王女との密会その2

 本当に外界と同じ時が流れているのか、疑いたくなるようなゆっくりとした時間の中で、ジッと動かずにいたマテウスは、重い扉ぎ開こうとする音に、再び身体を起こす。


 室内に入って来たのは、既に常連となった衛士で、その両手にはマテウスの夕食を持っていた。そのままそれを、テーブルの上に置いて、普段通りに手付かずの朝食を持ち去ろうとしていた衛士が、ふと、マテウスの視線に気付いて立ち止まる。


 普段はベットから動こうとしないマテウスが、身体を起こして自身を注視している事に、疑問を抱いたからだ。


「どうした?」


「いや、すまない。なんでもないんだ」


「そうか。そう言えば、昼間の話だが……どうして断ったんだ?」


「昼間の? 王女殿下の勧誘の事か?」


「そうだ。俺にはあれはいい話に思えたがな……」


 思えば彼ら衛士達も、朝から晩までこの何事もない退屈な空間の警備を任されているのだ。2人で警備しているとはいえ、3日も過ぎれば、話のネタも尽きた頃合だろう。話題を求めてか、それとも退屈を共有する一体感からか……どちらにせよそれは、世間話程度の問い掛けだった。


「確かに、俺と王女殿下にとってはいい話だったのかもしれないな」 


「ならどうして?」


「今の職場に思い入れがあるんだよ」


「ふーむ、そうだったのか。早く戻れるといいな。それと飯、食ったほうがいいぞ」


「あぁ。いつも悪いな」


 マテウスはまた、心にもない返答を選ぶ。彼にとって、無遠慮な上に、互いに名も知らぬ新人後輩や、知人程度の同僚や上司しかいない職場などには、思い入れはなかったが、聞けばそんなものかと納得してしまいそうな、無難な回答を選んだ甲斐あって、衛士の男からはそれ以上の追求もなく、朝食を持って退室していった。


 その様子を見送りながらマテウスは、アイリーンに嘘ばかりと評された事を思い出した。これまでのやり取りを思い返して、確かにそうだなと思った反面、尋問に対しては真実しか口にしていない事にも気付く。


 マテウスにとって、嘘か真か、どちらを選択するかなど、自衛の手段でしかない。今は偶然にも、嘘が必要な場面が重なっただけだろう……誰にでもなく、そう言い訳するような独り合点がてんをして、再びベットへと横になると、外界を閉ざすようにまぶたを下ろした。


 そうしてまた2、3時間、時が流れる。太陽は完全に沈んでおり、既に室内は見渡す事すら困難な程に薄暗く、扉向こうから差し込む僅かな灯り(衛士達が警備用に灯す松明の火)が、マテウスにとって唯一の光量となっていた。


 本来なら、扉とは反対側に位置する、格子状の窓向こうから射し込む月明かりが期待出来る時間帯なのだが、夕暮れ時からシトシトと降り始めた雨の所為せいで、今晩はそれも届かない。


 このように陰気な空気が漂う時間帯に、訪れる者があろう筈ないのだが、どうやら今晩に限っては、少し様子が違うようだ。うつらうつらとしていたマテウスの耳に、扉向こうから声が届く。


「面会なんて聞いてないぞ」


「直接話したい事が……」


「そういう訳にはいかない。お前、どこの使用人だ」


 聞こえてくるのは、内容に少しの差異はあれども、昼間と同じような押し問答。本来なら、それが仕事とはいえ、同じ事の繰り返しは大変だろうと、同情する所だろうが、今、扉の前に立つ衛士達は、夜間業務を担当する者達であり、昼間とは別人。彼等とマテウスとでは、接点が薄く(昼間と違って入室してくる機会がない)、挨拶すら交わした事がないので、特になんの感情も湧かなかった。


 それに、マテウスも衛士達と同じく、面会があるという話を聞いていなかったので、身に覚えのない訪問者の事など、自身には関係ないと捨て置いても良かったのだが、生憎あいにくその声には聞き覚えがあった。彼は立ち上がって、重厚な扉唯一の隙間……監視用の小窓から、逆に覗きこんで外の様子をうかがう。


 外には衛士達の他に、1人の女が立っていた。衛士2人に取り囲まれていている女は、大きめのバスケットを両手で下げて、自分の正体を隠すようにフード付きの外套マントを目深に被っている。外套の下から、アフタヌーンドレスに白いエプロン姿という、王宮の正式な女使用人メイドの装いが見えたので、女使用人なのだろうという事だけは、見た目から予想出来た。


「なにをしている? 早く顔を見せろ」


「ひゃぅん! ちょっと、触らないで……ください」


「なんだ? 態度の悪い使用人だな。おい、お前も手伝え」 


 衛士が言うように、女にはどこか隠しきれない高慢さがあった。それが衛士2人のしゃくに障ったのか、2人は同時に彼女の両腕を掴み、手繰り寄せ、上から頭を押さえつけるようにしてフードを鷲掴み……


「おい、待てっ。俺の客なんだろう? 手荒な真似はやめてやってくれよ」


「あぁん? なんだ、お前まで。もしかして、この女の事を知っているのか?」


 マテウスは、思わず声をかけてしまった自分に、頭を抱えたくなった。しかも、なにも考えずに声の掛けてしまった為に、更に衛士の機嫌を損ねてしまっていたようだ。


「いや、知らないな。だが、俺に用があって来たんだろ? だから頼む。2人だけで話をさせてくれないか?」


「お前、自分の立場を勘違いしてないか? どうしてそんな事を……」


「これでどうだ?」


 マテウスは、衛士の言葉を途中で遮って、小窓から彼を狙うと、指先を使って金貨を1枚弾き飛ばす。衛士は最初、胸元に飛んできたそれが、なんなのか分からなかったが、ワタワタと両手で受け止めて、モノを灯りに照らしす事で、ようやくその価値を理解する。


「金貨だと? 本物のようだが、一体どうしてこんなものを、お前が持ってるんだ?」


「昼間に王女殿下から頂いたんだよ。品質は保証するぜ?」


 それはエウレシアで最も流通量の高い、セクストン金貨だった。価値にすると、彼ら王宮勤めの給料1ヶ月分にはなるだろう。衛士2人の意識は完全に金貨へと奪われる。正体不明の女使用人の事など、忘れてしまったかのようだ。


「しかしなぁ……」


「1時間でいい。1時間、そこの女を俺と一緒に閉じ込めておくだけで、俺達は皆幸せになれる」


「おい、いいんじゃないか? どうせ誰も来ないんだ。バレやしないだろ」


 あっさりと衛士の1人がマテウスの提案に乗った。しかし、後のもう1人が、まだ決断しきれずにいた。彼を喰い止まらせるのは、道徳か、それとも正義感か……いずれにせよ、金で揺れる心なら、後一押しも金でいい。


「お前達は2人だったな。これでどうだ? 分けやすくなっただろう?」


 セクストン金貨をもう1枚、小窓からチラつかせるマテウス。衛士達は顔を見合わせて大きく頷き合うと、扉を開く為の準備を始めた。


 すぐに女が部屋の中に入って来る。マテウスはそれを確認して、約束の金貨を衛士に手渡した。それと同時に衛士はマテウスへと顔を寄せ、声を潜めながら話しかける。


「イイコトするんなら、もう少し時間が欲しいんじゃないか?」


「指名料だけでなく、延長料まで踏んだくる気か? それに、こっちは3日も触れてないんだ。多分、1時間もモタねーよ」


「ははっ、違いない。終わったら声かけろよ」


 軽くマテウスの肩を叩いて出ていく衛士の様子は、先程までの横柄な態度が嘘のような調子の良さだが、大抵の人間はこのぐらい現金に出来ているモノだ。気にしても仕方がないだろう。


 扉が閉ざされて、再び薄暗くなった部屋で、女と2人きりになるマテウス。彼は改めて彼女を見やった。彼女は、椅子にもベットにも腰掛けようとせず、フードを目深に被ったまま、部屋の中央で棒立ちになっている。


「突っ立ってないで座ったらどうだ? ただしベットに座るなら、その濡れた外套は脱いでくれよ」


 どうせ椅子に腰掛けるだろうと思って、冗談のつもりで掛けた言葉だったが、それを真に受けた女はテーブルの上に、両手に提げて持ってきたバスケットと、羽織っていたフード付きの外套をそれぞれ並べて置いて、ベットへと腰掛ける。


 マテウスは改めて冗談だと言い直すのも面倒だったので、彼女の横に並んでベットへと腰掛けて、もう1度自分から話し掛けた。


「それで、なんの用だ? いや、なんのつもりだ? なにを考えているんだ? 自分の立場が分かっているのか? 王女殿下サマ?」


「なによ……また礼儀知らずに戻ってるじゃない」


「同じ過ちを繰り返さない程度に、知恵がある相手にならそうしてやるよ」


「だから変装して、1人で来たんでしょ?」


「それで? 1人でなにが出来た? 昼間と結果が変わったか?」


「それは……その……」


 押し黙ったアイリーンの沈痛な面持ちが、まるでこちらが悪い事をしたような罪悪感をマテウスに抱かせる。彼は苛立ちを散らすように頭を掻きむしった後、もう1度彼女へ向き直った。


「はぁ……ひとつひとつでいい。まずは、なんの用だ?」


「……それを渡したかったの」


 指差した先はテーブル上のバスケット。マテウスは立ち上がって、中身を隠すように上から覆ってあった布を取り払う。中には果物とパン、それに葡萄酒のボトルが1本入っていた。


「それは私の部屋に置いてあった果物と、今晩の夕食に、こっそり隠して取っておいたパンと葡萄酒。貴方の好みに合うかどうか分からないけど、傷んでないし、安全よ」


「……」


「まだ信用出来ない? 目の前で食べて見せようか?」


「いや。頂こう」


 マテウスは3日分の渇きと餓えを満たす為に、果物に噛り付き、パンを頬張り、それを葡萄酒で流し込む。味わう余裕すら見せず、搔き込むように食べるマテウスの姿を、アイリーンはホッと肩を撫で下ろして、微笑を浮かべながら静かに眺めていた。その視線に気付いたマテウスは、食事する手を止めて、彼女へと視線を戻す。


「なんだ? これを対価になにかやらせようってんなら、お断りだぞ」


「ふふっ、嘘つき。喉を通らないなんてやっぱり嘘じゃない。それに……その、ようやくお礼が出来たかなって」


 控えめな微笑は昼間とは別人のようだった。彼女なりにマテウスが満足いく謝礼を、ずっと考えていたのだろう。しかし、素直から程遠いマテウスは、自身が餌付けされているような現状が、余り居心地良くなかった。


「どうして俺が毒を警戒していると思ったんだ?」


「私にもあったからね、結構前の話だけど。それに……今回は、思い当たる事もあったし」


「確か、ジェロームだったな」


「貴方も疑っていたのね。食事まで警戒していたのは、それが理由なんでしょう?」


「彼の軍靴は、君を誘拐した奴等の装具と同じだった。グランディッヒ社製、ハイフリューゲル。高性能だが故障もしやすくてな……エウレシアでは余り使われていない装具だ」


「たったそれだけで疑ったの? 食事もとらないぐらいに?」


「これは過程の話だが、誘拐犯達全員の装具を取り揃え、更に第3王女の側近ジェロームにまで影響力が及ぶ黒幕がいたとしてだ……そいつは目撃者を殺せとオーダーしていたんだぞ?」


「影響力のある王宮内で、目撃者である貴方を、殺してしまおうと考えても、可笑しくはない……って事?」


「唯一の目撃者を自覚しているなら、出来る警戒はしておくべきだ」


 マテウスからここまでの説明を聞いても、彼は少し疑心暗鬼になりすぎているとアイリーンは感じたが、彼自身が警戒を解こうとしない以上、無理強むりじいをしても仕方ないと、この件については言葉を収めた。


「逆に聞きたい。どうしてジェロームを側に置いている? 危険だと感じているんだろう?」


 マテウスには、アイリーンがジェロームに向けて見せた、気を許した表情や、昼間のようなやりとりを思い出す。彼にはそれ等が、警戒心を抱いている姿にはとても見えなかった。あの全てが、アイリーンの演技だったとするのなら、彼女はマテウスなどより、よっぽどの演技派だ。


「だって、ジェロームが直接私にどうこうしてくる事は、絶対にないもの。彼はリンデルマン侯が推薦した私の為の騎士なの」


 リンデルマン侯。エウレシア王国西部、ラーグ領を治める領主の事だ。代々に渡ってエウレシア王国に仕え続ける大貴族で、議会にも名を連ねる、政治的影響力の強い重鎮。マテウスとて、この事件を彼が背後で操っていると言われれば、納得しまうような男であった。


 しかし、ジェロームが直接アイリーンに斬りかかるような安易な計画をリンデルマン侯が立てたとして、もしそれが露見するような事があれば、リンデルマン侯の面目は丸潰れ。その地位の全てを、失う事になるだろう。そう考えると、アイリーンの言葉通り、己の立場を危うくするような指示をジェロームに下す理由が、彼にはないのである。


 アイリーンの口から、随分な大物の名前が出てきた事に驚いたマテウスだったが、それと共にあの執事のような線の細い男が、騎士だという事実にも、驚きが重なった。


「ほう、騎士ね……ん? ならば今回の件の黒幕はリンデルマン侯だと?」


「それはどうかしらね。ジェロームはその、ドレクアン人だから」


 ドレクアン共和国。エウレシア王国西部国境の先にある国の事だ。長きに渡る戦争の後、ようやく10年前に休戦協定を結んだものの、国交はまだ回復しているとは言い難い状態である。


「確かリンデルマン侯には、ドレクアンとの外交官という顔もあったな。リンデルマン侯を通じて、まんまと王宮に忍び込んだドレクアンのスパイ……という可能性もあると言いたいのか?」


「なんにせよ、全てが明らかでない以上、彼を無下に扱うわけにはいかないのよ。彼は私のお目付け役でもあるからね」


 マテウスにはお目付け役という意味が理解出来なかったが、ジェロームを側に置いておく理由は分かったので、それ以上は同じような質問を続けるよりも、違う疑問に付いて問い掛けた。


「それで昼間の件に戻るが、どうして俺なんだ? 王女の君ならジェロームを除いても、他にいくらでも……」


「王女としての私じゃ駄目なの。私は私だけの騎士が欲しい。私が選んだ、私だけの力になってくれる存在」


「…………それが、俺だと?」


「貴方との出会いは王女としてではなかった。肩を並べて一緒に生き延びた、その……ゆ、友人? でしょ? また私を守って……私の騎士になって? マテウス」


 マテウスの脳裏に昼間の光景が思い起こされる。皆に敬意を払われながらも、その実は誰もアイリーンを見ていない光景。彼女の後ろにそびえる、権力や血筋にひれ伏しているだけの、冷たい景色を。


 そうして思い起こしている間を、黙りこくってしまうマテウス。その沈黙が居たたまれないのは、アイリーンだ。彼女は恥ずかしい事を言っている自覚もあるようで、頬を朱く染めながら、それでもマテウスの両手を握って、祈るように見上げた。


 マテウスに遠い昔の記憶と共に、熱いものが込み上げるのを感じる。しかし、彼はそれ等を全て押さえ込んだ。アイリーンの事を気の毒だとも少しは思ったが、彼にはこの件に関して、関わり合いを避けなければならない理由があった。


「えっ? ……ちょっ、きゃっ! ……マテウス……そのっ、あんっ」


 マテウスは、自身の両手を包むように握る小さな両手を1度振り払い、片手で掴み直すと、ベッドに張り付けるようにアイリーンを押し倒した。そして、上から覆い被さり、空いたもう片方の手で、喉を押さえつける。


「密室で2人きりになった時、こうなるとは考えなかったのか? 声を出して暴れてみろ。誰も助けに来ないだろうがな。なんせ君は今、ただの女使用人だ」


 マテウスは、一際低い声を作ると、アイリーンと鼻先が触れ合う程に顔を寄せて、彼女にだけ聞こえるようにして、静かに恫喝する。密着させたマテウスの身体が、アイリーンの豊かな胸を押し潰す。彼女は触れ合う箇所が増える度に、身体をビクンと震わせて反応した。


「あっ、んっ……好きに……すればいいわ」


「これも嘘だと思っているのか?」


「ひぅっ、この身体は私の力だもの。貴方を落とせるなら、使い所として悪くないわ……っん!」


 アイリーンの過剰に反応する身体や、羞恥に耐える表情から、その言葉がただの強がりだと、マテウスにはすぐに分かった。だが同時に、瞳の奥に映る、強い信念にも気付く。それに気付かされたマテウスは大きく溜め息を吐きながら、身体を起こした。


「はぁ~……もういい。やめだ。勝手にしろ」


「んっ……ふぅ……そ、それって私に仕えてくれるって事?」


「議会がそれを通したのなら、俺に拒否なんて出来ないしな」


「それで仕えてくれたとしても、意味がないわ」


 沈んだ言葉を最後に、今度はアイリーンが押し黙ってしまう。マテウスはその言葉の意味を避けて、ひとつの名前を告げた。


「マテウス・ルーベンス」


「……え? 貴方、姓があったの?」


 この世界では、姓を名乗る事が許さているのは、貴族、あるいは一部の特権を手に入れた上級市民のみ。つまり、優秀な家系や、血統である事の証なのだ。


「王宮に長くいる奴にでも、そいつがなにをしたか聞いてみるんだな。その上でまだ俺を使いたいと言うなら……その、まぁ、少しは力になってやれるかもしれない」


 呆然としていたアイリーンの顔に、花が咲いたような笑顔が溢れる。溢れ出る喜びを抑えきれずに、勢いよくマテウスに飛び付いて、彼を強く抱き締めた。


「ありがとう。マテウス・ルーベンスね? 明日までに調べておくわ」


「あぁ。分かったから離せ。その、色々とあたってる」


 アイリーンがマテウスの胸板に顔を埋めて、強く抱きしめながら動く度に、彼女の柔らかい部分が触れた。マテウスはそれに対して、躊躇ちゅうちょした声を漏らす。彼が両手を使ってアイリーンの両肩を掴み、引き剥がそうとすると、また彼女は声を上げながら身体を震わせて反応し、一気に飛び退いた。


「きゃぅんっ! も、もうっ。急に触らないでよ。バカ」


「なら急に抱きつくな。しかし君はベタベタ触ってくる割りに、触られるのは嫌がるんだな」


 出会った当初、マテウスが押し倒してしまった時から、彼が不思議に思っていた内容だったが、自分には関係ないと流していた疑問だった。それを今更ながら彼が尋ねると、アイリーンは座りなおしながら、気まずそうに視線を反らす。


「えと、その……私。私ってさ、実は生まれつき敏感肌なのよね」


「うん? なんだって?」


「敏感肌よ。着替えとか手伝って貰うから、女の人に触られるのは大分我慢できるようになってきたんだけど、男の人に触られるのは全然慣れなくて……触れられただけで、くすぐったかったり、むずがゆかったりで、変な声でちゃうしで大変なのよ……って、ひゃぁうぅ!」


 マテウスが試しに、とばかりに指先を使って、アイリーンの背中をなぞるように下から上へと走らせる。すると彼女は身体を震わせて、見事な反応を見せてくれた。アイリーンはそんな悪戯いたずらから逃れる為に、飛び跳ねるように立ち上がって、顔を真っ赤にしながらマテウスを見下ろす。


「もうバカぁ! 人の話を聞いてたのっ!?」


「実際に試した方が早いだろう。おかげでよく分かったよ」


 マテウスはなにかあった時、黙らせるには都合が良さそうだな、などと考えながら、両手を小さく挙げて表面上は素直に謝っておく。アイリーンはそんな彼の内心を見透かしてか、冷ややかな視線を送りながら衣服を正した。


「もう、いいわ。今日は遅いし、また明日ね」


 そう告げると外套を羽織りなおし、部屋に入ってきた時と同じように目深に被る。彼女がバスケットを片手に提げたのを確認して、外の衛士に声をかけようと立ち上るマテウス。しかしアイリーンは、後ろからクイっと彼の腕を軽く引いて、それを止める。


「なんだ?」


「さっきの話、お母様と私の身の回りの世話をしてくれる使用人しか知らない秘密なんだから。他で言っちゃダメよ?」


 アイリーンの忠告に、マテウスは適当な頷きを返した。そもそも、口外などする必要も相手もいないのだから、真面目に受け止める必要がないからだ。


 しかし、随分と懐かれてしまったな……そんな思いを抱きながら、去り際に昼間と同じように小さく手を振るアイリーンを見送った。

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