第二章 過ちばかりの道すがら

プロローグその1

 ―――2日後、朝。王都アンバルシア北区、王女親衛隊兵舎


「マーテーウースー!」


 自室のベットで眠っていたマテウスは、突然の出来事に一瞬でまぶたを開いた。身体を起こそうとすると、掛け布とは別の重みを感じる。顔だけを上げてその場所を確認すると、アイリーンがマテウスの胸板に横から上半身を預けて寝そべり、見上げるような瞳で彼を映していた。


「起きた?」


「……起きた」


 アイリーンの重みを無視して体を起こせば、ズルズルとアイリーンは滑り落ちていく。そうする事で彼女の柔らかな一部分の感触が。マテウスの身体を撫でるように動いて、マテウスの眠気を覚ましてくれた。


 アイリーンはもう少しの間そうしていたかったのか、表情が不服そうだ。


 しかし、マテウスからすれば、彼の方から王女殿下に申し立てたい案件が幾らでも挙がってくる。だが、それよりもなにより最初に聞いておかねばならぬ事があったし、気付かなければ機嫌が悪くなるであろう事も予想がついたので、マテウスはその義務を果たす事にした。


「おはよう。髪を切ったんだな」


「おはようっ。へへぇー。気付いた? 気付いちゃったかー。それで、その……なにかあるでしょ?」


 マテウスが指摘したとおり、アイリーンは背中まで伸びていた金糸のように透き通った輝くブロンドの髪を、肩上まで切っていた。馬鹿でも気付く変化に気付いてもらってニマニマと顔を緩める辺り、マテウスとしてはアイリーンに自身を侮られた気分だった。


 勿論、アイリーンにそのような気持ちはなく、ただ真っ先に見せたい相手に見せに来ただけなのだが、マテウスはその行為に特別な感情を見出そうとはせずに、こういう時どう動けばいいか……義務感のような受け答えを続ける。


「よく似合っている、可愛いな。君の子供っぽいイメージにはこっちの方が合うんじゃないか?」


「もう。途中までは良かったのに、最後~!」


 最後に余計な一言が加わったのは、マテウス自身も気付かぬ照れ隠しか。それに対してアイリーンから繰り出される、ポカポカと音が鳴りそうな両手を使った抗議の猛攻。マテウスは厚い胸板で正面からそれを受け止めるが、彼からすれば子犬にじゃれつかれている程度のダメージしかない。


「それより、反対されなかったのか? 長髪の女性の方が貴族受けはいいだろう?」


「されたわよ。でも、私は婚約者が定まってる身だし、これから先の公的の場ではウィッグを使えばいいだけだし。だから切ったの」


「そうか。しかし他にもなにか理由があるんだろう? 反対を押し切ってまでその髪型にした理由が……いや、君なら、ないと言い出しかねないな」


「あるわよっ! そっちの方がもっと重要なんだから。マテウス、私ね、やっぱり親衛隊に入るわ」


 マテウスはその答えに嫌悪感をあらわにするような重い溜め息を吐いた。彼は同じ問答を繰り返すのが嫌いだった。無益だからだ。時間を重ねる事でなにも生み出していない証拠ではないか。だから言葉使いも少しおざなりになる。


「何度も同じ事を言わせるな。また俺に1から同じ説明をさせたいのか?」


「聞いて? マテウス。私ね、マテウスの言葉を聞いてちゃんと考えたの。私の役目、私のやるべき事。確かに以前の私は余り王女としての務めを果たせていなかった。なんでもあっさりそれなりに出来ちゃうし、退屈だったから……ちょっとサボっちゃったりもしてたわ」


「ふん……それで?」


 しかし、アイリーンが話し出した内容を、マテウスは聞く事にした。彼の中での答えは変わらないが、彼女がなにを考えて、どう答えを出したか。その思考には真剣に向き合うべきだし、切り捨てていい物ではない。そう考えていたからだ。


 この点、アイリーンは幸運だった。答えが変わらないのであれば聞く意味もないと、話を聞こうともしない人間は往々にして存在する。また、同じ事を無策に何度も繰り返す愚か者が存在するのも事実。その点でマテウスは幸運だった。何故ならアイリーンは前述したような、愚か者ではなかったからである。


「でも、これから先は習い事をサボったりしない。王女として、皆に応えられるよう励む事にしたの」


「いい心がけじゃないか。だが、そうする事と訓練に参加する事がどう繋がるんだ?」


「教師の方々とお母様と話し合って、スケジュールを見直してもらったわ。今まで1週間、7日でやって来た事を5日にまとめてもらったの。おかげで少し早起きしなきゃだし、毎日あったお茶の時間や、自由時間はなくなっちゃったけど……1週間の内、2日も余暇が出来たわ。だからね、マテウス。この余暇をここでの訓練の時間に使わせて」


「お母様と話し合ったって……ゼヴィはその事を認めたのか?」


「えぇ。お母様も護身の術ぐらいであれば、心得ておいた方いいって仰ってくれたわ。その、肌に傷を残すような事はなるべく控えなさいとも仰ってはいたけど」


 生半可な護身を覚えさせたところで、アイリーンを狙うような犯罪者達に太刀打ち出来るようになるとは思えない。むしろ、反抗を示す事で被害を増やす可能性すらある。マテウスはそう考えていた。これは戦闘経験の少ないゼノヴィアとの意識の差だ。だが、女王の許可を得たと言われてしまえば、是非もない。


「マテウスも息抜きは必要だと言ってくれたよね? なら、私が王女としての務めを果たした上で余った時間をどう使おうと、協力……してくれるわよね?」


「言質も取られているという事か。さて、参ったな……」


「ダメかしら? マテウスは、そんなに……嫌?」


 ベット脇に2人並んで話す。マテウスが口元を押さえて考え込む姿に、アイリーンは不安そうな眼差しを送って答えを待った。正直、これ以上面倒事や再度誘拐される危険リスクを増やすのは遠慮願いたいというのが本音であったが、マテウスの発言に、アイリーンが真剣に向き合って考えた上での結果がこれであるならば、これはマテウス自身が撒いた種ともいえた。


(そうであるならば、己が摘み取るのが責任の取り方か)


「いや。断る理由が見つからなかっただけだ。だが、今度はもう少し早く相談してくれ。あんなに綺麗に手入れしていた髪まで、切る事はなかったと思うんだがな」


「……やった。やったっ! マテウスならきっと分かってくれると思ったわっ! ふふふっ、マテウスも長髪好きだったの? お手入れ、本当に大変なんだから。切ったのはその時間を省くって意味もあったんだけどね。それから、それからね……」


 マテウスの言葉の意味を理解したアイリーンは、彼に胸に飛びついて先程の不安そうな眼差しが、嘘のような晴れやかな笑顔を見せた。相変わらずパーソナルスペースの狭い王女殿下だな、などと心の内で呆れながら、次会った時は少し甘やかしてやるつもりだった事を思い出す。


 だからという訳でもないがマテウスは、不安から解放された反動とその喜びに、口を閉じる事を忘れてしまったアイリーンの気が済むまで、息抜きという大切な時間として、2人で過ごす事を選択するのだった。


 しばらくの間、部屋でゆっくりと話していた2人だったが、楽しい時間というのは流れるのが早い。今日はアイリーンにとっての休日ではないので、もう帰らなければいけない時間になったそうだ。


「おはようございます、マテウスさん。今、お呼びしようかと思っていた所なんですよ。フフッ、素敵な偶然。私達の相性がいいから……あら? そちらの方はどなたですか?」


 外まで送ろうと並んで食堂を通り過ぎようとした時、ちょうど食堂から出てきたロザリアに捕まった。そういえば、彼女とヴィヴィアナは、アイリーンにとって初対面だ。突然話しかけられたアイリーンは、ジッとロザリアの顔を注視していた。


 先日の夜から、ヴィヴィアナとロザリアは兵舎に住み込んでいる。ヴィヴィアナは親衛隊騎士の見習いとして、ロザリアには皆の教師として勤めてもらう事になったからだ。


 ヴィヴィアナに至ってはマテウスから言及すべき事はなかった。パメラやエステルにこそ後れを取るが、その実力は即戦力として期待出来た。


 ではロザリアはどうだろうか? マテウスがロザリアと話してみて分かった事だが、彼女は礼儀作法の一通り会得えとくしており、語学、算術などを代表するあらゆる一般教養に秀でていた。それを教えるという経験こそなかったようだが、エステルとのやり取りを見る限り、問題なさそうだとマテウスは考えていた。


 ただし、前述したように、教師として優秀(かもしれない)なロザリアが、マテウスにとって都合のいい人格者であるかどうかは別問題だ。彼女はアイリーンとマテウスの右腕が繋がれているのを確認すると、悪戯な笑みを浮かべて反対側の左腕へと回り込んで、ギュッと身体を寄せながら絡めるように両腕を回した。


「まぁマテウスさん。こんな可愛らしい彼女がいたんですか? だから、私がこんなにアピールしても、素っ気なかったんですね」


 マテウスの左腕に顔を乗せ、上目使いに見上げながら、自身の1番豊かで柔らかな部分を押し付けて、片手の指先をマテウスの胸板に伸ばしツーッと上から下へと走らせる。そんなロザリアの扇情的な行為は、すでに1度や2度ではない。


 1度そういうつもりはないと断っても懲りずに続けてくる辺り、彼女はこういう男をからかう行為が好きなのだろうと、マテウスはそう思う事にした。だから、そうして割り切ってしまったマテウス自身は、ロザリアの行動に対して、今更に情欲をそそられるような事もないのだが、それを見る者の反応は違う。


「マテウスは……マテウスは私の騎士なんだからっ。か、彼女じゃないけど、もっと大切な関係なのっ。ねぇ、マテウス、この人誰なの? なんで、そんなに仲良いの?」


 アイリーンはロザリアの真似をするように距離を詰めて、マテウスの右腕にすがり付く。これにはマテウスも困惑を示す。アイリーンには仕えるべき主君として、義妹の娘として、それなりの特別な感情はあるからだ。


 王女殿下としてこういった行為を止めさせるべき……そういった思いも強い。ロザリアはそうした彼の心の変化を目ざとく見抜いた。心の内で珍しい物を見るように感心して、アイリーンとマテウスを見比べて思わず笑みが零れそうになるのを、マテウスの左腕に顔を寄せる事によって隠した。


「彼女はロザリアだ。礼儀作法や座学の教師として、先日から住み込みで働いてもらっている。特別仲が良いという訳ではないが、彼女はこういう女性……」


「まぁ。私はもっと仲良くしたいと思っているのに、マテウスさんが冷たくするから、こういう態度を取っちゃうんですよ?」


「余り話をややこしくしてくれるな、ロザリア。彼女の名前はアイリ。週2日だが、ここで訓練する事になった。君の授業を受ける事にもなる生徒だ。俺より彼女と仲良くしてくれると助かるんだが、どうだ?」


 2人から同時に腕を抜いて、両手を上げるマテウス。そのまま腕を下ろそうとすると、2人が同時に掴もうとするので、マテウスは両腕を上げたままの姿勢で留まった。なんだ、この体勢は?


「そういう事だったら改めて。初めまして、ロザリアと言います。貴女の事はアイリさん、と呼んでいいですか?」


「初めまして、アイリです。ロザリアさんのお好きに呼んでください」


 マテウスを挟んだままの位置取りで自己紹介を終える2人。その自己紹介だけで、アイリーンは少し萎縮してしまっていた。ロザリアに彼女が良く知る人達と同じ匂いを感じたからだ。取り入る為の嘘を使いこなす、敵にも味方にもなる存在。事実、ロザリアは1度そういう貴族社会で生きていた女性だった。そしてさといロザリアは、アイリーンを萎縮させ、警戒させてしまった事にもすぐに気付く。


(少し、からかい過ぎたかしら?)


「ごめんなさい、アイリさん。そんなに心配しないでね。貴女からマテウスさんを取り上げたりしないわ」


「ううっ……信じていいんですか?」


「えぇ、信じて。アイリさんの反応が可愛くて、つい出来心でね。マテウスさんにとっても、アイリさんが1番みたいだし……ね?」


 視線を飛ばされても、マテウスは返しようもなく肩を竦めるだけだ。ところで、この2人の会話にマテウスの意思は介在かいざいしているのだろうか? そんな自問する事自体に、マテウスは少し虚しくなってしまった。


「だから、私は2番でいいの」


「「2番っ!?」」


「えぇ、2番手。アイリさんがいなくて寂しい思いをしているマテウスさんを、慰める為だけの存在。辛くて、報われなくて、切ないけれど……私、いいの。アイリさんの為なら頑張れるわ」


「えっ? えっ? マテウス。マテウス、これってどうなの? 私がマテウスの1番だから……あれっ?」


「アイリ、騙されるなよ。これは精神攻撃みたいなもんだ。そもそも俺は、寂しがってなどいないしな」


「えー……そこは寂しがって欲しいのに。マテウスの馬鹿っ」


「本当に、マテウスさんは女心の伝わらない人ですね。私はアイリさんの味方ですからね?」


「ロザリアさん……私……」


「あー、騙されてるぞ。それはもう騙されてるからな、アイリ」


 そこへ食堂から顔を出したレスリーが静々と歩いてきて、2人の間……マテウスの正面に立って、おずおずとマテウスの胸元の衣服だけを掴みながら、恥ずかしげに褐色の頬をハッキリ分かるまで紅く染めて、見上げ、囁く。


「あ、あの、3番手のレスリーが口を挟んで申し訳ないのですが……そろそろ朝食の、お時間なので」


「……最初から聞いていたのなら、もっと早くに助けに来てくれないか?」


 レスリーの告げる3番手という単語を否定する気力は、マテウスには残されていなかった。

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