第12話 宵の口
酒精に酔ったと
であるならば、せめて見失わぬようにする。何者と語らいあったかを把握し、元海様の臨時の任官に即応じるよう計らう。また、いざというときには語らいを止め、
「ここにいたか、
王弥の言う子飼い、陣中に轟く異名としては
その気配が、ぴたりと止んだ。
さもありなん、と申すより他ありません。町の酒亭におよそ似つかわぬ、地味でこそあれ、あからさまに仕立ての良い平服を羽織った士大夫に、
その世龍殿が振り返るなり示された驚愕は、ご本人を前に申し上げるのもおかしなものではございますが、実に鮮やかなものでした。
「へ……!」
陛下、と言い掛けた世龍殿の口を、元海様が塞がれました。
「う、うむ。
仰って、元海様は孤人に必死の目配せをなさりました。
世龍殿の後背には、色めき立つ十八騎のお歴々。
全く、このお方は――斯様な場にて、孤人も幾度嘆じたことでありましょう。
「
あげつらった偽りの名に、見るからに元海様の面持ちが不快を示されます。
呂姓は
元海様が離れた後、世龍殿の
「
「敵ではない。旧知だ」
十八騎の一、あれは
元海様の無作法で、盛り上がっていた酒亭が大いに凍てついたのを感じました。元海様は軽く亭内を見渡すと、ふむ、と顎髭をしごかれ、亭主を招きました。
「亭主、騒がせてしまったな。侘び代わりにこれを受け取ってくれ」
懐より取り出しましたるは、袋に詰まった金子。
冷ややかであった亭主の目が、今にも零れ落ちんばかりに剥き出しとなりました。
「し、ししししし士大夫様! こ、こんな……」
「これで亭内の者ものに振る舞ってくれ。出し惜しみなくな」
「う、承りましてございます!」
全く、手慣れたものです。恐らくはあの金子で、亭のひと月分の売上は
各席に酒が、酒肴が供されると、先程までとは比べものにならぬ喧噪が亭内に充ち満ちるのでした。
「お歴々。暫し、世龍殿をお借りしてよろしいかな」
世龍殿の卓を殊更にもてなすように、と手配した上での申し出です。十八騎の面々も満面の笑みで、とまではゆかぬものの、とは言え断る口実も見出せぬようでした。
亭を出て、庭先に
上弦の月が良く冴えた、風の心地良き宵の口にございましたね。
「友に恵まれているようだな」
主から差し出された
「あいつらのお陰で、生かされています」
元海様は頷くと、徳利を傍らに置かれました。
「間もなく、君たちを血河に投げ込まねばならん。その前に、君とは話しておきたかった。
「ただの偶然でしょう」
「そうだな、偶然だ。だが古の人は、それをこう呼んだ。天の配剤、と」
元海様が、手を掲げられました。
向けたる先は天の北極、
「おれは、天なぞ信じませんよ」
孤人の見立て違いでなければ、凍てついた世龍殿の振る舞いには、僅かながらの動揺があったよう思います。
「信じずとも良い、それでも、天は我らが頭上にある」
北斗の七星を辿り、
「私には親しい史官がいてな。かれから教わったことがある。天文に依れば、遥か
まさか、と思いました。
その話は、孤人も聞かぬではありません。しかしながら、それを認めるは、帝の
「かれは、更に言うのだ。同じく千載もの先ともなれば、北辰には、勾陳の星官にて最も輝く、正妃の星が据えられよう、とな。にわかに信じがたい話ではあったが、かれは嘘をつくような人柄でもなく、また、常日頃の建言も当を得ていた。ならば疑義を差し挟む余地もない。可笑しくなったよ。天ですら、変ぜざるを得ぬものであったのだ」
今でも、覚えております。
元海様の言に、世龍殿は、まさしく
元海様に導かれた、と言うわけでもありませんでしたでしょう。しばし元海様を見据えられた後、天を仰がれ。
「天――」
そう、世龍殿は仰せになりました。
「世龍殿。きみは、天に正しく怒っているのだろう」
元海様のお言葉は、孤人にはまるで解し得ぬものでした。ならば、この非才に許されるのは、元海様の言が、深奥を示されているのであろう、と推測するのみ。
「また怒りに等しく、正しく
天に向く元海様の手が、握り拳を作りました。それはあたかも、北辰を握りつぶされるかのような。
天に、抗う。
斯様なことが果たし得るのか。孤人には皆目見当がつきません。
あの折、世龍殿は、どのようにお感じになられましたでしょうか。この節穴では、察すること能いませんでした。
お二方に、しばし、言葉はありませんでしたね。
やがて亭内より、世龍殿が呼ばれ。跳ねるように世龍殿が、元海様をご覧になられました。
元海様が、頷かれます。
「構わぬ。良き時を過ごさせてもらった、世龍殿。明日からは互いに慌ただしくもなろう。君の奮武、楽しみにしている」
「――粉骨砕身の働きにて」
幾分の惑いも交えた拱手の後、後顧を示されながらも世龍殿が場を辞され。元海様はふ、と微笑まれると、徳利に手を掛けられるのでした。
すかさず、孤人はそれを取り上げます。
「
元海様が孤人を見られました。寸刻の驚きが、力なき微笑みに変わります。
「何を、まさか。私は、至って壮健だ」
「平陽令の話をしております」
故に孤人は、飽くまで目の前の方に向け、
元海様は、それでも抗弁を志されたのでしょう。孤人の顔を見、しかし、ややあって嘆ぜられました。
「いつから、気付いていた?」
「疑いはひと月ほど前より。平陽令に万一があれば、臣下は行く先を見失います。故に懼れながら、内密にて探らさせて頂きました」
「そうか」
再び、元海様が天を仰がれました。
「ならば元達、教えてくれ。この天への怒り、果たして、届きはするのかな」
元海様が洩らされた、その呟きに。
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