王女との密会その3

 アイリーンが再びマテウスの元に訪れたのは、翌日の夜だった。昨夜と同じ女使用人の装いで、衛士にセクントス金貨を握らせて、すんなり中へと通してもらう。


「便利だけど、憂慮ゆうりょすべき事よね。これって」


「勉強になっただろ? 忠誠も金で買えるということだ」


 マテウスの身も蓋もない返答に、苦虫を噛み潰したような顔を見せるアイリーン。仕切り直すようにして、彼女はバスケットを開く。今日の中身はサンドイッチのようだ。


(少し豪華になってやがる。本格的に餌付けだな)


「それにしても昨日は流していたんだが、なんなんだ? その格好は」


「これ? これは、友達が変装にって貸してくれたんだけど、少しサイズがキツイのよね」


 フリルの着いたエプロンとスカートを掴んで、くるりとマテウスの目の前で回って見せるアイリーン。彼女の言葉通り、とある部分限定で衣装のサイズが合っていないようで、突出した胸元はボタンが止められず、柔らかな谷間が広がっており、臀部でんぶに至っては、スカートが張り出してしまっていて、尻のラインは勿論、下着の形まで浮き彫りになっていた。


「でも、可愛いでしょ? 友達は褒めてくれたの」


「そうか。いい友人を持ったな」


 マテウスのそれは皮肉であったのだが、アイリーンは気付いた風もなく笑顔で頷いていた。話が途切れたところで彼は椅子に腰掛けると、アイリーンは自然にベットへと腰掛けた。


 彼女のまるで誘うかのような仕草に、なにか一言告げるべきかともマテウスは思ったが、彼は今日もまた1食も喉を通してないので、先に食事を取る事を選ぶ。そこから黙々と食事を続けながら、アイリーンが本題を切り出すのを待っていたが、結局彼女はマテウスが食事を終えるまで静かに待っていた。


「それで、調べてきた……」


「あぁーそうだった。ねぇマテウス、服脱いでよ。服」


「はぁっ? なにを言い出すんだ、君は」


 突拍子もない言葉にマテウスが声を上げて驚く。アイリーンはそんな彼を無視して、手を引いてベッドへと座らせると、続いて彼の上着にまで手を伸ばす。


「ほら。昨日気付いたんだけど、マテウスって汗臭いわよ。お風呂、入ってないんでしょ?」


「それは、ここに軟禁されてるからな」


「だから今日は濡れタオル持ってきてあげたの。拭くの手伝ってあげるからさ、ほら」


「おい馬鹿、やめろ。分かった。脱ぐから、分かったから、自分でやらせてくれ」


 マテウスは、上着の裾を掴んで脱がせようとしてくるアイリーンの手からなんとか逃れて、自ら脱ぐ事で上半身裸になる。確かに身体は拭きたかったがなんでこんな羽目に、などと自問していると、彼女が濡れタオルを持ったまま背後に回りこんでくる。


「背中、拭いてあげるわ」


「1人でやれる。余計な事をするな」


「ふふっ。私がしてみたかったの。いいからいいから」


 王女である彼女が、誰かの為になにかをするというシチュエーションは、余りないのかもしれない。そう考えれば、現状のこれはただの興味本位なのだろう。そう結論付けると、マテウスは開き直って好きにさせる事にした。


「ねぇ? 傷が多いみたいだけど、大丈夫かしら? 痛くない?」


「大丈夫だ。全部古傷だよ。気にする必要はない」


「これも?」


 アイリーンがおそるおそる触れたのは、マテウスの首の右後ろにある痕だった。それはエウレシア王国の奴隷や、犯罪者に押し付けられる烙印なのだが、彼女にはその知識がなかったので、分かる筈もない。


「それは、ファッションだな」


「そうなのね。痛そうだしあまり似合ってないから、もう止めておいた方がいいと思うのだけれど」 

 

 自分で誘導しておきながら、彼女の呑気な感想に笑いを堪える事になったマテウス。彼はそうだな……と、静かに答えを返す。それきり、しばらく2人の間に会話はなかった。冷たい濡れタオルで、筋肉の張り出したマテウスの背中を擦る。それだけの単純作業に、鼻歌が零れるほど上機嫌なアイリーンだったが、マテウスは痺れを切らして自分から話を切り出す事にする。


「さっきは話題を変えたな。調べてきたんだろう? 俺のことを」


「……貴方って凄かったのね、マテウス・ルーベンス伯爵。中央騎士団の団長にして、遠征においてはエウレシア軍を率いた大将軍。戦場での輝かしい戦歴も枚挙にいとまがない」


「はっ、他人から聞いているとまるで戯曲ぎきょくに伝わる夢物語だな……だからだろうな。夢が夢らしく終わりの時を迎えたのは」


「12年前、ドレクアン共和国との戦争中、王命に背いて部隊を壊滅させる。その出来事さえなければ、ドレクアンの領土の半分は、エウレシアに描き換わっていたと指摘される程の大戦犯」


「そして男は爵位、称号、姓名……その全てを奪われて騎士団から追放、今に至るわけだ」


 2人がそれきり口を閉ざすと、アイリーンがマテウスの背中を擦る音だけが響いた。動かしていた両手を止めて、今度はアイリーンから話を切り出す。


「どうして、そんな事をしたの?」


「そうするよりなかっただけだ」


「それじゃ分からないわよ」


「過去を知ったところで、どうしようもないだろう。現状で大切なのは、君が必要とした男は過去に王を裏切り、多くの命を犠牲にして、のうのうと生きている恥知らずだって事だ」


「そんな言い方……」 


「事実だよ。まだ俺を恨んでいる人間は多くいるだろうな。そんな奴を側に置いてどうなる? 君に敵が増えるだけだ」


 マテウスがあえて冷たい言葉を選んだのは間違いないが、1つの側面として、その言葉は正しかった。アイリーンは返す言葉を失って、項垂うなだれる。現実に心折れた様子の彼女に対して、後は優しい言葉を選んで、背中を押してやる……自身のやり口が卑怯だと彼は分かっていたが、子供相手には相応だとも考えていた。


「大丈夫さ。なるべく護衛から離れなければ、そうそうあんな事起こるものでもない。いつか君に相応しい騎士が見つかる。今回は運が悪かっただけだ。これも君の為なんだよ」


 マテウスは自身が口にする歯の浮くような思いやりに満ちた温かい台詞に、逆に心は冷えきっていくのを感じていた。彼はアイリーンに背中を向けていて良かったと、内心で思う。さぞや酷い表情を浮かべている事が、自分で分かったからだ。


 背後でアイリーンが動く気配を感じる。見送りの準備に腰を上げようとしたマテウスの背中に、激痛が走ったのはその直後だった。アイリーンが濡れタオルを鞭のように使って背中を叩いたのだ。背中に真っ赤な痕が残る程に、本気でだ。


「痛ってぇ……なに考えてんだ、このっ……」


「私の為を思うなら、私の傍にいてよっ!!」


 マテウスが振り返ると、アイリーンはベッドの上に膝立ちになって、怒気をはらんだ瞳で、彼を見下ろしていた。


「なにがそうそう起こるものでもないよ。なにがいつか見つかるよ。運が悪かった? 君の為? 余計なお世話よっ!」


 アイリーンは息を荒くして、少し声を震わせていた。彼女を重んじるのではなく、彼女に王女の立場を押し付けるだけの、優しい言葉の皮を被ったなにか。そこにアイリーンを見ようとする者はいない。要約してしまえばそれらは全て、いいからお前は大人しくしていろ、という事に他ならなず、大人しくしてさえいれば、王女そこに収まるのはアイリーンである必要は一切ないのだ。


 アイリーンが何度も、幾人にも、繰り返し浴びせ続けられたそういった内容の言葉を、信じようとしたマテウスから掛けられて、強い裏切りを感じた。


「私だって、嘘が必要な事ぐらい知っているわ。でも、でもね? 2人きりの時ぐらい、マテウスまで皆と同じような嘘は吐かないでよ」


 アイリーンにとって、誘拐されたあの日。短い時間ではあったが、初めて一緒になって窮地きゅうちを潜り抜けたあの時。マテウスは確かに自身を見て、協力して生き延びようとしてくれた。


 アイリーンに誘拐の原因があったとはいえ、あの瞬間を生き残るには、彼女の味方はマテウスでなければならなかったし、彼の味方はアイリーンでなければならなかった。生まれ落ちて14年。あの時ほど、アイリーンに自身の存在を認識させてくれる出来事は、他になかったのだ。


 しかし、アイリーンの目尻に浮かぶ輝きを見てさえ、マテウスの心は動じなかった。ただ、自分が言葉を間違えた事を理解しただけだ。何度も嘔吐えずきながら、掌で瞳を拭う彼女の姿を見つめながら、ジッとマテウスは考え続けたが、結局彼女が感情的になった理由に辿り着けなかった。これまでに吐いた嘘と、今吐いた嘘。彼にとっては、同じ嘘に違いなどあろう筈もないのだから。


「敵が増えたっていい。今みたいに敵か味方か分からないままより、よっぽどマシ。この人は私の味方だってハッキリ言える人が、傍にいてくれる方がずっと嬉しい」


 ただ、マテウスはその理由に興味が沸いたし、続けられた言葉で、子供であると軽んじていた彼女の器を、はかりなおす必要がある事に気付く。


「悪いが俺には君の言いたい事の全てを、理解は出来なかったよ。だがな、俺からも言わせてもらおう。ハッキリ言って今の君は相当面倒だぞ」


「知っているわ」


「それで、出会って何日も過ぎない相手に、命をかけて自分を守れだと? 追放から10年以上、やっとほとぼりが冷めて落ち着ける場所を見つけた俺を、敵の渦中に引っ張り込んでか?」


「それも分かっているわ」


「そんなものが俺にとって、なんのメリットになるんだ?」


 適当な嘘が通らないなら、今度は正論をぶつけてみる。マテウスはアイリーンを試しただけだった。彼女の答えがどうであれ、立場的な弱者であるマテウスの答えは変わらない。議会の決定に従うしかないのだ。


「私が貴方の味方になってあげる」


「ハッ……俺に味方は必要ない」


「貴方が必要とする味方に、私がこれからなるの」


 マテウスはアイリーンの答えを1度笑い捨てて一蹴したが、重ねてかけられる言葉にはなにも返す事が出来なかった。心に決めた方針を忘れかけて、道理も根拠も説得力の欠片もない彼女の言葉を、信じてみようという気にさえなった。


 既に無くした筈の希望や期待などと呼ばれる青い感情を、アイリーンの剥き出しのそれが呼び起こす。その反面で冷静な自分自身が、14の小娘に感情を振り回されている事を、ひたすら滑稽こっけいだと眺めていた。


 だが、アイリーンは王女であり、あの女王ゼノヴィアの娘。マテウスにとっては、それだけで特別なのだ。この葛藤も、助けた時に溢れ出た感情にも、これで説明が付いてしまう……だから、覚悟を決める必要があるようだ。


(認めねばならんな。彼女は俺にとって特別だ)


「そうか……なら、味方らしく働いて貰おうか」


「えっ? 働くって、どういう……」


 押し黙っていたマテウスが急に声を発しただけでなく、その内容が理解出来なくて、反射的に質問を返すアイリーン。その声の震えは収まっており、鼻を啜るような音も消えていた。


「先日の昼の提案、俺にとっても君にとってもいい話だったよ。だが、俺は断った。俺が何故そうしたのか、分かるか?」


「マテウスが捻くれていたから」


「ははっ、それは認めるがな。もう少し真面目に考えてみてくれ」


「…………ごめんなさい。わからないわ」


「あれが、俺達だけにしかいい話じゃないからだ。議会が俺達の一存を許すのか? ジェロームの立場はどうなる? 今、君を守ってる護衛達も気に入らないだろう」


「そんなの、貴方の力を知れば、皆が認めてくれるわよ」


「気に入らない者に対して、そんな機会は与えられない。例え、目の当たりにしたとしても、信じようとしないのが普通だ」


「だとしたら、私になにをさせようって言うの?」


「だから策が必要なんだよ。どんな形でもいい。議会やジェロームや護衛達、この件に関わってくる奴ら全てだ。彼ら全員の賛同を得る必要はないが、彼ら全員が止むを得ないと思える、落とし所を作ってみせろ」


 アイリーンはマテウスがなにを言わんとしているのか理解した。理解したが故に口元に指を当てて静かに考え込んでしまう。彼女が今回のような頭の使い方をするのは、生まれて初めての事だろうから、マテウスは少し助け舟を出す事にする。


「昨夜だ。君がこの部屋に入ろうとした時、衛士に止められたよな」


「えぇ、そうね。でも、今夜は金貨を用意していたから、すんなり入れたわよ?」


 急に飛び出た今までとの繋がりのない話に、怪訝に眉をひそめて言葉を返すアイリーン。それがどうしたのだと、更に続きを促す。


「そうだったな。昨夜の君を部屋に入れようとしなかったのは、それが彼等の任務だったからだ。だが、金貨を彼等に手渡す事によって、俺達に融通ゆうづうしてくれた。それは何故だ?」


「それは……金貨という見返りがあったからでしょう?」


「そういう事だ。彼等は別に俺達が会う事に賛同はしていない。だが、金貨という落とし所を得て、許す気になったんだよ」


 マテウスの言葉を聞いて、ハッと顔を上げるアイリーン。彼女の頭の中で、今までの話と、今の話が1つに繋がったようだった。しかし同時に、今回の件がそう上手く応用出来そうにない事にも気付いて、顔を苦渋に歪める。


「俺は子守はごめんだ、アイリーン。俺が必要とする味方になるんだろう? なら、君の力で俺を助けてみせろ」


「偉そうに……でも、やってみせるわ」


「それが出来るのなら、俺も君の力になろう」


 アイリーンの瞳に力が宿る。それを見てマテウスは挑戦的に笑った。

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