三 土方歳三之章:Rush 母成峠の戦い

壱 明月

 八月半ばの黄金色に肥えた月が、おぼろな雲の間にのぞいた。月影に照らされ、待ち人が姿を現わす。斎藤一だ。


 俺は、ほっと息をついた。


「よく戻ったな、斎藤。日が落ちるころから、今か今かと気に掛かって仕方がなかったぞ。期日どおり、無事に戻ってきてよかった」


 二本松に駐屯する倒幕派の内部を探ってこいと、斎藤に命じたのは俺だった。斎藤は単身、敵中に躍り込んだ。俺はなわしろ湖の南、白河街道のふく宿で新撰組を率いて、ただ待つばかりだった。


 眉間にしわを刻んだ斎藤は嗄れた声で告げた。


「すぐ出立のたくを。二本松の倒幕派に、江戸の大総督府から会津攻めの許可が下りた。連中の出陣は二十日だ」

「二十日か。確かに時間がない。やはり米沢でも仙台でもなく、こっちに来るんだな。どの道を通る?」


なりとうげ

「母成峠? 幹線を避けるということか。中山峠やせいどう峠は会津藩が守備を固めている」


 うなずいた拍子に斎藤は、ぐらりと倒れかけた。俺はとっさに腕を差し出したが、斎藤は俺の手をつかもうとせず、自分の膝にすがって耐えた。


 宿場はまだ宵の口。雑多な身なりの人々が、空きのある宿屋やゆうにあり付ける飯屋を求めて行き交っている。福良宿には新撰組など幕府方の軍が逗留するほか、若松からの疎開者もそれなりの数に上るようだ。


 斎藤はほつれた前髪の下から、異様に暗く強い目で俺を見た。


「休んでいる暇はない。連中より先に布陣しなくては」

「わかった。だが、報告を聞く暇くらいはあるべきだ。俺の部屋に来い。宿の者におまえのぶんの飯を運ばせよう。どうせろくに食ってねぇんだろう?」


「食う気がしない」

「それでも、飯があるときに食っておけ。斎藤一、山口二郎を慕って従軍を続けている隊士もいるんだ。やつれた姿なんぞさらすもんじゃねえ。何なら風呂を使ってこい。血の匂いもまぎれるだろう」


 びくりとした斎藤のまなざしから、ぎらついた光が抜け落ちた。うつむきがちに目を伏せると、頬やあごの硬さが隠れ、少年のころの面影がのぞく。


「風呂を浴びてくる。すぐ土方さんの部屋に行く」


 ささやくように言って、斎藤は宿に入っていった。残された俺は、雲ににじんだ中秋の明月を仰ぐ。


 案の定、人を斬ってきたか。


 幾人を手に掛けたのか、最早、斎藤自身も数えていないに違いない。それほど多くの殺生に関わってきても、斎藤はその仕事を呑み込み切れずにいる。


 人を斬った後の斎藤は、顔を見ればわかる。やるせない陰の差した、今すぐ殺してくれと言わんばかりの顔をしている。


 その凄絶な顔こそ男前だと絶賛した隊士がかつていたが、局中はっを犯した罪で腹を切らせた。かいしゃくを務めたのは斎藤で、震える短刀の切っ先が隊士の腹に触れたと見るや、声ひとつ上げさせずに隊士の首をねた。返り血を浴びる斎藤は、例の凄絶な顔をしていた。


 元来綺麗好きの斎藤がこざっぱりとしたはかま姿で現れたとき、俺の部屋には幕府陸軍の歩兵奉行、おおとりけいすけがいた。俺より二つ年上の大鳥さんは、昨年一月に幕府がフランス人の軍事顧問を招いて創った洋式陸軍、伝習隊の総督を務めている。


 斎藤は部屋の敷居をまたいだきり立ち尽くして、洋装の大鳥さんを凝視した。大鳥さんは宇都宮や日光の方面、つまり江戸街道で戦ってきた人だ。白河街道が主戦場だった斎藤は若松でも福良でも行き違いになって、大鳥さんと面識がない。


 大鳥さんは、年より若く見える丸顔を悠然と微笑ませた。


「お初にお目に掛かる。伝習隊の大鳥圭介だ。これより先、伝習隊は新撰組と行動をともにするので、よろしく頼む。そのほうは山口二郎どのお呼びすればよいか? まあ、まずは座ってくれ」


 斎藤は俺がうなずくのを見て、ようやく腰を下ろした。鋭い目を大鳥さんに向ける。


「山口とお呼びください。大鳥さんは、明石か姫路か龍野か、そのあたりの生まれですか」

「惜しい。赤穂あこうだ。しかし、よくわかったな。江戸の者と話すときは江戸の言葉を使うように気掛けているんだが」

「訛りが残っています。オレは、近い知人が明石の生まれなので」


 斎藤が言う近い知人とは、斎藤自身の父親のことだ。俺も初めて話したときに大鳥さんが生粋の江戸っ子ではないことはわかったが、まさかはりまのくに赤穂藩のような遠方だとは思わなかった。その程度には、大鳥さんの江戸言葉は板に付いている。斎藤は特別に耳がいい。


 俺は斎藤のほうへ夕餉の膳を押しやった。握り飯とにしんさんしょう漬け、青菜の煮浸し、碗に注いだ酒。斎藤はまず一息に酒をあおり、それから握り飯に手を付けた。俺はいくらか安心する。


「放っておくと何も食わないんですよ、斎藤は。空腹も何も感じなくなるようです。任務に忠実でまじめなのはいいが、己を追い込みすぎるきらいがあってね」

「ほう、それはまた凄まじい。武士とはくあるものなのだな。土方どのにせよ山口どのにせよ、いくつも死線をくぐってきた男は、やはり何かが違う。私のように書物で以て兵学をった人間では、いやはや、そんな境地にはたどり着けそうもないよ」


 大鳥さんはおうように笑った。無論、大鳥さんも身分で言えば武士だが、刀の似合う人ではない。知識欲旺盛な学者肌で、イギリスやフランスの言葉を話すし、医学にも洋式武器にもぞうけいが深い。


 伝習隊の兵士に聞いたところ、大鳥さんは実戦の腕はからきしで、前線の指揮もうまいわけではないらしい。それでも伝習隊は大鳥さんを総督として結束している。大鳥さんがいる限り生き延びられそうな、大船に乗ったような安心感があるという。

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