参 烈女
「俺は毎朝この刻限に湯治場を訪れる。滅多に人が来ないからな。一度、家老の
「ええ、わたくしも、誰もおらぬと思っておりました。それゆえ、見ず知らずの男に裸を
さっきよりも乱暴な水音がした。俺は苦笑する。この竹子という女、気位が高いのだろうが、いくらか子どもじみていやしないか。
まあ、跳ねっ返りは嫌いではない。きびきびとした受け答えはいかにも利発で、遠慮のない言葉を投げ付けられるのはいっそ爽快だ。
「俺でよかったじゃねぇか。俺は、女の裸を見たからといって即座にどうこうしようと
「男なんて、皆、浅はかでございましょう!」
「かりかりしなさんな。会津の若い連中がどうだか知らねぇが、俺を一緒くたにするな。三十路も半ばに差し掛かりゃ、手練れにもなる。腕力に物を言わせて女を襲うなんて野暮な真似はしねぇよ」
「万が一にもおかしな振る舞いをなさらぬよう、ご注意なされませ。身の危険を感じれば、シジマをけし掛けます」
「シジマ? 黒い狐のことか?」
「はい。江戸からの道中、わたくしに懐いたのです。人間の男より、よほど頼りになる用心棒ですわ」
「ずいぶんな言い草だな。人間の男に恨みでもあるのか?」
「男など、
ざわついて落ち着かないご時世だ。
「しかし、会津武家の女は本当に勇ましいものだな。京都でも何かと世話になった」
「
「知り合いか? 年のころは近いだろうが」
「時尾さんはわたくしより一つ年上とうかがっています。お話ししたことはございませぬ。時尾さんはずっと京都にいらして、土方さまや山口さまとご一緒に会津に入っても、すぐにまた前線へ出ていかれました」
言葉に口惜しさがにじんでいる。同じ女の身でありながら戦うことを許される時尾がうらやましい、といったところか。
俺は竹子の他愛ない負けず嫌いを笑った。いや、そのつもりだったが、歪めた口からこぼれたのは醜い嫉妬だ。
「時尾どのには蒼い環がある。うちの斎藤……山口二郎と同じだ。環を持つ者が常人をはるかに
「お気持ち、お察しします。自ら望んで
「赤い環を成せる者も特別だ。さほど多くない。大抵の者は妖気に精神を食われて、呪詛を
「倒幕派にも、環の持ち主はいるのでしょうか?」
「連中が劣勢だったころは、化け物が異様に多かった。今はどうだろうな。減っているんじゃないかな」
「減っている? なぜです?」
「いかに常人離れした力を得ても、新式の鉄砲や大砲の前には無力だ。環の力に手を出して制御の利かない化け物を造っちまうより、西洋式の軍制改革をするほうが効率がいい。危ういのは、むしろ会津だ。会津には旧式の武器しかない」
はっと息を呑む竹子の気配が、滝の音にまぎれることなくありありと、湯の上を滑って俺に届いた。
「土方さまは会津が劣勢だとおっしゃいますか?」
「圧倒的に劣勢だろうよ。兵の数も引っ繰り返された。
「孤立無援だと?」
「おそらくは」
前線の斎藤だけではなく、仙台や米沢や越後にも遣いを出し、戦況を報告させている。いい話は聞かない。
竹子が腹立たしげに言った。
「幕府の命を受け、会津は京都で天皇をお守りしていました。徳川宗家への忠誠はもちろん、天皇家への精勤も諸藩の追随を許さぬ姿勢であったのに、なぜこのような目に遭わねばならぬのです?」
「会津公を厚く信頼しておられた先の天皇が崩御したとき、完全に流れが狂った。いや、その前年には倒幕派の内部で布石が打たれていたことを、俺たちは把握していなかった」
「布石とは?」
「薩摩と長州がひそかに手を組んでいやがったんだ。薩長は
「徳川宗家は会津の名誉を
「倒幕派の前に
「そんな殺生な」
「当世随一の忠義者、会津公なら、このとんでもない尻拭い役も引き受けざるを得ないと、幕府の連中は考えたらしい。そして、それは正解だった」
俺たち新撰組は、会津藩預かりの武士集団だ。容保公は頭ごなしの命令をする主君ではなく、俺たちを手先として操ろうともしなかった。だからこそ荒くれ育ちの俺たちは、容保公を上司として慕った。新撰組が志す義は会津のそれと同じだと信じられた。
人を殺す罪は為してきた。ただし、世を乱す悪を為したつもりは一切ない。
正道を歩んでいるはずだった。何度思い返しても、悪逆非道の賊軍と
いけない。過去を思い悩むばかりでは、生き延びられない。今の俺に為し得ることを、
俺は立ち上がり、湯船を出た。途端に、傷めた脚が重く
「もう行かれるのですか?」
「竹子どのは、そのほうが安心だろう?」
「さようでございますね。また改めてお話しできればと思います。京都のこと、戦のこと、お聞かせくださいませ」
黒い毛を重たげに濡らしたシジマが駆けてきて、値踏みするように俺を見上げた。猫と同じ縦長の瞳を持つ金色の目は、野育ちの獣のくせにずいぶんと賢そうだ。
「忠義者だな、おまえさんは」
誉めてやればそれがわかるらしく、シジマは満足げに笑うような顔をした。
立ち去ろうとする俺の背中に、竹子の声が触れた。
「お背中が美しゅうございますね。お背中に傷がないのは、敵に背を向けぬ勇敢な武士の証と申します」
「俺には見るなと言っておいて、竹子どのは俺の裸を見るのか?」
「……お黙りくださいませ」
「背中に惚れ惚れすると言ってくれる者も多いが、尻がまたいいとも言われるぞ。竹子どのからは、こちらを誉めてはもらえないのか?」
「お、お黙りくださいませ!」
ばしゃんと湯を打つ音がして、シジマが鼻にしわを寄せた。俺は笑いながら振り返らず、肩越しに手をひらひらさせて、湯殿を出た。
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