弐 辞世

 竹子はゆっくりとまばたきをして、自分語りを再び始めた。竹子が一度も息を継がないことに、俺は気付いた。


「わたくしたちはかやさまの軍に従い、お城の北西にあるなみだばしたもとで敵軍を迎え撃ちました。敵はわたくしたちがおなであると見分け、生け捕りにしようと群がってまいりました。ですが、素手でつかみ掛かろうだなんて、むしろ、わたくしたちの思う壺でしたわ」

「会津の女たちの薙刀なぎなたは、なかなか凄まじい。下心をき出しにした阿呆どもは、たやすく近寄れたもんじゃなかっただろう」


「ええ、わたくしたちはいくつもの首級を挙げました。素手ではいけないと悟った敵は慌てて刀を抜きましたが、わたくしたちも決死の覚悟で奮戦しましたから、誰も刀傷を負わされたりなどしませんでしたの」

「だったら、おまえさんはなぜ死んだ?」


 竹子は一歩、二歩と後ずさった。薄闇の中に敵の姿があるかのように、腰を落として薙刀を掲げ、振り回そうと構えてみせる。


「こうやって妹を背にかばい、槍をしごく敵とあい対したときでした。どこからか鉄砲の弾が飛んできて、わたくしの額を撃ち抜きました」


 音もなく、竹子の額から血が噴き出した。見る間に赤く染まった鉢巻が、はらりと落ちる。竹子は目を見張ったまま薙刀を取り落とし、くずおれた。動くはずのない唇が、しかし動き続ける。


「戦闘には決着が付かず、結局は双方、兵を収めました。わたくしの屍は敵に奪われぬよう女子たちの手によって運ばれ、妹が介錯を務め、わたくしは首だけの姿になりました。今、首はしろぶたの布にくるまれ、お寺に連れていってもらう最中です」


 地に倒れた竹子の体が掻き消えた。血の抜け切った白い首が短い髪をひるがえし、ふわりと宙に浮き上がる。


 竹子の母か妹が、死んだ女武者の顔を清めたようだった。血や埃は拭い取られ、まぶたも静かに閉ざされている。蒼白なはずの唇には紅が差されていた。


「もののふの猛きこころにくらぶれば数にも入らぬわが身ながらも」

「おまえさんの辞世か?」

「はい。いつ死んでもよいようにと、ふところに差して戦っておりました」


 竹子の首は遠慮がちに、俺の手が届かない宙に留まっている。俺は足を踏み出し、両手を差し伸べ、竹子の首を引き寄せた。


「口紅、似合ってるじゃねぇか」

「こんな生首を相手に、ご冗談を」

「冗談なもんか」


「人生の最後に、母に隠し事をすることになってしまいました。母はわたくしにこの紅を差しながら、口づけも恋も知らずに死んだ哀れな娘と泣いてくれたのですけれど」

「隠し事は一つかい、二つかい?」


「意地悪な人。おなにそれを答えさせるのですか? ご自分は知らぬ存ぜぬの涼しいお顔をなさりながら」

「そんないじけた口振りじゃあ、二つともが隠し事だと答えたも同然じゃねぇか。せっかくだ、もう一つ増やしてやろうか」


 逢魔が時の妖気に当てられたのかもしれない。薄気味悪いとは少しも思わなかった。俺は竹子の赤い唇に自分の唇を押し当てた。


 柔らかい。


 竹子の唇が急に、とろけるような柔らかさを取り戻し、甘く香った。髪がしっとりと重さを増し、途切れた首の下にいつしか華奢な肩が続いている。


 俺は竹子の口を吸いながら、その長い髪を指でくしけずり、背に腕を回して抱き寄せ、しなやかな体を胸に閉じ込めた。


 竹子は俺にすがり付いた。ぎこちない唇が、舌が、俺に応える。一生懸命に俺の味を知ろうとする。


 江戸でも京都でも、さんざん浮名を流してきた。手練手管の駆け引きは遊びだ。気まぐれに詠む俳句と同じで、その一瞬だけの美しさを目ざとく切り取って楽しんで、渇きがちな胸を束の間、潤す。


 たやすい遊びを重ねて潤そうとすればするほど、俺の胸はますます渇いた。満たされることはないままに、今このときだけは、腕の中の女がいとしい。竹子を手放しがたく感じる。


 しかし、やがて竹子は俺の胸を押して体を離させた。


「お別れの時がまいりました。これ以上わたくしに触れてしまっては、土方さまが此岸に戻れなくなります」


 白い打掛に白い小袖の竹子は美しかった。濡れた目、染まった頬、紅の半ば落ちた唇。ありもしない風が、竹子の髪をふわりとそよがせる。


「死装束の幽霊が花嫁りょうに見えちまうな。この世に悔いや心残りはねぇのか?」

「ありますわ。たくさんあります。でも、何も言うまいと決めましたから。最期に土方さまにもお会いできましたし、もう十分ですわ」


「最期が俺でよかったのか?」

「父や母や妹はわたくしが何も申さずとも、わたくしのことをしのんでくれるはず。ですから、さっさとわたくしをお忘れになりそうな薄情なおかたのもとに、こうして現れることにしたのです」


「なるほど、道理だ。幽霊の口なんぞ吸ったのは、さすがに初めてだぜ。こんな別れ方をするんじゃ、俺は一生おまえさんを忘れねぇだろう。小娘の術中に、まんまとまっちまった」


 竹子は朗らかに笑った。夜の闇が深くなる。星明かりが降り注ぐ。竹子の姿が次第にはかなく透けていく。


かんざしを挿せるほど髪が伸びるまで生きるという約束を守れず、申し訳ございません。土方さま好みの女子になってみとうございました。死んで生まれ変わったら、またわたくしと出会ってくださいますか?」


 いじらしい。


 いや、そんな情など抱いたところで、今さら詮なきことだ。俺はただ、女殺しと花街で持てはやされた笑みをこしらえた。


「来世で俺と出会いたいと言う女は両手両足の指に余るほどいてな、行列をたどりゃ俺を見付けられるだろうよ。楽しみに待っててやる。来世では、俺を振り向かせてみせな」

「ええ、振り向かせてみせますとも。わたくしは負けず嫌いでございますから、挑んでみよと言われたら、勝つまで挑み続けますわ。心してお待ちくださいまし。また、いつの日か」


 声の余韻が闇に呑まれて消えた。純白をまとった竹子の姿も、もうそこにない。


 どんちょうが切って落とされたように、がらりと景色が変わった。もとに戻ったのだ。


 よいの口、米沢の城下町の往来で、俺は立ち尽くしていた。足早に行き交う人々が、洋装に刀を差した俺にげんな目を向ける。


「幻か」


 唇に触れ、ふと気付いて指先を見る。口紅が残っていた。


 来世。そんなものがあるのか。死んでみなければわからない。いずれにせよ、さほど遠い出来事でもなかろうと思う。俺も近々死ぬだろう。


「土方歳三よ」


 低いところから声がした。男とも女とも子どもともつかない声だ。見下ろして、声の主の正体を知る。


「シジマか?」

「さよう」

「尾が四本……おまえさん、化け狐だったのか」

「人聞きの悪い。好んで四尾と化したわけではないわ。戦の瘴気に当てられ、人のごうに巻き込まれ、主の血を浴び、ような姿になってしもうた」


 漆黒の毛を持つ狐は、めた金色の目で俺を見上げている。言葉を発するたびにのぞく舌には、赤い環が刻まれていた。


「竹子どのの霊をここまで運んできたのは、おまえさんか?」

「いかにも」

「ご苦労だったな。竹子どのと話ができてよかった」

なんじがそう言うなら、主のたまも慰められよう。して、歳三よ、汝に頼みがある」


「何だ?」

「我は、主のおらぬ会津に戻るつもりはない。しかしながら、人の世に染まり、環の力を得た今となっては、山に帰るも叶わぬ。汝に付いていきたいが、よいか?」


 四尾の狐は小首をかしげた。俺はうなずいた。


「付いてきたけりゃ来るがいい。行き先は地獄かもしれねぇが」


 シジマの返事を待たず、俺は雑踏の中を歩き出した。宿に島田さんや大鳥さんを待たせている。早く戻らなければ、無用な心配をかけるだろう。


 俺を追って、シジマは黙って駆けてきた。四尾は、よほど目を凝らさない限り、ありふれた一本の尾にしか見えなかった。

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