錦恋

砂里燈

錦恋

 森の中にこだまする足音は池の中にまで響き渡ってきた。澄み切った水面に顔を出すと、遠くに姉さまの姿が見える。小雨の中、駆けてくる彼女は陸のモノの様に早く、長くてきれいな黒髪をなびかせていた。

主様ぬしさま!早くおいでくださいませ!陽の光がすぐそこに……」

 うっとりと見とれていた私の横から、おじじが金切り声を上げた。

「分かっている!」

 声を荒立てても、走る速度の変わらない姉さまは池のすぐそこにいる。私が安堵のため息を漏らした瞬間、雲が晴れ、目の前には大きな虹が広がった。そして、池のすぐそばで着物を着た少女は忽然と消え、立派な錦鯉が一匹、水たまりに浸っていた。

「ねえさま!」

 姉さまのもとに駆け付けようとした私は、早く陸に上がれる場所へと向かう。水亀である私は長くはないが、ちゃんと陸ですごせる。それに比べて、姉さまは干からびてしまうだろう。

 遠い池の岸へと急いでいると、水が陰る。新しい雲が太陽を遮った事を願い空を見上げると、そこには一人の美丈夫な青年が立っていた。

 姉さまに危害をくわえたら、私が思いっきり彼の足をかじりとってしまうつもりだったが、彼は私の姉さまを拾い上げていた。

「さあ、お帰り。あんまり池から出たらだめだよ」

 予想していた最悪の事態はまぬがれ、私はその場で立ち尽くした。おじじはすぐに姉さまに駆け寄ったが、私は人間をひと睨みする。

(ありがとうは言わない。だって、人間は気まぐれだもの。好意を見せたかと思うと、すぐに手を返す)

「主様!ご無事で何よりです。私の心臓が止まるかと思いましたよ……で、皆の者は?」

 姉さまは去って行った人間から目をそらすと、さっきから高鳴っている心臓を沈めようとしていた。

「二つの水族館でのんびりと暮らしている。狭苦しいとは言っていたものの、皿の上にいるよりはましだと」

「そうですか……主様、陸の衣はわたくしめが、お預かりいたします」

「おねがいするわ」

 そういうと、姉様は人間に化けては打掛うちかけをおじじに渡した。

くれない、そう睨まないの。さっきも、助けられたのだし」

「それでも、私は人間が好きにはなれません」

 だって、私たちの命を何とも思わないのだもの。興味本位でそだてて、つまらなくなったら捨てるだけ。私だって、おじじだってそうだった。

 それでも、私も人型に化ける。姉さまには毎回付き合っているから、もう癖になっていた。

「ねえ、姉さま。今日は何をして遊びましょう」

 彼女の気をまぎわらせようと聞いてみたが、私の声は届かなかったようだ。彼女はただ、人間が去って行った方向を思いにふけりながら眺めていた。


 ある日、池の底で姉様と毬で遊んでいると、もう忘れかけたあの青年が姿を現した。私は無視しながら姉さまに声をかけようとした時、声が出なかった。うっとりと青年のいる水面を眺めている彼女は、嬉しそうに胸を押さえ、魚に戻っては彼へと泳ぎ始めた。

「君はどうしてそんなに生き生きとしているんだい?」

 姉さまが彼に近づいたとき、そう声がかかった。

 魚型では人間と喋ることはできないが、正体を彼らに見せるのは禁忌とされている。姉さまは答えることができないから少し悲しげに俯いた。少し可哀そうだが、これは私たちが生きていくための掟だ。それを主である姉さまが破ってはいけない。

 彼女を水面から引き離そうとも思ったが、彼を見る事ぐらいは認めてあげよう。


 それからというもの、その青年はあくる日も私たちの池に来てはいろいろ話した。両親は元気だとか、学校での出来事、昨夜見た番組など、姉さまが返事をせずに見守っているだけでも、彼は十分なほど話しては去って行った。

 姉さまは毎回、彼が来ると水面へと泳いで行っては、いつも最後まで彼の話を聞いていた。あんなどうでもいい話をよくもまあ、姉さまは聞いていられるのかしら?

 青年が来た回数が両手では数えきれなくたった頃、彼は恋のエサを携えてくるようになった。いつも、話し終えると彼はいつも餌をくれた。

「彼も良く気がきく。普通のパンじゃないのがうれしい」

 そうやって、姉さまは餌付けされていた。

 またも数日が立ったある日、話し終えた後に姉さまに顔を近づけたかと思うと、携帯を使って写真を撮った。驚いて逃げてしまった姉さまは、携帯に驚いたというより、彼の顔の近さに驚いたのだろう。次の日、彼はに初めて姉さまに声をかけた。

「学校で君の写真を見せたら、みんな美人さんだって言っていたよ」

 嬉しそうに携帯を握っていた彼はその日、自分はしゃべらずに帰って行った。そんな彼がいなくなっても、姉さまはその場に佇んだまま晴れた空をずっと見上げていた。


 その日、今までの彼の言動を少し不思議に思い、おじじに相談してみたところ、興味深い返事が返ってきた。

「もしかすると、彼は自分の姿に見惚れて、自分を愛しているのかもしれない」

 確かに、そう考えると彼の行動にも説明がつくような……正確には、唯一理解できる説明だ。

「それは少し、違うと思うのだが……」

 岩陰から現れた姉さまは顔を曇らせていた。聞かれてしまったのは不覚だが、どうせ後で話すつもりだったから、手間が省けたのかもしれない。まあ、少し表現を和らげる手立てもあったはずだが。

「しかし、主様。どういう理由でも、あの青年とかかわるのはお控えください。掟がある限り、私たちは彼らとはかかわる事が出来ぬのですから」

 私も、姉さまが切ない恋心を抱いていたとしても、深刻になる前にあの人間から遠ざけたい。だって、彼らは私たちから奪うことしかできないのだ。

「それは、分かっている……だが、彼には何か事情があるように見える。私の能力はしっているだろう」

 姉さまは長く生きている分、の気持ちが微妙に分かる。はっきりと思考を読めるわけではないが、匂いでかぎ分けることができるらしい。

 でも、青年にどんな理由があろうと、私は姉さまを彼に近づけたくない。嫉妬は、少ししているが、それ以上に彼女が傷つくのも、危険をおかすのも嫌だ。私が嫌われても、それだけは阻止するつもりだ。

「姉さま!明後日の会合の前に、気分転換で隣山の温泉に浸かりに行きましょう。天気もずっと雨みたいですし、あの洞窟なら心置きなく人型でいられますもの」

 安直すぎたかもしれない。でも、彼女をあいつから遠ざけるには良い理由だ。目を輝かせて聞いてみたからか、姉さまは苦笑しながら承諾してくれた。

 結局、明日、日が上る前に出発することになった。彼女は雨が長引くように、竜神様の社へと向かう。あの辺りは、主様の部屋と社があるから、誰もあまり近づかない。姉さまもたぶんそのまま眠りに行くだろうから、私はお気に入りの岩の岩のくぼみへと眠りに行った。


 彼女の部屋に立ち寄ったがいなかったので、社のある洞窟に顔をのぞかせると陸の衣に身を包んで寝ている姉さまがいた。

「姉さま、そろそろ出かけましょう?」

 可愛く思い、少し笑うと彼女が目をこすりながら起きた。彼女の周りにはいろんな書物が散らばっている。

「もうそんな時間?」

 あくびをしながら金魚鉢を拾い上げると、姉さまは陸へと泳ぎ始めた。水面まで来ると、私を金魚鉢に入れて陸へと上がる。

 私も、姉さまと並んで旅行がしたいけど、陸の衣を羽織っている主の彼女だけが陸の上で人間でいられる。姉さまの胸元で旅をするのも悪くないから、私もあまり文句が言えない。

「ねえ、紅。人間になるまじないって、聞いたことある?」

 唐突に不穏な質問が姉さまの口からこぼれ出たことに、私は胸騒ぎを覚えた。

「いえ。それは、不可能じゃありませんか」

「それが、そうでもないみたいなの。百鬼祭りの商品に、変化の薬があるらしいの。一つの姿を定着させるらしい薬が、ね」

 それは、私も風のうわさで聞いたことがある。だが、全国の魑魅魍魎が集まる祭りの大会は、それはもう、日本で最強を決めるための争い。そのなかで、上位に位置するなんて姉さまには無理な気がする。

 私が口をつぐんでから生い茂ったけもの道を進むと、下から昇ってくる人影が見えた。

 金魚鉢を抱き寄せた姉さまは、俯きながら人間の横を通ろうとした。

「おはようございます!」

 そして、返事も待たずに青年は息を荒げながらけもの道を駆けて行った。

「なんて失礼な。もう少し愛想よく……」

「紅。彼、おかしかったわ」

 私を見ずに、彼女は彼が去って行った方を見つめていた。

 さっきまで赤らめていた頬はいつもの青白さを取り戻していた。しかし、彼の背中を追う目は、鋭く光っている。

「人間ですもの。おかしいに決まっていますわ」

 姉さまの顔は、風が吹いてサラサラの髪で隠れて見えない。カメの感が、早く彼女の気をそらさないといけないと叫ぶ。

 ああ。私が考え込んでいる間に、姉さまは今下ってきた道を急いで戻りはじめた。

「お願いですから、彼に関わらないでください!彼は、自分しか見ていない。絶対にあなたを傷つけます!」

「そんなこと、関係ないわ。好きな人を見放す事なんてできないもの」

 そんなに、彼に惚れてしまったのか。これでは、姉さまを止める手立てがもうない。

 池が見えてきた時、私は金魚鉢を包んでいるのが繊細な細い指ではなく、男のごつごつした手だと気づいた。後ろを振り返ると、私の姉さまはあの青年に化けていたのだ。言葉を失った私は、どうすることもなく池に佇んでいる青年の背中に姉さまと近づいた。

「風太!ふうた!なんでいないんだ!」

 近づく私たちにも気付かない彼は、池に向かって一生懸命に名前を呼んでいた。

「なんで、僕の周りからいなくなっても、ここにだけはいつもいたのに……」

「あの……」

 かける言葉を迷っていた姉さまは、金魚鉢を持つ手に力を込めた。

「あの!」

 自分と同じ声をを聞いた途端、青年の動きが止まった。肩を震わせながら立ち上がっった彼は、目を見開いたまま私たちの方を振り向いた。

「風太……おまえ、生きていたのか?」

 かける言葉は、私も姉さまもわからない。ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

「ずっと、謝りたかったんだ。あの日、俺が道路側路歩いていれば……弟を死なせることはなかったのに……」

 風が吹いて、姉さまの襟元がなびく。一歩、姉さまが彼に近づくと、彼は目を見開いて一歩横に逃げた。

「おまえ、風太じゃない、な?俺たちどんなに似ていても、彼の首の痣は……」

「ああ、そうだ。だが、君が弟を、自分を見えないのは君自身の心の在り方のせいだ。目を背けて逃げているだけでは前に進めぬぞ」

 姉さまの金魚鉢を持っていない手は、強く拳に握られている。彼の心が見えての言葉だろうが、彼には痛く刺さっているはず。

 それでも、青年は少しだけ落ち着いたのか、姉さまをしっかりと見つめた。

「物の怪か、幽霊か、僕にはわからない。でも、謝りたかったんだ。もう一度会えて……」

 なにかを言いかけた彼は、大粒の涙を浮かべて彼は私たちから逃げた。

 これで、彼はここにはもう来ないのだろう。なぜか安堵するはずなのに、少し心が痛む。もしかしたら、今まで通り、自分の顔、弟と話させてあげればよかったのかもしれない。

「姉さま?」

 私の金魚鉢を下ろすと、姉さまは自分の人間の姿に戻って、走って行った彼の方へと一歩踏みだした。

「主様!いけません!あなたは、鯉で、この池の主で、あのような人間とはかかわってはならない!どうか、どうか踏みとどまってくだされ」

 池から聞こえるおじじの声に、私も我に返った。私の、私たちの大事な姉さまが、どこか手の届かない場所へと向かおうとしている。

 彼女は肩をすくめ、顔をしかめてその場に立っている。私は彼女の幸せを願うのなら、ここで見送らなければならないはずなのに、やはり私は彼女が大事だ。

「姉さま。どうか、どこにもいかないで!」

 必死に彼女を止めようと頭を水から出したが、そんな私の頭を姉さまは指一本でなでてくれた。

「貴方たちが、私に対してそう思うように、私も彼に対してそう想っているの。どんなに叶わなくても、彼と一緒にいたい」

 涙をにじませながら、姉さまは池に背を向けた。

「さよなら!そして、どうか私の事なんて忘れて!」

 彼女は言い残すと、明るみ始めた雲に向かって走り出した。

 彼女は複雑な思いを抱えながらも、青年を追って真っ直ぐに走っていた。

「おたっしゃで」

 私は引き止められなかった後ろ姿を見送りながら、一言だけ呟いた。それ以上は何も、胸が詰まって言えなかった。



「毎回、ありがとうございます」

 私を池に戻すと、化けていたあやかしは元の百目の蜘蛛に戻った。

「どういたしまして。じゃあ、また今度遊びに来るから」

 そう言い残すと、彼も私を置いていった。主になった私も池から遠くには行けず、会合のたびに友人の蜘蛛が私を会合場所まで運んでくれている。

 しかしこの時期はいつも気分が沈む。あの人がいなくなってから数年たった今でも、あの笑顔を思い出してしまう。あの時、会合にもっと早くむかっていれば……

 ため息をついて、近くの石に日向ぼっこに向かう。深呼吸して気を落ち着かせると、どこからか話し声が聞こえてきた。その方向に目を凝らすと、あの青年が現れた。

 ああ。また、誰かを連れ去って行くのか……!

 陸の方へ向かい、その鼻っ柱にかみつこうと思ったが、彼はまだ遠くにいた。だが、彼の隣には白いドレスに身を包み、あまり似合わない打掛を羽織っている女性がいた。

 言葉を失って、ただ池に浮いていると、打掛を脱いで女性が池のふちにかがみこんだ。

「これを返しに来たの」

 女性の耳から滑り落ちた一房の黒髪は、懐かしい匂いがした。

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錦恋 砂里燈 @QuartzCoil7

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