました。

 崩れかけたお二方の軍の隊列に、世龍せいりゅう殿の手勢が遊軍として補修に回られていたのを、幾度か認めました。遠方より推移を見届けられた孤人であれば、補うべきがいずこであるかは分からぬでもありません。なれど世龍殿は、怒号溢れる戦地のただ中にてその離れ業をなされていた。鷹の目でも持ち合わせずば、あの様に潮流を読むは叶いますまい。


玄明げんめい永明えいめい。お前らの戦積を聞いた。なるほど、元海げんかいが推すだけのことはある。だが、分かっているだろう。それでも、祁弘には足らん」

 世に覇を唱えるかん王の世子を前にしてすら、王弥の振る舞いは常通り。かの宴席にて王弥を受け容れた劉曜様はまだ良いでしょう。劉聡様は、王弥のこの直言に対し、やはりと申しましょうか、噛みついてくるのです。

都督ととくの仰ること、もっともでありましょう。ならば我らをあたら犬死にさせよう、と言う腹づもりでいらっしゃるのか。公算なき令にはこの玄明、従う気はございませんぞ」

「死ねって言ってんだ。だがな、犬死にさせる気はねえぞ。お前らの後ろにろくをつける。こいつさえいりゃ、お前らが多少押されようともそうは崩れねえ。日にちを稼げ。その間に、俺が鮮卑どもを墜としてやる」

 お二方の目が、世龍殿に向く。

 この時が、お二方と世龍殿の初の顔合わせでありましたね。そう年かさの変わらぬお三方、とは言え陣の最奥に侍る将としては、どなたも、余りにお若かった。

「コイツには、戦ってもんをとことん叩っこんである。特に乱戦死戦はお手のもんだ。頼りにしていいぜ」

 にやりと、王弥が告げました。

 この言い回しでは、却って反発を招くようなもの。あからさまに鼻白む劉聡様と、面白い、とばかりに笑う劉曜様と。


 戦の初日は、これで世龍殿が両皇子に試されるが決まったようなものです。

 遠目から見ても、敢えて過酷な場に世龍殿が駆り出されるのが分かりました。

 そのお二方が、初日を終え、世龍殿を受け容れておられた。

 共に本物の名将である、と言うことなのでしょう。祁弘という高く立ちはだかる壁に対しては、強き味方は幾ら居ても良い。打ち解ける、のとは違いましたが、二日目以降の陣立てをすり合わせるに当たり、お二方が世龍殿と同じ目線にて戦場を語っておられたよう感ぜられました。

「三軍で最も柔軟に動けるのは、やはり世龍、貴様だ。王弥の見立て通りに動くは癪だが、四の五のも言っておれん」

 劉聡様が地図に目を走らせます。初日の衝突は、ほぼ五分と五分。なにせ漢軍は、何の小細工も無しで鄴に進攻しました。祁弘が罠を疑い、様子見の用兵となったのもやむを得ぬ事なのでしょう。とは申せど孤人にしてみれば、初日のぶつかり合いにして、既に気が遠くならんか、と言う激しさではありましたが。

「世子、滅晋めっしん。明日も祁弘は大きく動くまい。いかに奴を本陣に釘付けに出来るかが、この戦の成否を分ける。迂闊うかつに戦を動かし過ぎれば、奴を引っ張り出すことになる。ひとたび奴が動けば、大いに血嵐けつらんが吹き荒れよう」

 滅晋、と呼ばれた劉曜様が舌打ちをなさいました。

「下らん。奴がのこのこ出てくれば、この矢で射殺してやるに」

 劉曜様がもてあそぶは、劉曜様のために仕立てられた、ひときわ大きな矢。

 漢将随一の剛力と、精妙なる弓矢の腕前を兼ね備える劉曜様は、それまでにも最前線にて多くの晋将を射殺す武勲を上げておりました。とは申せど立場は飽くまで養子。世子たる兄の劉聡様は漢の軍中に於いても車騎しゃき大将軍、漢の旧制に倣った高位に就いておりましたが、嫡流ちゃくりゅうにない劉曜様には、旧制に基づいた官位を与えること叶いませんでした。

 代わりに、元海様が劉曜様のために新設された将軍号。それが滅晋大将軍でした。烈武を讃えるのみならず、司馬氏そのものを誅滅ちゅうめつするに足るほどの武。それが劉曜様に対する、元海様の見立てであった、と申せましょう。

「滅晋の武に疑義の余地はない。ならばこそ、やがて訪れる転機のため、いまは大いに弦を引き絞って頂きたい」

 世龍殿にしてみれば、劉曜様の言には大いに障りもありましたことでしょう。しかし険も、かんもおくびに出さず奏じておられた。内心はともあれ、見事な振る舞いだ、と、お三方のやり取りを伺いながら思っておりました。


 膠着せる戦局が、それから数日。やがて祁弘が遂に動くと、戦の様相が瞬く間に塗り替えられていくのが解りました。

 鮮卑らを従える祁弘であれば、その本分はやはり攻め手にありましょう。それまでに示していた受けの手際も恐るべきものでありましたが、いざ動かば、たちまち大いに二軍を押し込んでいくのが解りました。これが驍将の采配、孤人は世龍殿ほど深く軍略に通じる訳ではありませんが、戦の目に見えて動くを見るにつけ、戦慄を禁じ得ませんでした。

「お、王弥のからの報せはまだか!」

 監軍幕かんぐんまく詰めの文官が、狼狽ろうばいした声を上げます。

 本陣から少々後ろに設えられた監軍幕では戦況の集積、輜重しちょうの管理、離石りせきよりの伝達の預かりなどを行っておりました。武士がおらぬでもありませんが、詰めるはほぼ戦の心得無き文官たち。祁弘が本陣を食い破れば、たちまち抗う術もなく蹂躙じゅうりんされてしまいます。孤人とて戦死や虜囚りょしゅうの辱めへの恐れは少なからず抱いておりました。なれど、表に出してはならぬ。恐れは瞬く間に伝播でんぱし、人から思考を奪い去ります。

 彼の者に叱責を加えようとした、その時でした。

「漢兵らの背を支える者が先に揺らいでいかする!」

 裂帛れっぱくの一声が、幕中に刺さりました。

「王が文武を分け配したは、武には武の、文には文の任を全うせよ、とのお心である! 我らの揺らぎが、いま戦う車騎や滅晋の根底を揺るがせにし兼ねぬと知れ!」

 見れば、先の声を上げた文官の前に、長身ちょうしん痩躯そうくの青年が立っておりました。その両手には竹簡を抱えたまま。声を上げた側よりそれぞれの竹簡に目を通しては決裁をなし、各方面に引き渡しておりました。

 気にて場を圧せども、その手は止まらず。――お恥ずかしながら、いま思い出しました。あの青年は張賓ちょうひん殿、貴方さまでございましたね。

「そこまで」

 両名の間に、孤人が分け入ります。

怯懦きょうだも然り、憤怒ふんども然りだ。激情も、時には良い。なれど我らは何のために此処に在る。情ではなく、智を費やす為であろう」

 地に転がるいくつかの竹簡を拾い上げ、目を通します。内容を踏まえ、然るべき人物にそれぞれを渡す。監軍幕に余剰よじょうの者など一人としておりません。一人の智が止まれば、監軍幕の、ひいては漢軍の思考が、止まる。

 孤人は張賓殿の肩を、そして張賓殿に圧され尻込みしていた文官の肩を、それぞれに叩きました。示したは、あくまで笑顔。監軍かんぐんたる孤人が揺らいでは始まりません。

 とはいえ戦況は、時を追うごとに劣勢となって参ります。

 さては王弥が失敗したのか。

 成功はしたが、予想外に手間取ったのか。

 どう表向きに述べてみようとも、不安がよぎるのは致し方のない事でありました。張賓殿の強きには憧れも覚えたものです。

 息せき切った報せが孤人らの元に届いたは、まさに斯様な折でした。

「北方に紅白の狼煙あり! 繰り返す、北方に紅白の狼煙あり!」

 紅白の狼煙。それは、王弥の到着を知らせるもの。

 監軍幕より外に出れば、狼煙の向こう、軍勢の進む砂埃が上がるのが見て取れました。

「王弥……!」

 覚えず、握り拳を固めておりました。

 戦場の怒号行き交う中、世龍殿はどのように叫ばれたのでしょうか。

 一斉に赤き矢が投げ掛けられると、再び戦場がうねったのがわかりました。


 趨勢すうせいを決定づけたのは、王弥軍が姿を現したこと。

 いくつもの旗が翻っておりました。王弥の王、宇文うぶん部の宇、だん部の段。

 しかし、最も目を引いたのは、いま一つの「王」の旗でした。

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