陸 業火

 薩摩藩の軍勢が動き出したとの報告を聞いたのは、六月一日早朝。稲荷山でのことだ。


 軍を三つに分かつ作戦は真実だったらしい。先行する左右の隊の兵力は、旗の数を見るに、それぞれ三百から四百。密集した陣形を取る中央の本隊は無論、それを優に上回る見込みだ。


 迎え撃つ会津方の連合軍は、総勢二千五百。その半分を主力として稲荷山に置いて、残りは白河城と城下町の各所に予備戦力として控えている。


「本当に行くんだな、斎藤?」


 島田さんが深刻な顔でオレに問う。オレは、赤地に誠の一文字をしたためた段だら模様の旗を、島田さんの分厚い手にゆだねた。


「隊士たちを任せる」

「局長の肩書が聞いて呆れるぞ」

「局長代理だ」

「どっちだって同じだ。とにかく、生きて戻ってこい。おまえが戻るまで、こっちも必ず踏ん張ってみせる」


「新撰組の動きは、初めは突出せずに」

「ああ、大砲の撃ち合いは、やり過ごすしかない。ここにある貧弱な装備で太刀打ちできるとは思ってないさ。敵が城や城下町を狙って突っ込んできたら、そこを各個撃破だ」


 新撰組は南方のさんろくに配置されている。白坂口から北上してくる敵の本隊と、正面から向き合うだろう位置だ。ただし、見通しは開けていない。小丸山がせり上がって、反対側にいるはずの敵の姿を隠している。


 伊地知は小丸山に布陣するだろう。オレは小丸山で待ち伏せして、伊地知を襲撃する。率いる手勢は時尾だけ。


 島田さんは腕を掲げると、真新しい袖章をぱんと叩いた。オレも同じようにしてみせて、時尾を振り返った。


「行くぞ」

「はい」


 時尾の武器は小太刀。身の軽さを活かして、なかなかうまく使う。たすきを掛けた袖口からちらりとのぞく二の腕に、蒼い環がある。


 薄曇りの中、街道をまっすぐに駆けた。


 弱々しい朝日の光はおうが時のように、人の目に淡い闇を投げ掛ける。明るいようで実は暗い、このくらいが存外、身を潜めるには都合がいい。光があるかに見えるぶん、人は己の目を過信して、耳を澄まそうとしない。


 猟師道から小丸山に分け入ったとき、山頂のほうからときの声が聞こえた。倒幕派がすでに到達したらしい。


「予測より早い」

「偵察や妨害の、ために、会津軍の一部が、小丸山の南に、配置された、はず」

「蹴散らされたんだろうな」


 時尾は息を切らしている。走る速さは加減したつもりだが、女の脚にはつらかったんだろうか。


 木立の陰に立ち止まる。朝露に濡れた草木の青い匂いに、むせ返りそうだ。


「斎藤さま、進まねぇのですか?」


 オレは時尾を見据えた。


「暗殺しようとしている」

「はい。心得ています」

「怖くないのか?」

「いいえ。わたしも何度も戦場に出て、この手で、人を傷付けてきました。例え人を殺すことになっつまっても、おっかなくはねえ」

「そうじゃない。あんたはオレが怖くないのかと訊いてる」


 危険だと判断した相手を、ならば殺そうと、即座に思った。新撰組として生き抜く中でオレが身に付けた戦い方だ。


 時尾は息を整えるように胸に手を当てて、少し黙っていた。そして、しっかりした声で答えた。


「悲しいと思ったことはあります。だけんじょ、怖くはありません」

「悲しい?」

「それよりも斎藤さま、薩摩軍の様子がおかしいなし。気配が妙に少ねぇのです。せいぜい百人くらいしかいねぇように感じます。その中で、環を持つ者の強ぇ気配が一つ」


 時尾が不安げに眉をひそめた次の瞬間。


 ごうっ、と音がした。


 空だ。ぱっと見上げる。炎のかたまりが飛んでいく。炎は稲荷山の中腹に着弾して、ぼんっと音を立てた。山頂の薩摩軍が歓声を上げる。


 ただの炎ではあり得なかった。左手の甲の環が騒ぎ出している。時尾のように鋭くないオレにも、はっきりとわかる。


「炎の化け物というのが、あれか」


 行くぞ、とあごをしゃくる。時尾はうなずいた。

 猟師道を駆け上がる。


 山頂に近付くにつれて木がまばらになった。生えていないんじゃなく、切り倒されている。北に向けて開かれた場所に、大量の旗が立てられている。


 手際よく斧を振るって木を切る敵兵と、不意に目が合った。オレは迷いなく飛び出した。声を上げかけた敵兵の口を手で塞ぐ。


 敵兵の肩に手刀の一撃。こぼれ落ちる斧を蹴り飛ばしざま、その体を地に投げる。短くうめいた敵兵はあっさり気を失った。


 大砲を放つ音がする。次々と撃たれている。火薬の匂いを乗せた風が大量の旗を揺らしている。


 大量の旗には違いない。旗だけが多い。人影と声は時尾の言ったとおり少ない。


「もしかして、陽動か?」

「陽動? 小丸山の軍勢は、本当は主力ではねぇという意味ですか? 大勢いるように見せかけて、会津軍の気を引こうとしているのかし?」

「ああ。正面から進むと見せかけて、左右の迂回部隊が連中の本命だ。白坂口の薩摩軍は、オレたちの読みより少数なのかもしれない」


 敵陣を偵察して兵力の規模を測るとき、旗や灯火の数を目安にする。実際に兵士を数えて調べるわけじゃない。


 もしも小丸山に布陣した敵軍の兵士が、一班に一本ではなく一人一本ずつ旗を背負っていたら。遠目には、密集した陣形の大軍に見えるはずだ。


 オレは、左に差した刀を鞘ごと抜いて、右に差し直した。利き手の左で刀を抜けば、あまりにも非礼だと大抵の武士は激昂する。怒りが生む隙に付け入るのが、オレの初手。


 駆け出す。時尾が遅れずに付いてくる。


 敵兵が数人ずつの組を作って大砲に取り付いては、稲荷山へ向けて撃ちまくっている。


 濃厚な火薬の匂い。煙の匂い。一発撃つごとに勢いよく後退する大砲の車輪が、山肌の土をね上げる。湿った土と草の匂いが立つ。


 オレは木の陰から飛び出しながら刀を抜き放った。手近な一団に襲いかかる。


 背中から一突きして、一人目。振り向きかける首を切り裂いて、二人目。声を出そうとした大口に切っ先を突き込んで、三人目。刀に手を掛けたその腕ごとけに、四人目。砲弾を抱えて身動きの取れないところを、五人目。


 血の匂いが立ち込める。


 いち早くオレに気付いた男がいる。そいつがオレに手のひらを向けた。せつ、炎の塊が飛んでくる。転がって避ける。


「伊地知!」


 炎のような赤い髪が逆立っている。かつて見たとき眼帯をしていた左目は、赤い光を宿して爛々らんらんと燃えている。


 伊地知正治が笑った。


「おはんからは環の力ば感じる。加えて左利きで、そん剣の腕前。おはん、新撰組の斎藤一じゃろ。京都で死んだち聞いたどん、生きちょったか」


 オレは答えず、まっすぐに駆ける。敵軍にざわめきが起こる。刀のつばを弾き飛ばす。妖刀、環断の力が解き放たれる。


 伊地知がごうを繰り出す。オレは環断を一閃。かまいたちが炎を真っ二つに断ち切る。熱波が肌を打つ。そのまま伊地知に斬り付ける。


 がつん。

 岩でも打ったかのような衝撃があった。

 刃を手でつかまれていた。炎で形作られた巨大な手に。


「馬鹿な」


 熱気の向こうで伊地知が笑っている。


「そいは、おいの台詞じゃっど。こん炎にも溶けん刀とは、おもしろか。骨のある男は好っじゃ!」


 炎の手が環断を突き放した。オレは同時に跳びのいて、勢いを受け流す。


 銃口を向けられていると気付く。幾人もの敵兵がオレを狙い、伊地知もまたオレへと手を伸ばす。


 時尾が飛び込んできた。淡い光をまとっている。光がぶわりと広がる。

 銃声。襲いくる炎。


 光の膜に触れた銃弾がちりと化す。炎が膜を舐め、そして消える。


「斎藤さま、目、つぶってくなんしょ!」


 時尾の気が、はち切れそうに高まっている。オレは目を閉じた。まぶた越しにも強い閃光を感じた。敵兵のうめき声。


 斎藤さま、と時尾が呼ぶ。まぶたを開いて、その瞬間、地を蹴る。全身の勢いを乗せた刺突を、伊地知に。


「甘かど!」


 炎を叩き付けられる。ひるまず踏み込む。勢いに押し負ける。繰り出す切っ先が伊地知に届かない。遅れて、急激な火傷の痛みが来る。


 炎の第二波。転がってかわしたところへ、時尾が駆け付ける。まぶた、頬、首、腕。触れられた箇所の痛みが引く。オレは時尾の目を見る。


「あと一度だけ突っ込む」


 それで仕留めたい。できなければ撤退だと、袖章を叩いてみせる。時尾はうなずいた。


 環断の柄を握り直す。手のひらから柄へと気が吸い取られる。柄から手のひらへと力が流れ込む。手の甲の環が脈打って熱い。


 断て。妖の炎を成す赤き環を断て。絶て。りんことわりより外れて歪んだ命を絶て。


 妖刀が高らかにオレに命じる。黙れと、オレも命じる。環のさだめなんか知ったことか。オレが伊地知と戦うのは、会津軍を勝たせたいからだ。


 一陣の炎を光の膜でやり過ごして、みたび飛び出す。伊地知の爛々とした左目の中に、赤い環。閃光の目潰しが効かなかったのも、この目だからか。


 伊地知が刀に手を掛ける。腰を沈める。異様に低い体勢から斬り上げる。

 オレは伊地知の斬撃に環断を叩き付けた。


 澄んだ音が鳴った。伊地知の刀が折れた。今だ。追撃を。


 伊地知がにやりと笑う。至近距離。刀を返す一瞬の隙に、伊地知はもう動いている。


「死ね」


 熱波が膨らむ。避けられない。


「斎藤さま!」


 柔らかいものが後ろからぶつかってきた。時尾だ。細い腕がオレに抱き付く。その手が袖章の術式を破った。


 落ちる、と感じた。地面が消えたと思った。

 暗転。

 そして投げ出された。土の上に転がった。


 体を起こす。伊地知の姿はない。誠の一文字の赤い旗がある。島田さんが目を見張っている。


「斎藤! 戻ってきたか! 時尾どのも無事か?」


 時尾が、ぱっとオレから離れた。二つに裂けた袖章が地面に落ちる。


 煙の匂いが鼻を刺した。一群の木が倒れて燃えている。人影が炎の中に転がっている。


 砲弾にえぐられた土。破壊された大砲。血を流してうめく兵士。


 ひゅっと風を裂く気配がある。空を仰ぐ。弧を描いて飛んできた炎の塊が、地面に落ちて炸裂した。轟音。熱波。同じ軌道で砲弾が降ってくる。山が揺れる。


 オレは拳でももを打った。


「仕留め損ねた」


 島田さんが、滅多にない早口で言い募る。


「小丸山からの砲撃に難儀している。こっちの大砲と、射程も威力も桁違いだ。西郷さまの命令で白河城や城下町の部隊も稲荷山の救援に来ようとしているが、旧式の大砲が何十門も集まったとしても、これは……」


「駄目だ! 稲荷山に兵力を集めちゃ駄目だ」

「斎藤、どういう意味だ?」

「陽動なんだ」


 砲弾が飛来する。とっさに伏せる。着弾、爆発、轟音。土煙が収まると、倒れて動かない兵士がいる。


 スペンサー銃を抱えた八重が駆けてきた。


「時尾さん! さすけねぇがよ?」

「八重さんも無事でよかった! だけんじょ、ここにいては敵の思う壺だ。敵は小丸山の砲撃で気を引いている隙に、左右の分隊でわたしたちを囲い込むつもりだ」


 すすに汚れた八重の顔が、それでも青ざめるのがわかった。


「そっだら、西の立石山でちかちか光るものが見えたのは、敵の大砲だべ。東には雷神山がある。小丸山も含めて三方から砲撃されたら、じょしようもねえ」


 オレは焦った。


「西郷さまに作戦の変更を進言する」


 八重がかぶりを振った。


「今さら間に合わねぇべ。稲荷山さ増援に迎えと、命令は行き渡った。みんな動き出している。今、命令を引っ繰り返したら、完全に混乱しっつま」

「罠にめられているとわかってるのに、何もせずにいられるか! 新撰組に遊撃の許可をいただく。西郷さまは白河城か?」

「こっつぁ向かっているはずだ。白河城はほとんど、がら空きになっつまっているはず」


 オレは立ち上がった。その途端、戦場にあってはならない色が目に飛び込んできた。あでやかな藤色。


「山口さま、ご無事で!」


 弥曽が土埃の中を駆けてくる。


「馬鹿、伏せろ!」


 視界の隅の黒点が、ひゅっと音高く、一瞬のうちに大きくなる。弥曽の行く手の数歩先に砲弾が落ちた。土がね飛ぶ。


 オレは抜身の刀を振りかざして駆けた。椎実しいのみ型の砲弾の頭を斬り飛ばす。導火線は断った。だが、すでに火薬に火が回っていたら。


 弥曽を突き飛ばして、その体の上に覆いかぶさる。衝撃を覚悟して待つ。


 一、二、三、四、五。息を詰めて数えて、それから顔を上げた。同じく顔を上げた八重が、オレを見てうなずいた。


「さすけねえ。その砲弾はもう爆発しねぇべ」


 オレの体の下で、弥曽が目を見張って震えている。


 また砲弾が飛んでくる。そのたびに、動けなくなる者が出る。陣形なんか、とっくにめちゃくちゃだ。


 下すべき命令が唐突にわかった。


「新撰組も会津藩も聞け! 負傷兵を保護して、すみやかに北に撤退しろ! 西郷さまと合流して白河城を守れ! 敵の狙いは稲荷山じゃない、迂回して白河城を取ることだ! 小丸山の迎撃は不要、今すぐ北へ動け!」


 時尾が、八重が、島田さんが、オレのほうに駆け寄ってくる。オレは弥曽を立たせて、撤退の準備を始めた会津藩士にゆだねた。


 島田さんが厳しい顔をした。


「おい、斎藤、勝手な命令をしていいのか?」

「責任はオレが取る。殿しんがりもオレがやる」


 砲弾が東から飛んできた。雷神山を取られたらしい。呼応するように、あるいは鼓舞するように、小丸山から炎の塊が飛んできた。


 オレは唇を噛んだ。負け戦を覚悟した。

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