五 土方歳三之章:Blood 血華繚乱

壱 逢魔

 気配を感じて振り向くと、女の幻が揺れた。


 おうが時。昼とも夜ともつかない薄明かりの中で、短い髪を鉢巻きで押さえ、がすり柄の紫縮緬ちりめんの小袖に玉子色のはかま薙刀なぎなたと脇差をたずさえた中野竹子は微笑んだ。


「わたくし、討ち死にしてしまいました」


 そうか、と俺は応えた。


 幽霊なんぞ出くわしたことはないし、いるのかどうかも疑わしいと思っているが、俺だって目を閉じれば夢くらい見る。たまには目を開けたまま見る夢もあるだろう。


「俺に挨拶に来たのか? それとも、恨みつらみをぶつけにでも?」

「さようですね、お恨み申し上げておりますゆえ。わたくしの裸を見たり口を吸ったりと、大層な無礼をなさったでしょう」


 きびきびとした物言いに、勝気な笑みはからりとして、まさか恨みを抱えた幽霊には見えない。


「おまえさん、本当に生身じゃあねぇのか?」

「ええ、わたくしは確かに死にました。戸ノ口原で土方さまとお別れして、まだ二日しか経っていませんのね。何だかひどく長うございましたわ」


「俺も同じだ。あれからたった二日だってのに、何もかもが猛烈な勢いで変わっていくおかげで、ずいぶん長い時が過ぎちまったように感じる」

「変わってしまったのですか?」


「斎藤一、いや、山口二郎とこんじょうの別れをした。それから二日かけて米沢にたどり着いてみりゃあ、つい昨日、米沢は倒幕派への恭順路線で藩の意向がまとまったらしい。このまま米沢に留まってたんじゃ、じきに倒幕派が乗り込んできて、まずいことになる」


 竹子が眉をひそめた。


「米沢藩は二百年前、お家断絶の危機にあったとき、会津のしなまさゆき公の取り成しで、どうにか藩を存続することができました。今こそその恩を返すときだと、米沢藩は会津藩の助命を訴え、倒幕派との仲裁のために尽力していましたのに」


「ああ、米沢藩も仙台藩もそれぞれの思いで奔走しちゃあいたが、倒幕派は聞く耳を持たず若松城下にまで攻め入った。こうなりゃ、助命の訴えも後の祭りだ。鶴ヶ城がやられれば、次は手前のくにもとが侵される。その前に、米沢は降参するってわけだ」


 竹子は口惜しそうに唇を噛んだ。が、すぐに気を取り直すようにかぶりを振った。短い髪がしなやかに弾んだ。


「わたくしのほうも、何もかもが大きく様変わりいたしました。わたくしの身に起こったことをお話しさせてくださいまし」

「ああ、聞かせてくれ。死者の口から己の死んだ経緯を話して聞かされるなんてのも、滅多にできねぇ経験だ」


 竹子は詩でも吟ずるように、凛と張り詰めた声で語り出した。


「あの日、家に帰り着いてすぐにお城の鐘が鳴りました。鐘が鳴ったらお城へ入るようにと、事前にお触れが出されておりましたので、城下の者は皆、すでに覚悟を決めていました。お触れに従ってお城へ入る者、城下から逃げ出す者、死装束を血に染める者」


「おまえさんは城に入らなかったのか?」

「入りませんでした」


「城下で戦うことにしたわけか」

「照姫さまが城下におられるという話が耳に入りました。殿も敵の銃弾をかいくぐりながらのご帰還、ご入城であらせたので、もしや照姫さまも危険にさらされておいでなのではないかと、武芸仲間のおな衆とともに真偽を確かめに走ったのです」


「武芸仲間とは恐れ入る。向こう見ずな女は、おまえさんひとりじゃなかったんだな」

「この秋、若松城下の武家の女子は紅や白粉おしろい、着物や帯の代わりに、より切れ味の鋭い短刀を探しては買い求めておりましたのよ。そして信頼できる相手を選んで、もしものときのかいしゃくを互いに約束していたのです。わたくしは、母や妹と」


 説かれてみれば、心当たりがある。


 大町四ツ角から程近い刀商に、まだあどけない顔をした武家の娘が熱心な様子で問いをぶつけていた。職人肌でどうにも口下手な刀商は俺を見付け、これ幸いとばかりに店に呼び込んで、娘の問いに答えさせた。


 後で聞いたところによると、娘は家老の西郷たのさまのご息女だった。男と話すのは慣れていないのだと頬を染めた齢十六の娘の愛らしさに、男持ちの無骨な短刀は不釣り合いで禍々まがまがしく見えた。


 あの娘は生きているだろうか、死んだのだろうか。案じたところで、今さら何をしてやれるわけでもないが。


 竹子は遠くを見る目をした。


「照姫さまは城下にはおられませんでした。わたくしたちは遅ればせながらお城に入ろうとしたのですが、夜のとばりが下りて城門はすでに閉ざされ、城外に留まらざるを得なかった。であれば、いっそこのまま城外で敵を迎え撃とうと決意するに至りました」

「女だけで戦おうと?」


「いいえ、いくら何でもそれは無理だと存じておりました。わたくしと行動をともにしたのは、母と妹を含む五名のみ。たったの六名ですし、鉄砲も大砲も持っていないのでは、どう足掻いても、戦果を挙げられぬままに殺されてしまうでしょう?」

「そりゃそうだ。刀と槍だけの六人ぽっちじゃ、例え最盛期の新撰組の精鋭でも、大軍に突っ込んでいって戦えやしねえ。それで、おまえさんたちは会津軍と合流したのか?」


「はい。家老のかやごんのひょうさまが近くに駐留しておいででしたから、押し掛けていって、従軍させてくれと頼み込みました」

「頼み込んだ? 十六橋のときと同じ、自害するだ何だっていう大騒ぎを、またやらかしたんだろう」


 くすくすと笑った竹子は、俺を上目遣いで見た。


「よくおわかりで」

「わからねぇわけがねえ」

「だって、一度うまくいった手ですもの」

「ぎょっとするような駄々をこねる女はたまにいるが、ほどほどにしねぇと愛想を尽かされるぞ」


「ご忠告、痛み入ります。土方さまはおなの扱いが手慣れておいでですのね。けれど、愛想を尽かされるほど駄々をこねる機会は、わたくしにはもう巡ってきませんわ。死んだのですもの」


 俺は竹子に手を伸ばした。死んだという言葉が、やはりまだ腑に落ちないのだ。幽霊は姿が透けて足がないものと相場が決まっているが、目の前にいる竹子はそうではない。触れられそうだと思った。


 果たして、俺は竹子に触れることができた。冷たく硬かった。しなやかに笑ってみせる頬さえ、石仏でも撫でているかのようだ。しかばねの手ざわりだった。


「妖の所業か、これは?」

「逢魔が時は、がんと彼岸のあわいがあやふやになります。夜の闇が訪れるまでのひととき、今少しだけ、わたくしにお付き合い願えませぬか?」


「ああ、構わねぇよ。女の話を聞くのは嫌いじゃないんでな。特に、初めは頑として俺に食って掛かったような生意気が、ふっと素直な顔を見せるようなのには弱い。ついつい情が移っちまう」

「お上手ですこと。屍の頬など撫でて、気味が悪くはございませんの?」


「こうしてみても結局ぴんと来ねえってのが正直なところさ。手のひらは確かに、人ではないものに触れている。が、おまえさんがそうやって人と同じ姿で笑ったりしゃべったりするから、どうもわけがわからねえ」


 きりりとした形の竹子の目は、ひどく澄んで凪いでいる。強いて言えば、そのまなざしが竹子から死を感じさせた。悟り切った静けさとはまるで逆の、どうしようもない跳ねっ返りの目をしていたはずだ。

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