参 赤環

 思い返して整理してみれば、倒幕派が奥羽侵攻に本腰を入れる引き金を引いたのは、仙台藩だった。


 春三月、仙台藩には倒幕派の先鋒、長州藩のしゅうぞうが乗り込み、「我らの軍門にくだって会津に出兵せよ」と命じた。仙台藩は地縁のある会津藩に同情を寄せ、出兵をためらった。


 夏四月、仙台藩は米沢藩とともに奥羽諸藩に呼び掛け、うるう四月には奥羽越列藩同盟を結成して会津藩の助命嘆願を訴えた。


 奥羽越列藩同盟の訴えを前に、世良の態度はけんもほろろだった。


「会津の助命など酒宴の笑い話にもならん。つべこべ言わずに会津を攻めろっちゃ。それとも奥羽の山猿どもには人の言葉が通じんか?」


 世良は奥羽諸藩の武士と顔を合わせればなじり倒し、酒を食らい女を抱き、行く先々で憎しみを買い続けた。


 そして閏四月十九日、ついに仙台藩士が決起し、世良修蔵を暗殺。その動きに呼応した会津軍が翌日に白河城を占拠し、数日のうちに白河が激戦の地となった。


 世良の暗殺と白河での戦闘が、会津藩と倒幕派との協調路線を完全に閉ざした。要衝の地、白河を倒幕派に奪われて以降、戦に次ぐ戦がまたたく間に会津藩を追い詰め、今に至る。


「あのとき仙台に駐留していたのが世良修蔵じゃあなく、もうちょっと話のわかる人間だったら、奥羽は開戦していなかったかもしれない」


 俺がつぶやくと、粗末な明かりの向こうで顔を上げた島田さんは、さあどうだろうと首を振った。


「斎藤とも似たような話をしたことがある。戦が起こることは止められなかったと思うよ。もし会津でなかったら、どこか別の地が戦場になっていた」

「時をさかのぼるなら、もっと前か。京都で俺たち佐幕派はどう動くべきだったんだろう? 先代の天皇と将軍が相次いで崩御したとき、まわりをもっとよく見りゃよかった」


「その時期は局内でごたごたしていて」

「ああ、たもとを分かった連中をいつどうやってしゅくせいすべきかと、そんなことばかり考えていた。何も見えてやしなかったんだ。京都を撤退して伏見で負けて勝沼でも宇都宮でも負けて近藤さんをうしなって、会津に来てようやく、俺が為すべきだったことがいくつもわかった」


「土方さん、そう自分を責めなさんな。斎藤が別れ際に告げた言葉がすべてだ。ここに残っている新撰組は、あんたが土方歳三という男だから付いていこうと決めたんだ」

「ありがとう」


 俺は今、五十人ほどの隊士を引き連れて米沢から仙台へ向かう旅の途上にある。何かと騒がしい宿場を避け、打ち捨てられた大きな寺に泊まることに決めた夜だった。


 破れ寺と呼ぶにはまだ新しい。近くに村もあったが、灯は一つもうかがえなかった。重すぎる年貢を苦に、農民が逃散してしまったのだろう。奥羽に来てから、そんな村をいくつも見知っている。


 異変の訪れは唐突だった。


 外の見張りが尋常ではない悲鳴を上げた。冷え冷えとした講堂で雑魚ざこしていた者は皆、跳ね起きた。


 俺は真っ先に講堂を飛び出した。何事かと問うまでもない。すでに、ぐるりと囲まれている。


「こいつはまずい」


 敵軍ではない。痩せた体に襤褸ぼろをまとい、手に手にくわすきたずさえた集団だ。


 一目で常人ではないとわかった。おそらくかつては農民だったのだろうが、見開かれた両眼は爛々らんらんと赤く、かがりよりも強く光っている。


 妖の群れだった。ゆらりゆらりと左右に揺れながら、毒気を吐き散らして近寄ってくる。


 おぞが体を這い上った。冷たい手で臓腑を握り潰されるような錯覚。見張りの隊士が震えながら崩れ落ちた。


 環を持つ者は、今の新撰組にいない。妖気に当てられて動ける者は一人もいないのだ。このままでは為すすべもなく取り殺されてしまう。


 いや、違う。


 どこからともなく、つややかに黒い四つの尾を揺らしてシジマが現れた。


「あやつら、殺されたものの死に切れず、瘴気を呑んで妖に堕ちたと見える」

「殺された? 戦に巻き込まれたってことか?」


「村を軍に供せよと求められて拒んだか、何ぞ見聞きして口封じのために狩られたか。いずれにせよ、武士への恨みがあやつらの本能」

「武士そのものを恨んでるんなら、佐幕派も倒幕派もありゃしねぇな」


「さよう。あやつら、人の形を為してはおるが、あの頭はお飾りよ。物を思うも考えるもできぬ。肉が腐れ落ちて動けなくなるまで、夜な夜な刀の金気を嗅ぎ分けては、武士の襲うつもりであろう」


 シジマの深く裂けた獣の口は軽やかに動いた。舌に記された赤い環と油断なく見開かれた黄金色の目が、闇の中に輝いている。


 妖がうなり出した。冷えた夜気に呪詛がこごり、吸う息さえも重くよどむ。俺をかばって前に立った島田さんが、どさりと倒れ、おこりのように震え出した。


 俺も膝がわななき、立っていられない。妖の赤い目など見るのはおぞましい。だが、俺は刀を杖にしてすがり、じっと敵を睨んだ。


「おい、シジマ、頼みがある」

「何じゃ、歳三」

「力を得る方法を教えてくれ。こんなくだらねぇところで全滅なんて洒落しゃれにもならん」


「環の力を求めるか?」

「それ以外にあいつらを叩っ斬る手はねぇだろう」

「己がような妖に堕ちるやもしれぬぞ」

「堕ちるもんかよ。俺はもともと鬼だ」


「鬼とな?」

「人斬り集団、新撰組で最も冷たい男、鬼の副長の土方と呼ばれていた。俺は鬼なんだよ」


 床に転がった島田さんが、幽霊でも見るような目を俺に向けた。


「土方さん、誰と、何をしゃべってる?」


 四尾の妖狐、シジマの姿は闇に溶け、島田さんの目には映っていないらしい。ましてや声など聞こえようもないのだろう。ならば、シジマと言葉を交わせる俺はきっと、すでにまともな人間ではない。


 俺は島田さんに微笑んだ。倒れ伏してうめく隊士たちにも笑顔を向けた。


「心配するな。俺が今すぐ化け物どもを追い払ってやる。新撰組局長の誇りに懸けて、おまえたちを無駄に死なせやしねぇさ」

「土方さん、それは、一体……」

「無力なままではいられねえ。なあ、シジマよ」


 俺はシジマに手を差し伸べた。シジマが鼻を鳴らした。


「我、妖狐シジマが身をしろに、汝《なんじ》が肉に彼岸の呪文をほどこし、宿しゅくごうの大環にもとる罪科の赤環を成さん。歳三よ、気を確かに持て。さもなくば、食らうぞ」


 言うが早いか、シジマは俺の首に飛び付き、牙を立てた。ぶつり、と皮膚の破れる音がした。


 痛みではなく灼熱を感じた。い匂いがして煙が上がる。

 シジマは俺から離れ、噛み千切った肉を飲み込んだ。


 俺は首筋に触れる。血は流れていなかった。うぞうぞと皮膚がうごめき、傷が塞がる。灼熱の形を指先でたどると、緻密な文字がぐるりと一周、環を描いている。


 どうってことないと言おうとした途端、心臓が異様に強く打った。

 目眩めまいがした。床に手を突く。刀の倒れる音が妙に高く耳に響いた。


「歳三」


 呼ばれ、顔を上げる。シジマの黄金色の目に俺が映り込んでいる。


 苦しい呼吸、痛む鼓動、眼前をちらつく微細な稲妻、背筋を伝う脂汗。だが、俺は奥歯を噛み締め、シジマに求める。


「くれよ。もっと、俺に力を」


 新鮮な血の匂いをさせたシジマが、にっと笑った。獣の口が俺の口を塞ぎ、シジマはそのまま、ずるりと俺の体の中に入ってきた。


 血がたぎる。気が暴れ狂う。力が噴き上がる。臓腑も骨も肉も何もかもが膨れ上がって皮膚を弾き飛ばすのではないかと、それほどに、血も気も力もすべてがせつのうちにみなぎった。


「熱い」


 こぼした声は人の言葉の形をしていただろうか。目を開く。夜の闇さえまぶしい。すべてが鮮明に見分けられる。耳もまた冴え渡り、足音の数まで聞き分けられる。

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