一 土方歳三之章:Spirits 士魂
壱 墓参
夏も半ばに差し掛かろうというのに、
駆け上がることができれば体も温まるのだろうが、
宇都宮で撃たれたころは、迫り来る絶望から逃れようと必死で、痛みを感じる余裕すらなかった。束の間とはいえ会津に腰を落ち着けたことが、俺に正気を取り戻させたらしい。
「あのまま狂っちまえばよかったかな。それとも、死んじまうべきだったか」
足を止めて独り
鳥の声、虫の音、葉擦れのざわめきが聞こえてくる。あたりは皮肉なまでに穏やかだ。怒号、銃声、断末魔の叫びはどこにもない。静寂にまぎれる暗殺の気配もなく、俺はひどく甘やかされた場所に立っている。
行く手を見やれば、山肌に
会津藩士の墓地から外れた一角が、西に向かってぽかりと開けている。木々の間からは会津の中心、若松の全容が見晴らせる。
若松は盆地だ。
「これから戦が起こるようには見えねぇな。そうだろう、近藤さん?」
真新しい墓石を振り返って、ささやき掛ける。
墓石の下に近藤さんの
空っぽの墓などむなしいと言った隊士もいたが、墓の下に骸があろうがなかろうが、大した違いはないだろう。骸が起き上がって生前の顔で笑うわけではないのだ。
「なあ、近藤さん。俺たちは、半年前は京都にいた。先の将軍、徳川
十五年前、浦賀に黒船がやって来た。動乱の気運が高まったのは、あれがきっかけだった。
弱腰の徳川幕府には日本を外国から守る力がない、そのくせ旧態依然の決まり事で民を縛って重税を取り立てる、そんな幕府なんぞ打ち倒してしまえ。倒幕の声があちこちから聞こえ出した。
黒船来航のころ、俺は二十歳にもならない若造で、多摩の田舎を離れて江戸へ奉公に出ていた。
俺は生まれながらの武士ではない。小難しい
奉公の年季を終えて多摩に帰り、農家で商家で宿場の世話役でもある姉夫婦を手伝ううちに、江戸から出稽古に来る近藤さんたちと出会った。俺が武士の暮らしに片足を突っ込んだのはそのときだ。
俺は近藤さんの道場、
田舎者の喧嘩剣術と呼ばれる天然理心流は、蹴り飛ばすのも殴り掛かるのも、目潰しの砂を投げ付けるのさえ
「あれからまだ十年経っていやしねぇんだ。おかしなもんだね、近藤さん。俺はもっとずっと昔から、試衛館で汗を流していたような気がするのに」
武士の真似事をするだけではなく、本物の武士になりたかった。
京都の治安維持のために腕っ節に覚えのある者を募る、身分は問わぬという浪士組の触書は渡りに船だった。剣の腕で以て幕府のために働く絶好の機会だと、俺は近藤さんたちを焚き付けた。
近藤さんが局長、俺が副長を務める新撰組は拡大し、徳川幕府を
佐幕派は昨年末に京都から撤退、今年正月に伏見から撤退、大坂からも海路にて撤退、江戸が無血開城して北へ撤退、宇都宮からも撤退。日光街道から北へ逃れた俺は今、会津にいる。
俺はそっと笑う。笑うしかないだろう。目を閉じると、いかつい顔をくしゃりと緩めて苦笑する近藤さんを、ありありと思い描くことができる。
「こんなにゆっくりするのは何年ぶりだろう?
何を謙遜しているんだと、近藤さんは言うだろう。トシは副長として、局長不在のときには皆をうまく率いていたじゃないか。その器量を以てすれば、局長だってちゃんと務まるさ。
違うんだよ、近藤さん。
近藤さんは俺を買いかぶっていた。俺に副長が務まったのは、金勘定が得意で帳簿に強く、人の顔と名前をよく覚えるからだ。それは商才だ。俺は武士ではないからこそ、副長でいられた。近藤さんのように将器で人を率いたわけではないのだ。
「将器なら、俺より斎藤のほうがずっと上だ。三番隊組長、
伏見の戦のとき、近藤さんもきっと、今の俺と同じ気持ちだった。開戦の半月ほど前に肩を撃たれ、俺に局長代理を任せて、近藤さん自身は出陣できなかったのだ。
とはいえ、出陣した俺もまた不甲斐なかった。戦果は挙げた。しかし、圧倒的な負け戦だった。数十人の死傷者を出し、新撰組の戦力はごっそりと削がれた。
「このままでは終われねえ。まずは会津とともに戦う。会津公、松平容保さまは、俺を本物の武士にしてくださったおかただ。捨て置けるわけもねえ」
頑張れよ、と俺の背中を叩く大きな手のひらの熱を覚えている。近藤さんは、俺より一つ年上に過ぎないのに、はるかに大きな人物だった。
墓石に触れる。ざらざらとして冷たい。近藤さんを
「供え物がないのは堪忍してほしい。食べ物や酒は、戦が近い今の会津では、少しの余分もねぇんだ。花は、ほら、そこに
言い訳をして一礼し、近藤勇の文字に笑ってみせてから、俺は墓前を辞した。若松の盆地に朝日が差し始めている。
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