伍 襲来
江戸での募兵に応じた隊士の中に、もともと大工や
土まみれになっての力仕事は、オレも覚えがある。京都に出向く前、江戸で近藤さんの試衛館に通っていたころ。道場の台所事情を助けるために、隣近所から頼まれる力仕事をよく買って出ていた。
土塁の高さは人の背丈を超す程度。急ごしらえだが、それでも用を成すはずだ。敵は身ひとつで攻めてくるわけじゃない。鉄砲を
白坂口に配置されて三日目。連日ぶっ通しの土塁造りの話を聞いた西郷さまから、ねぎらいの言葉と、仙台藩士と当番を代わるようにとの通達が来た。新撰組は、最後のひと踏ん張りだと掛け声も高らかに、土を運んだり固めたりしている。
オレは、三重に築いた土塁を街道脇の小山から見下ろした。中腹が見晴らし台のように出っ張って、南の方角がよく望める。
「指揮を執るなら、この位置だ」
傍らの島田さんがしきりにうなずいた。
「ここから撃ち下ろせば、土塁で足止めを食らっている敵軍を一掃できるな。側面から回り込まれたとしても、対応できる。しかし斎藤、おまえも知恵が働くもんだ。土塁を造ったり作戦を立てたり」
「餓鬼のころ、近藤さんに話して聞かされた『三国志』や『水滸伝』に、こんな場面があったと思う。戦場では普請してばかりなんだなと言った記憶がある」
「なるほど。それはそうと、手に持っている花は何だ?」
「崩そうとした崖に咲いていたから摘んだ」
青い花と白い花だ。名前は知らない。昔、気まぐれを起こして花を摘んで帰ったら、母や姉が喜んだ。そんなことを、夏の風に揺れる花を見た途端、急に思い出した。
「あのな、斎藤、摘んだその花をどうするのかという意味で尋ねたんだが。時尾どのに持って帰るのか?」
「ああ」
「そうか。やはり本命は時尾どののほうか。頑張れよ」
「は?」
「艶っぽい年増の弥曽どのに揺れているかと思ったが、そうでもなかったな。いや、実は皆、気になっていてな。斎藤は姉さんっ子だったと聞いたし、じゃあ時尾どのをどうするつもりなんだろうか、と」
かっと頬に熱が集まった。
「違う。花は、旗を縫ってもらった礼に……他意はない」
島田さんは、からからと笑うだけだった。
***
事態が急変したのは、
「面目ねえ! 土塁ごと吹っ飛ばされて、白坂口を奪われた!」
新撰組の仮屯所となった脇本陣に仙台藩士が知らせに来て、そのまま倒れ込んだ。火傷だらけで、髪も服も焼け焦げている。
「何があった? 洋式兵器か?」
「んでねぐで、大砲でも銃でもねぐで、環の力だ。赤ぇ環の、赤ぇ髪の、化け物みてぇな男が……」
仙台藩士はオレの左の手の甲に気付いて、すがるような目をした。そこには、彼岸文字で
「損害は?」
「死んだ者、怪我した者、火傷した者は白河城に運び込んだ。我ら仙台藩は戦力が半分になっつまった。乗っ取られた白坂口には、倒幕派が駐屯している」
「敵の数は?」
「わがんね。だっけんども、二百三百ではねっちゃ。大軍だべ。旗が
「旗? 何藩だ?」
「薩摩だ。指揮官の格好をした男が、炎の化け物だった」
すぐに隊士数人を偵察に向かわせた。仙台藩士の言うとおり、焼け跡と化した白坂口にはずらりと旗が並んでいたらしい。旗に描かれたのは、丸に十文字、薩摩藩島津家の家紋だ。
緊急の軍議が開かれた。その結果、白河城には最低限の守備兵を残し、主力は城の半里ほど南にある稲荷山に置くことになった。
山と呼ばれはするものの、稲荷山は、ほんの少し周囲から盛り上がった程度だ。付近には、稲荷山より高い山がいくつもある。
なぜ稲荷山なのか。もう半里南の小丸山のほうが見晴らしが利く。そちらに主力を移してはどうだろうか。
オレを含む幾人かが西郷さまに提案した。西郷さまは首を縦に振らなかった。白河城を離れすぎては背後を突かれる不安があるという。確かに一理あるが、しかし。
奇襲を除けば、戦場での勝敗は大砲の撃ち合いによって決まる。だから、高台を取ったほうが強い。高台に据えた大砲は、平地で撃つより射程が伸びる。下から撃ち上げる大砲は、高台を狙いにくい。
危うい予感がした。それでも、下された決定は引っ繰り返せない。
オレは時尾を、鉄砲の整備をする八重のところから呼び出した。用件は時尾も察しているようだった。
「斎藤さま、白坂口に布陣した薩摩軍の指揮官が環の力を使うと聞きました」
「そうらしい。出陣できるか?」
「尋ねるのではねく、命じてくなんしょ。会津の
ひたとオレを見つめる目に吸い込まれそうだった。時尾は美しい。頬に
馬鹿が、と自分を
「新撰組局長代理として命じる。前衛に出陣しろ。環の力を使う者には、常人では太刀打ちできない」
「かしこまりました。お力になれるよう、できる限りの援護をいたします」
言うべきか、一瞬迷った。言ってもいいと判断した。
「頼りにしている」
時尾が目を見張った。そして、ふわりと微笑んだ。
「お任せくなんしょ。斎藤さまのお背中はわたしが守ります。それから、あの、昨日いただいたお花は……」
時尾が言い差したところで、新撰組隊士がオレを呼んだ。偵察から戻ったところらしく、興奮気味だ。新しい情報を手に入れたんだろうか。
オレが目配せすると、時尾は一礼して去った。入れ替わりでオレの前に飛んできた隊士は、息せき切って言った。
「敵の総攻撃は明日でさあ! 軍を三つに分けて、三方からこの稲荷山を包囲しようってぇ腹です。本隊は中央を進撃、小丸山を押さえてここに布陣して、稲荷山を砲撃する算段だ。本隊を率いるのは、指揮官の
「伊地知正治か。京都でも活動していた軍略家だ。伊地知の策で、薩摩は一時対立したイギリスと素早く講和して、イギリスから鉄砲や大砲を買い入れた。それが薩摩の軍事力の源になった」
「局長、さすがの情報通だね! 剣の腕が立って鉄砲も使えて、前線で指揮を執れば見事な采配、しかも敵陣の事情にも通じてると来りゃあ、まさに無敵ってやつじゃあねぇですか」
「局長じゃない。代理だ。京都では、敵情を探るのが仕事だった。浮かれていないで、今の件を島田さんにも報告してこい」
「承知しやした!」
ごった返す人混みの間を縫って、江戸で雇い入れた隊士が駆けていく。
引っ掛かるものがある。
こうも簡単に作戦を洩らすとは、伊地知は何を考えているんだろう? 嘘の情報を流して
伊地知正治の姿かたちを思い出す。薩摩藩士らしい顔立ちだった。目が大きくて鼻は横に広い形、唇は厚い。左目には眼帯をして、左脚を引きずっていた。
オレは伊地知を戦場で見たことがない。自ら軍を率いるのではなく、参謀として誰かの背後に潜んでいる。そういう人物だと思っていた。
「炎の化け物」
仙台藩士が目撃したという伊地知の環の力を、オレは知らなかった。舌打ちする。敵情を探るのが仕事とほざきながら、オレは何を見ていた?
考えろ。何をすべきか。何ができるか。局長代理とはいえ、今、新撰組の名を背負っているのはオレだ。
蒼い環のある利き手で、愛刀の柄を握る。妖刀、
相手が環の持ち主なら、環断の力を解放する。伊地知はオレが仕留めなければならない。
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