弐 湯治
朝霧か湯煙か、開け放たれた木戸の外はうっすらと白い。時折、風が動くと、五丈ばかり先を流れる滝が見える。
天井から伝い落ちる水滴が俺の額を打った。結っただけの総髪の先が、ぬるい湯にひたっている。
会津の奥座敷、東山温泉での
働けるものなら働きたかったが、新撰組の面々から、銃創が完全に癒えるまではどうか無理をしてくれるなと懇願された。医者にも、休めと言われている。
「死んでいてもおかしくねぇ傷、か」
くすみがちで塩気のある湯に透かして、
素早い止血が功を奏し、また処置が適切で傷口が
おとなしく療養することがこんなに苦痛だとは思いもしなかった。致死相当の傷で後遺症を負った
「耐えられねぇよな。弱っていく体と、じっくり向き合うなんてのは」
傷を負って一月。両手の指で輪を作って
品川で調達した洋服も、肩や胸の厚みがじきに足りなくなって、みすぼらしく不釣り合いになっちまうんじゃないか。間借りしている天寧寺に姿見がないのは幸いかもしれない。
ふと、人の気配がした。珍しいことだ。
俺は脱衣所のほうを振り返った。湯煙が揺れ、差し込む朝日が、そこに立つ人影をまろやかに照らした。
女だ。二十歳そこそこだろう。
しゃんとした立ち姿で、脚や腹にはしなやかな筋肉をまとっている。柔らかそうな茂みと、形のよい
女は湯船の傍らに膝を突き、手を水面に浸して湯加減を見た。うなじから背中、腰へと続くなだらかな曲線。尻は思いのほか肉付きがよく、むっちりと張り詰めている。悪くない。
天井から落ちた水滴が音を立てた。音に引かれるように女が顔を上げ、ようやく俺に目を留める。途端、女の頬に朱が差した。
「嫌っ!」
一声上げて
と、笑ったのも束の間。湯煙の向こうから、今度は小袖を引っ掛けて稽古用の木製の
「この無礼者!」
迷いもなく踏み込んで一
「結構なご挨拶だな」
「わたくしの裸を見て、ただで済むと思わないでくださいまし!」
「風呂で裸になるのは当然だろうに」
「お黙りなさい! その手を離せ!」
「断る。
湯船はさほど深くない。立ち上がった俺の
帯を締めない小袖が、あられもなくはだけている。
いきなり、黒いものが視界に飛び込んできた。と思うと、そいつは俺に飛び掛かってきた。小さいが、獣だ。
薙刀を放しながら、獣の突進をよける。獣は派手なしぶきを上げて着水した。器用に前脚で湯を掻いて、なおも俺のほうへ寄ってくる。
黒い毛の狐だ。
「怪我を治しに来てるってのに、怪我を増やされたんじゃ元も子もねえ。薙刀も狐も引っ込めちゃくれねぇか?」
「ならば、後ろを向きなさい」
「武器を持った相手に背中を見せろと?」
「やましいことがなければ、後ろを向きなさい!」
「俺はあちらの端まで下がる。おまえさんは反対側にいればいい。湯煙の
女が薙刀を構え直した。いい
薙刀も狐も襲ってこなかった。湯船の隅に腰を下ろすと、湯煙の向こう側で女が湯につかる気配がある。しばしの沈黙の後、言葉を発したのは女のほうだった。
「脚を怪我しておいでなのですね」
「ああ。倒幕派の連中に撃たれた」
「新撰組局長、土方歳三さまとお見受けします」
「確かに俺は土方歳三だが、局長の任は別の男に預けている」
「山口二郎さま、でしたか? 江戸の生まれ育ちでありながら会津に縁のある御仁とうかがいましたが」
そうだった。斎藤一はその名を捨て、今は山口二郎と名乗っている。
とはいえ、京都で過ごした五年間、斎藤一の名に親しんできた面々は、なかなか山口二郎に慣れない。容保公でさえ、つい斎藤と呼んでしまうと笑っておられた。
会津で初めて出会った者たちは、あいつを山口二郎と呼ぶ。俺が知る斎藤一とは別の男が会津には存在するのではないかと、時折おかしなことを思ってしまう。
「山口は、母方が会津だそうだ。おかげで言葉もわかる。会津藩の武士とともに戦うには、俺よりあいつのほうが適任だ。それより、おまえさんは会津の武家か? 江戸の言葉を話すようだが」
「江戸
「なるほど。江戸は今、危険だ。会津藩士がうろうろしていては、倒幕派の格好の餌食となる」
「いいえ、土方さまは誤解なさっておいでです。わたくしたちは江戸が危険だから逃げてきたわけではありませぬ。いずれ会津は倒幕派の軍に攻められる。そのとき会津の武士の端くれとして戦うために、この地に来たのです」
「女が戦うというのか?」
「会津では、武家ならば女でも武芸を磨き、学問を身に付けるものです。両親からそう教わって、わたくしも江戸で文武の芸を修めてまいりました。生半可な男より、腕に覚えはございますわ」
ぱしゃり、と水音が鳴る。竹子が身じろぎしたのか。あるいは黒狐のほうか。戸外の滝は絶え間なく、ざあざあと落ち続けている。川の名は
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます