第12話 宵の口        

 王弥おうびとの宴席の後、離石りせきの町へとふらりと出られた元海げんかい様を、孤人こじんは慌てて追うのでした。

 酒精に酔ったとうそぶかれては、常にてはまみえることもなき士人らの集いに交わり、語らいあう。元海様の悪癖です。もっとも語らいあうごとに、孤人らが見逃していた才を拾い上げて来られるものですから、どうしても強き諫止かんしは叶わぬのでしたが。

 であるならば、せめて見失わぬようにする。何者と語らいあったかを把握し、元海様の臨時の任官に即応じるよう計らう。また、いざというときには語らいを止め、対手たいしゅを処断するも辞さぬとご理解頂く。以上の密約を、孤人との間に結んで頂いておりました。

「ここにいたか、世龍せいりゅう殿」

 王弥の言う子飼い、陣中に轟く異名としては十八騎じゅうはっきの面々と、世龍殿は酒杯を重ねておりましたね。

 その気配が、ぴたりと止んだ。

 さもありなん、と申すより他ありません。町の酒亭におよそ似つかわぬ、地味でこそあれ、あからさまに仕立ての良い平服を羽織った士大夫に、孤人こじんがごときしかめ面が追従ついしょうしておるのです。たちまち向けられた殺気に、武の心得なき孤人などは、元海様の供でなければ腰を抜かしていたことでしょう。

 その世龍殿が振り返るなり示された驚愕は、ご本人を前に申し上げるのもおかしなものではございますが、実に鮮やかなものでした。

「へ……!」

 陛下、と言い掛けた世龍殿の口を、元海様が塞がれました。

「う、うむ。平陽へいよう令ぞ。隠密ゆえ余り騒がれたくはないのだ」

 仰って、元海様は孤人に必死の目配せをなさりました。

 世龍殿の後背には、色めき立つ十八騎のお歴々。

 全く、このお方は――斯様な場にて、孤人も幾度嘆じたことでありましょう。

呂越りょえつ様。士大夫ともあろうお方が、みだりに他者と交わられませぬよう」

 あげつらった偽りの名に、見るからに元海様の面持ちが不快を示されます。

 呂姓は高帝こうていの妃、ひとときは漢朝を転覆せしめかけた呂氏に通じます。漢末の呂布りょふを挙げても良いでしょう。いみなは、言うまでもなく越司えつしより。たわむれも大概にして頂きたい、と言う孤人の祈念きねんは、さて、どこまで通じましたことやら。

 元海様が離れた後、世龍殿の胡乱うろんげな眼差しが酷く痛かったのを、よく覚えております。

ろく、何なんだこいつらは」

「敵ではない。旧知だ」

 十八騎の一、あれは孔萇こうちょう殿にありましたでしょうか。後にその勇武甚だしきを、よく耳にしたものです。

 元海様の無作法で、盛り上がっていた酒亭が大いに凍てついたのを感じました。元海様は軽く亭内を見渡すと、ふむ、と顎髭をしごかれ、亭主を招きました。

「亭主、騒がせてしまったな。侘び代わりにこれを受け取ってくれ」

 懐より取り出しましたるは、袋に詰まった金子。

 冷ややかであった亭主の目が、今にも零れ落ちんばかりに剥き出しとなりました。

「し、ししししし士大夫様! こ、こんな……」

「これで亭内の者ものに振る舞ってくれ。出し惜しみなくな」

「う、承りましてございます!」

 全く、手慣れたものです。恐らくはあの金子で、亭のひと月分の売上はまかなえたことでありましょう。

 各席に酒が、酒肴が供されると、先程までとは比べものにならぬ喧噪が亭内に充ち満ちるのでした。

「お歴々。暫し、世龍殿をお借りしてよろしいかな」

 世龍殿の卓を殊更にもてなすように、と手配した上での申し出です。十八騎の面々も満面の笑みで、とまではゆかぬものの、とは言え断る口実も見出せぬようでした。

 亭を出て、庭先にしつらえられた長いすに元海様と世龍殿が並び腰掛けられ、孤人はお二方に近侍きんじ

 上弦の月が良く冴えた、風の心地良き宵の口にございましたね。

「友に恵まれているようだな」

 主から差し出された徳利とっくりともなれば、しりぞけるわけにも参りませんでしたでしょう。とは申せど、お受けになった世龍殿の振る舞い、その堂々たること、覚えず孤人は唸ってしまったものです。

「あいつらのお陰で、生かされています」

 元海様は頷くと、徳利を傍らに置かれました。

「間もなく、君たちを血河に投げ込まねばならん。その前に、君とは話しておきたかった。阿豹あひょう元達げんたつは、何事につけても反りが合わん。にもかかわらず、君については見立てが合致した」

「ただの偶然でしょう」

「そうだな、偶然だ。だが古の人は、それをこう呼んだ。天の配剤、と」

 元海様が、手を掲げられました。

 向けたる先は天の北極、北辰ほくしん

「おれは、天なぞ信じませんよ」

 孤人の見立て違いでなければ、凍てついた世龍殿の振る舞いには、僅かながらの動揺があったよう思います。

「信じずとも良い、それでも、天は我らが頭上にある」

 北斗の七星を辿り、紫微しび垣根かきねを周し。内に潜りては先に勾陳こうちん、次いで北極ほっきょくの星官へ。

「私には親しい史官がいてな。かれから教わったことがある。天文に依れば、遥か殷周いんしゅうの昔、北極に鎮座する帝星ていせいは、今よりも北辰に寄っていたのだそうだ。しかるに千載せんざいの果て、いま帝星は徐々に北辰より離れつつある」

 まさか、と思いました。

 その話は、孤人も聞かぬではありません。しかしながら、それを認めるは、帝の崇尊すうそんなるにきずをつけるがごときもの。故に、公的な記録として残る事はありません。

「かれは、更に言うのだ。同じく千載もの先ともなれば、北辰には、勾陳の星官にて最も輝く、正妃の星が据えられよう、とな。にわかに信じがたい話ではあったが、かれは嘘をつくような人柄でもなく、また、常日頃の建言も当を得ていた。ならば疑義を差し挟む余地もない。可笑しくなったよ。天ですら、変ぜざるを得ぬものであったのだ」

 今でも、覚えております。

 元海様の言に、世龍殿は、まさしく刮目かつもくされておりましたね。お二方が同じく天の子であらせられたからこそ、通じ合われたのでしょう。

 元海様に導かれた、と言うわけでもありませんでしたでしょう。しばし元海様を見据えられた後、天を仰がれ。

「天――」

 そう、世龍殿は仰せになりました。

「世龍殿。きみは、天に正しく怒っているのだろう」

 元海様のお言葉は、孤人にはまるで解し得ぬものでした。ならば、この非才に許されるのは、元海様の言が、深奥を示されているのであろう、と推測するのみ。

「また怒りに等しく、正しくおそれてもいる。しかりなのだ。天は甚大である。なれど無尽むじんではない。我々は人として人を統べ、天に抗うのだ」

 天に向く元海様の手が、握り拳を作りました。それはあたかも、北辰を握りつぶされるかのような。

 天に、抗う。

 斯様なことが果たし得るのか。孤人には皆目見当がつきません。

 あの折、世龍殿は、どのようにお感じになられましたでしょうか。この節穴では、察すること能いませんでした。


 お二方に、しばし、言葉はありませんでしたね。

 やがて亭内より、世龍殿が呼ばれ。跳ねるように世龍殿が、元海様をご覧になられました。

 元海様が、頷かれます。

「構わぬ。良き時を過ごさせてもらった、世龍殿。明日からは互いに慌ただしくもなろう。君の奮武、楽しみにしている」

「――粉骨砕身の働きにて」

 幾分の惑いも交えた拱手の後、後顧を示されながらも世龍殿が場を辞され。元海様はふ、と微笑まれると、徳利に手を掛けられるのでした。

 すかさず、孤人はそれを取り上げます。

呂平陽りょへいよう酒精しゅせいは、病魔を養います」

 元海様が孤人を見られました。寸刻の驚きが、力なき微笑みに変わります。

「何を、まさか。私は、至って壮健だ」

の話をしております」

 漢王かんおう劉元海りゅうげんかいは、天下に覇たるを示す、まさにその歩みを進めたところ。王の気宇きうは四海を多い、万民ばんみん黎庶れいしょに安寧をもたらすための戦いをなす。病魔になど冒されるはずがない。冒されるはずがないのです。

 故に孤人は、飽くまで目の前の方に向け、かんじました。その身人臣じんしんに過ぎぬのであれば、病魔に冒されるも、やむを得ぬ仕儀しぎと申せましょう。

 元海様は、それでも抗弁を志されたのでしょう。孤人の顔を見、しかし、ややあって嘆ぜられました。

「いつから、気付いていた?」

「疑いはひと月ほど前より。平陽令に万一があれば、臣下は行く先を見失います。故に懼れながら、内密にて探らさせて頂きました」

「そうか」

 再び、元海様が天を仰がれました。

「ならば元達、教えてくれ。この天への怒り、果たして、届きはするのかな」

 元海様が洩らされた、その呟きに。

 余人よじんなくば、孤人は投地とうち叩頭こうとうし、大いに悲嘆の声を上げたことでありましょう。

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