弐 降伏

 くずおれるように、皆、ひざまずいた。畳で額をこするほど深く下げた頭に、柔らかな声が落ち掛かる。


おもてを上げよ。顔を見ないのでは、まともな話などできぬ」


 恐る恐る、言葉に従う。


 かたもり公は質素な着流し姿だった。整然と正装したところしか、今までは見たことがない。だから、うっかり凝視してしまったかもしれない。


はかまも付けぬだらしない部屋着のままで、すまぬ。このような刻限なのでな」


 容保公は照れ笑いを浮かべた。場違いなくらい屈託のない微笑み方だった。

 佐川さんが呆然と言った。


「殿、おぐしが……」

「ああ、ここ二十日ほどで真っ白になってしもうた」

「何とも、おいたわしいごど」

「気に病むでない。わしは擦り傷ひとつない。髪だけじゃ。城の皆が何くれと心を砕いてくれた」


「殿はお体がお強ぇわけではねぇのに、ますますお痩せになったべし」

「情けない話だが、幾度か倒れてしもうてな。日のあるうちは引っ切り無しに砲弾が飛んできたが、特に集中する刻限や場所があった。煮炊きの火を使うころを狙い、火事を起こそうと。必ず防がねばならぬときに限って障壁を張ったのだが、これが大仕事だった」


 容保公は額の赤い環に触れてみせた。


 なぜ守りの力なのだろうかと、唐突に思った。禁忌を犯して環を身に宿して、攻める力を得なかった。守る力だけを得た人は、容保公を置いてほかに知らない。


 会津生まれではない容保公は、血縁の事情で会津藩主の座に就いた。よそ者だからこそ誰よりも会津に忠実に生きたいのだと、かつて語り聞かされたことがある。


 もしも容保公が会津生まれの会津育ちだったら、どうだろう? 徳川宗家への絶対的忠誠を誓ったしなまさゆき公を引き合いに出されて京都守護職の任を命じられたときや、徳川宗家に身代わりとして倒幕派に攻められることとなったとき。


 オレも会津藩士ではない。故郷の風土に誇りを抱く会津藩士の前では、何も持たない自分がむなしくなる。会津の誇りを、よそ者の自分がけがしてはならないと思う。


 容保公もオレと同じだ。いや、オレよりずっと強い心持ちで、会津の誇りを守ろうとしてきた。だから、その環は誰をも傷付けず、ただ守る力だけを持つのだろう。守り通すことができずに、傷付いた目をするのだろう。


 オレは、握り締めていた守り袋を容保公に差し出した。


「縮地の術式の守り袋。高木時尾が、公に奉じたのですか?」

「さようだ。わしの姉、照姫を通じてのことだがな。いざというときには使うてくれと、二組の守り袋をくれた。たび、二組とも使うてしまうつもりだ」


「此度?」

「斎藤一、そして佐川官兵衛。頼みがある。それを話しにここへ来た。見張りに気付かれぬうちに戻らねばならぬから、さほど時間はないのだが」


「我々にお会いくださるために、危険をおかして、こちらへ?」

「縮地を使うて逃亡することもできなくはない。しかし、わしが逃げたら、後に残される会津の者たちはどうなる? それを考えれば、わしが為すべきことはおのずと見えてくる。わしは逃げぬ。敗残の罪人と名指される余生を、しゅくしゅくとして背負うだけじゃ」


 盛之輔も健次郎も、ぽかんとしていた。大儀であったと容保公に言葉を掛けられて、ようやく我に返る。


 健次郎が問うた。


「殿のご処分は決定したのですか?」

「会津松平家は廃絶。会津藩は消滅し、わしは無期限の謹慎に処せられる。会津藩士はよそへ送られるだろう。行き先の沙汰は決しておらぬ」


 賢いはずの健次郎が、率直で稚拙な言葉を吐いた。


「意味が、わかんねぇなし。藩が消滅? 想像もつかねえ。私は今まで会津から出たこともありません。家も日新館も武道場もお城も、私を作ったすべてが会津でした。その会津が消えるなら、私という人間も消えっつまうのではねぇかし?」


 盛之輔はうなずいた。容保公はかぶりを振った。


「健次郎、藩という枠組みが消えても、会津の外に出ても、おぬしは消えぬ。おぬしの兄、山川大蔵を見よ。ロシアに赴き、ヨーロッパを視察し、洋服に身を包みながらも、大蔵は会津藩士じゃ。おぬしにも外国を見せたいと言うておった」


「わかんねぇなし。朱子学も礼儀も武術も砲術も、今まで身に付けてきたもの全部、何の役にも立たねぇと、一箇月の籠城の間に思い知りました。そっだら今度は、壊れるはずもねぇと思ってきた藩という枠組みが壊れっつま。私はこれから何を信じればいいがよ?」


 無礼な物言いだった。冷たい態度でもあった。誰もとがめなかった。健次郎の言葉は的を射ている。


 容保公は健次郎の真正面に膝を突くと、健次郎の肩に手を載せた。


「己を信じよ。信じられる己に出会うまで、どうかまっすぐに生きてくれ。健次郎、おぬしはまだ若く、わしなどよりもずっと賢い。兄の大蔵のように外国へ行き、見知らぬものに触れ、心行くまで学んでみるがよい。渡航の援助のため、わしも労を惜しまぬ」


 健次郎は切れ長の目で、じっと容保公を見つめた。容保公はそのまなざしを受け止めて、微笑んでうなずく。


 佐川さんが降伏の白旗を拾い上げた。旗は、健次郎がひざまずいた弾みに投げ出されていたらしい。


「殿、おれたちにお話があるとは何だべし? この白旗を掲げよとのご命令かし?」

「いや、命令ではない。頼みがあると言うたであろう。聞けぬならば聞けぬと突き放してもろうて構わぬ。佐川官兵衛、斎藤一、おぬしらのぎょうゆうをわしは誇りに思う。だから、もうその刀を収めてはくれぬか? ここで命を散らさずにいてもらえぬか?」


 やぶから棒な言葉、ではなかった。わかっていた。

 佐川さんは眉間にしわを寄せた。


「京都で会津は間違ったことなどしねかった。朝廷のため、幕府のためと一心に勤めてきたのに、いつの間にか話がすり替わって、薩長が正義で会津は悪だと決め付けられた。納得できねえ。おれは死んでも納得できねえ」


 容保公は、ぐるりと部屋を見回した。隅に鉄砲と槍が置いてある。火鉢が一つと、茶碗で酒を飲んだ跡。布団はなく、眠るときにくるまるのは古びた綿入れはんてんだけ。


「ここは寒かろう?」


 いたわわるようにつぶやいた容保公にとって、こんな部屋は初めてかもしれない。質素というより粗末な有り様だ。


 容保公は、オレと佐川さんを順に見つめた。人に物を語るときにそっと微笑むのは、容保公の癖なのだろうか。


「佐川、斎藤、おぬしらは間違っておらぬが、正しくもないかもしれぬ。誰が正しいと判ずることは、きっと当世の誰にもできぬのだ。だからこそ、おぬしらが悪であるなどと誰にも言わせたくない。おぬしらは義を貫いてくれた。その心根はわしが知っている」


「殿、勿体無いだましいお言葉を……だけんじょ、おれは!」

「もう十分ではないか? おぬしらは十分に戦ってくれた。十分に忠誠を示してくれた。これ以上を望むのは欲張りだと、わしは思うておる」


 十分という言葉に、静かな恐怖を覚えた。


 動乱の日々が収束すれば、その前にどんな生き方をしていたか思い出せない。だから戦うことをやめられない。けれども、それが容保公の意に反するのなら、戦うことに何の意味がある? 容保公への忠誠のためにこそ戦っていたのに。


 佐川さんが、聞き分けのない子どものように首を左右に振った。


「十分ではねぇなし。おれは命を懸けて会津への義を貫く覚悟だ。殿を悪人の親玉のように言われて、このままで許しておけるわけがねえ!」


 畳を叩いて力説した佐川さんに、容保公はただ微笑んだ。


「悪人の親玉でよい」

「殿、何をおっしゃる!」


「わしは悪でよい。賊でよい。愚か者でよい。わしがすべて引き受けて収まるのなら、わしは何と呼ばれても構わぬ。どんな役柄も背負うてやろう。しかし、背負い切れぬものもあるのじゃ。何かわかるか?」


 佐川さんは、開きかけた口をわなわなと震わせて黙った。容保公がオレに微笑みを向けた。おそれ多くて目を伏せると、柔らかな声で咎められた。


「面を上げよ、斎藤。顔を見せてくれ。苦労を掛けたな。おぬしはもっと優しい目をする男のはずだが」

「優しい目など、今まで一度も」


「仲間を想う優しい目をしておったであろう。それが今は、ひどく乾いた目をしておる」

「……滅相もありません」


「斎藤よ、このまま死んでよいなど思うてくれるな。死なんでくれ。わしには、これ以上の命は背負い切れぬ。すでに戦のためにたくさんの者が死んだ。わしの代わりに腹を切った者、わしへの忠義の証として自害した者もおる。もう耐え切れぬのじゃ」


 なおも微笑んだままの容保公の両眼から涙がこぼれた。


 胸をえぐられた。目が覚めた。オレは常軌を逸していた。


 人が死ぬこと、人を殺すことが当たり前の毎日で、今さらオレは傷付かない。なのに、オレの代わりに傷付いてしまう人がいる。繊細な心と体で何千人ぶんもの罪とごうを背負ってしまった人がいる。


 オレは頭を下げた。額を畳にこすり付けた。


「申し訳ございません。公のお気持ちを裏切る行為を重ねてしまいました」


 誰のために、何のために、戦うのか。オレの誠義はどこにあるのか。一度は答えを見出したはずなのに、オレは馬鹿だ。


 佐川さんがオレの隣で頭を下げる。声を殺しながら泣いている。

 容保公は、ため息をつくように笑った。


「面を上げよと言うたばかりではないか。わしと話をするときは、硬くならずともよい、目を見てくれ。わしが嘘をついたと思えば、はっきりと、そう申せ。その代わり、おぬしらもわしに嘘などつかないでくれ。よいか?」


 否と答えられるはずもなかった。痛む胸を拳で一つ打って、オレは告げた。


「かしこまりました。嘘はつきません。オレは、刀を収めます」


 佐川さんが拳で涙を拭って言った。


「殿のご意向に従ぇます。殿がくださった白旗を掲げて、我らも、降伏いたします」


 容保公はうなずいた。


「よう言うてくれた。ありがとう。敵にくだれば、戦とはまた別の苦労をおぬしらに強いることになるだろう。わしを恨んでくれてよい」


「殿、そっだつまらねぇことをおっしゃってはなんねぇべし。じょしようもねぇほど苦しい目に遭ったとしても、おれは、会津に生まれたことと殿にお仕えしたことを恨みも悔いもしねえ。んだべ、斎藤!」

「佐川さん、オレは会津藩士じゃない」


 応えに窮したオレに、容保公が、思い掛けない言葉を披露した。


「わしも会津の生まれではねぇけんじょ、会津藩主を務めたべした。斎藤、にしゃ、わしの胸の中では立派な会津藩士だ。会津の地から藩がなくなっつまっても、主ゃらの会津士魂は決して消えねえ。んだべ?」


 完璧ではなかった。本物の会津の言葉は、もっと響きが丸くて柔らかい。


 それでも十分だった。単なる音の響きなどどうでもいい。言葉に込められた思いの丈の大きさに、オレは胸が詰まった。そのとおりですと、ただ一言だけ返すので精一杯だった。


「んだなし」


 容保公は満足そうに声を立てて笑った。そして、縮地の術式を使って妙国寺へと帰っていった。



***



 翌日、十月八日。オレと佐川さん、配下の兵士一同は白旗を掲げて、倒幕派の軍門に降伏した。


 会津の戦は終息した。

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