王女との密会その1
―――3日後。王宮内捕虜収容室
マテウスは、鉄格子で遮られた小窓向こうに広がる青空をボーッと見上げていた。小窓から吹き込む風は湿り気を帯びていて、彼に雨の気配を感じさせる。しかし、今の彼にとって、外の天候の変化など無価値な他人事。何故なら、あの王女誘拐未遂事件よりこの3日間、彼はこの部屋に軟禁状態だったからだ。
マテウスが居住するにあたって、部屋に用意されたのは、質素なベッドと小さな円形のテーブルと、そのサイズに背丈を合わせた椅子が2つ。そして、テーブルの上に置かれたマテウス用の朝食。だが、これは手付かずのまま冷めきっていた。
当然トイレも、この部屋を出て右手、突き当たりに用意されていたが、そこをマテウスが利用するには、分厚い鉄板を仕込まれた重い扉の向こうに並び立つ、衛士の同伴が必要不可欠で、その上に部屋を出ている間はずっと、両手に拘束具を
だから、ここに軟禁されてからの生活の大半を、マテウスはベッドの上に、横になる事でやり過ごしていた。1日目はこの部屋への客も、多かったように思う。拷問こそされなかったが、
て、代わる代わるにされた。当日の状況、対応、マテウスの身辺から余罪の有無いたるまで、根掘り葉掘りを暴かれた。
マテウスは彼等の問い1つ1つに、慎重に同じ返答を続けた。たった1つの
1つマテウスに
2日目は1日目に反して、事務的な連絡事項に2,3時間程度掛けただけで、面会は終わった。自身の身柄についても、保留中であると伝えられて、マテウスが所属する警備会社にも取り次いでもらえた。まぁ、この状況で会社に帰ったところで、自分の居場所が残されているかについては、疑問の余地が残ったが。
そして3日目の現在……時刻は昼を迎えようというのに、未だに訪問の姿がなかった。その所為もあって、部屋の中はまるで、忘れられた孤島のような静けさだったが、たった1人だけ、いつも部屋の様子を伺いに来る衛士が、朝食を運んでくれた事で、彼は自分の存在が忘れられた訳ではない事を知った。
ただしマテウスは、ここに軟禁されてからの3日間、与えられた食事の一切を口にしていなかった。今日も食べないのか? と、食事を運んでくる衛士の1人が、マテウスに対して当然の疑問を投げ掛けるが、彼は緊張で喉を通らないんだと、思ってもない適当な返答をする事で、その疑問を受け流した。
この3日の絶食によってマテウスは、確実に体力を奪われていたが、例えそうだとしても、追加に後1週間は絶食を粘ると、心に決めていた。トイレに行けば、こっそりとだが少量の水分補給も出来たので、もう少し延長する余裕すらある。
とはいえ、余計な体力の低下を防ぐ為には、動かずにいるに越した事はない。そう考えるマテウスは、ベットの上に横たわって、空腹も喉の渇きも極力抑える為に、ただジッとしているだけで時間をやり過ごしていた。
この状況のまま、ただただ時間が流れていくというのは、普通の者なら気が滅入りそうなものだったが、マテウスはそういう状況に対しても強かった。
彼は静かに横になっている間、今の状況に対して、安堵も懸念も期待も失望も楽観も悲観もしていなかった。その代わりに、雨が近づいている事や、食べるつもりもない今晩の
ここがもし童話の世界ならば、一国の王女を助けた男には、次のページでは、金銀財宝と王女様のキスが与えられて、その次のページでは、2人は幸せな結婚を経て、満面の笑顔で幕を閉じるのだろうが、ここは非情なまでの現実。ただのオッサンにはこの仕打ちがお似合いだと、そんな諦めの境地に達しているマテウスだからこそ、出来る時間の過ごし方だった。
そうしている内に、正午を過ぎて、上りきった太陽が少しまた落ちてきた頃合い。マテウスは、来訪者の気配に身体を起こす。その来訪者がもたらすのは、厳しい事情聴取か、希望に繋がる
聞き覚えのある高く幼さを残した声。その声の主に対して、衛士達は緊張で震えた声を返す。入るだ、入るなだ、危険だ大丈夫だ……などと押し問答のような言い争いに、大変そうだなと、他人事の感想を抱くマテウス。
やがて重い扉が開かれて、その向こうから姿を現したのは、王女アイリーンだった。彼女の付き添いであるジェロームと、扉の向こうに立っていた衛士を1人同伴させて、マテウスが待つ室内へと入ってくる。
それを見たマテウスは、彼女が部屋へ足を踏み入れる前に、ベットから降りて扉の前に移動して、片膝と片手を床へと着き、アイリーンに向けて
「あら。貴方も礼儀の1つぐらいは弁えているのね? マテウス」
「知らぬ事とはいえ、先日は大変な無礼を働いてしまい、誠に申し訳御座いません。アイリーン王女殿下」
開口一番で憎たらしい物言いを放つアイリーンに対して、マテウスは定形句のような謝罪を済ませる。声に感情の一切を乗せず、顔を下へと向けたまま動かない彼を、アイリーンは
「冗談よ。ああいう状況だったんだもの。気にしていないから、顔を上げなさい」
「はい。勿体ないお言葉、感謝致します」
言われるがまま、スッと顔を上げるマテウスの顔に、表情は浮かんでいなかった。そんな冷たく愛嬌のない彼の顔を、臆する事なくジッと見つめ返すアイリーン。そんな彼女が、ふと破顔して遂には噴き出し始める。
「ぷっ……あはははっ! なに? そのかしこまった顔。全然似合ってないわね」
「……左様ですか」
この言葉には、マテウスも
「なにか、御用でしょうか?」
「うーん。こんなだったかしら? もう少しマシだったような」
アイリーンはマテウスの言葉を
「王女殿下。あまり、刺激するような事は控えてください」
「ひぅっ! もう急に触らないで、ジェローム」
そんな光景に、付き添いの男ジェロームが、アイリーンの腕を引いて割って入ろうとする。件の事件の直後、真っ先に彼女に駆け寄っていた男が彼だ。その出で立ちは、以前と同じように胸元にフリルの入った襟の高いワイシャツに黒い燕尾服という、一般的な紳士の装いであった。
アイリーンがジェロームの手を振り払うと共に、抗議の声を上げて彼に詰め寄るが、反対にマテウスとしては、珍獣のような扱いから解放されて、ジェロームに感謝の言葉を述べたいぐらいであった。
「全く……前から言ってるのに。それにマテウスは大丈夫よ。こんなでも、私を助けてくれたわ」
(……こんなでも)
「彼がそうであるかどうかは、議会で決めるのであって、王女殿下ではありません」
(その決定待ちで、俺はこの場所に軟禁されているのか)
「いつも
アイリーンが静かになると、部屋は再び静寂に包まれる。マテウスはなにか言葉にするべきかを少し考えたが、やはり沈黙を選択した。マテウスが彼女等に口出しするには、彼女等の事情を知らな過ぎたし、それこそ勝手に言い争いをさせていた方が、自身にとって有益な情報を得られるだろうと思ったからだ。
しかし、事態はマテウスが期待する展開には、転ばなかった。再びアイリーンが先程より、1歩だけ離れた距離からマテウスを見下ろす。
「マテウス。私、貴方の事を少し調べたの」
「そのようですね。私は王女殿下に名乗った覚えがありませんから」
「その件は謙虚な心がけとして、不問にしてあげる。そして、マテウス。これが本題なのだけど……貴方、王宮に仕えてみない?」
「王女殿下。そのような話は聞いていませんが?」
「少し黙ってて、ジェローム。これは貴方への感謝の気持ちよ、マテウス。貴方への誠意の形を色々考えたんだけど、ただ一握りの金銀を振る舞うだけで終わりなんて、やっぱり失礼よね? 貴方に対しても、私の命に対しても」
アイリーンは一言で黙らせたジェロームから、ひったくるようにして掴み取った麻袋をテーブルの上へ置く。ズッシリと響く音から、中身が硬貨だと知れた。彼女の言葉通り、本当に金貨や銀貨なのであれば、その割合を差し置いたとしても、数年は遊んで暮らせるような金額だろう。
ジェロームの反応を見る限り、2人の事前の打ち合わせでは、これを手渡して帰る予定だったようだ。つまりこの先の話はアイリーンの
子供の暴走に付き合った先にあるのは事故だけだ。いい大人である自分が嬉々として、乗り合わせる事はあるまいと、そう決断を下すマテウス。
「私にとっての話になるのであれば、ここから出して頂けるだけで十分なのですが。それに働き口であれば、既に……」
「仕えるのであれば、王宮からは出れずとも、この部屋からはすぐに出してあげられるかも、知れないわ」
「しかし、それを決めるのもやはり、王女殿下ではない筈です」
「悔しいけどその通りよ。でも、貴方の同意さえあれば、そこから動く事も出来るでしょ?」
アイリーンの問いかけに対してマテウスは、返答する前に一呼吸置いた。子供なりに考えはあるようだがしかし、彼が自らの選択を
「私は今の働き口に不満はありません。議会が待てと言うのなら、待つべきだと愚考します」
「きっかけには、なってくれないのね……」
その言葉を最後にアイリーンは沈黙した。ジェロームはホッとした表情で、衛士は居心地悪そう視線を反らして、彼女の次の言葉を待っている。いや、それは彼女の言葉を、というよりは、王女殿下としての理性的な模範解答を、だ。
マテウスも、彼等と同じ気持ちだった。見た目こそ、片膝を着いて、アイリーンへの忠誠を誓う姿勢を崩しはしなかったが、心の内には、自身の選択が彼女を失望させてしまった事に対しての罪悪感は露ほども生まれずに、ただ
今、この場の誰もが、王女殿下しか必要としておらず、アイリーンの事など見てもいなかった。
「食事、本当に食べていないのね。どうしてか、聞いてもいい?」
想定していなかったアイリーンの質問に、皆が意表を突かれた。彼女の視線の先には、テーブルの上に置き去りにされて冷め切った、マテウスの朝食がある。
「はぁ……その、喉を通りそうにないもので」
その質問に対してマテウスは、呆けたような声のまま、王女殿下に対して、衛士用の戯言のような嘘を吐いてしまう。
「ふふっ……貴方って嘘ばっかりね」
アイリーンは笑っていた。マテウスだけに対して向けられた笑顔だったが、彼はその笑顔をどう表現すればいいか分からなかった。悲しげにも、強がりにも、親しげにも、楽しげにも……色んな感情が混じっているように、見えたからだ。
「出直します。またね?」
友達にそうするように、マテウスに向かって胸元で小さく手を振りながら部屋を出るアイリーンの表情には、やはり笑顔が浮かんでいた。対してジェロームと衛士は、マテウスを見向きもせずに、彼女の背中に続いて退室していく。(まぁ彼等の笑顔など、こちらから願い下げであるが)
再び1人、部屋に残されたマテウスは、ベットへと仰向けに倒れこんだ。机の上に置かれた硬貨の入った麻袋には、余り触れる気になれなかった。
「また……か」
アイリーンの言葉を思い出した瞬間、マテウスは早く平穏な毎日に戻りたいと頭の片隅で考えたが、余計な思考が体力や心を
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