第37話 エリザベス刀自の身に起きていたこと

 死霊退去魔法ターンアンデッドという神聖魔法がある。

 生死人いきしびとやレイスといったアンデッドを土に還すのだが、これはよくよく奇跡と勘違いされる。僧職にある神聖魔法使いの多くは信仰心が神に届いたことによるものと説法じみたことを言うが、筆者はそれに懐疑的だ。

 魔力という様々な形に変換できるエネルギーによって、死体を材料に造りだされたゴーレムのようなもの。それがアンデッドだ。

 鍛冶師が鉄を様々な形に千変万化させるのと、本質は同じことである。それが魔力か鉄かの違いでしかない。

 幽霊に本質は無い。あるとしたら、現世うつしよとは異なる理解できない何かだろう。

 おころも様というものもまた、その行動に理は通っていない。歪さもまた、幽霊や奇怪なものに共通するものである。



 ◆



 頼りない当主に苦言を呈しに行けば、淫らなよろこびのために買われた奴隷を見る。

 エリザベスは眉間に皺が寄るのを抑えられなかった。

 睨みつける目をなんとか和らげようとしたけれど、それは難しくて到底できないことである。

 排除すべきだ。

 そうは思っても、あの奴隷を今更手放すという不義理はできまい。

「ジョシュア、あの子を呼びなさい」

 しばし待てば、顔色を失くした当主がやって来る。

 子供を買うだけに止まらず、その軟弱さ。いつまで母を恐れるのか。

 火箸で尻を打ち据える感触が、手に戻る。

 天使のように美しい我が子の尻を叩く時に、どれほどの昂ぶりがあったか。後になって、自らの浅ましさに困惑するほどに、夫の血に連なる美貌は理外にある。

 倒錯的な感情がこみあげたが、それを遮るようにつんとした悪臭が鼻についた。

 我が子の足元に、死した夫が這いずっている。

「あなた、ここで、何をしているの……」

 便槽に潜む光る眼。

 知りながら、用を足したこともある。

 使用人たちに引きずり出された夫の死体は、汚物に塗れていて、美貌は呆れるほどに安らかであった。

 その顔のまま、獣のように這いずっている。だが、目だけは爛々と光っていた。

 便槽の瞳。

 見間違えるはずが無い。

 夫婦の心が通じ合っていた瞬間があるとしたら、寝室で認めぬことを黙認していた厠でのひと時に違いあるまい。

 夫が気づいた。

 エリザベスが、妻が、死した自らを視認していることに。

 夫の亡霊は満面の笑みを浮かべているが、瞳の奥には悪意の鋭い輝きがあった。

「ひっ、か、帰ります」

 背を向けて歩く。

 足がもつれて転びそうになった時、誰かが腰を支えてくれた。

 それは見たこともない少女だ。

 恐ろしく古い様式のドレスを着ているのだけは分かった。それ以外のことは、どうしてか分からない。


 あれはなんにもできないから、我慢して。


 そんな言葉だったと思うが、はっきりとしたことは覚えていない。とにかく、安心させようとする内容だった。


 それ以後、夫はどこにでも現れた。

 ジョシュアに頼んで追い払わせるけれど、馬鹿にするように這い回っては消える。

 霊媒を呼んだが効果は無く、教会だけは頼れない。

 エリザベスは追い詰められて、気が気ではなくなってしまった。

 それからの日々は曖昧だ。

 ぼんやりとした世界で夫から逃げ続けていたことは覚えている。

 正気を失っていたのだろう。それに気づいたのも後になってからだ。

 世界に色が戻ったのは、ジョシュアの言葉を聞いて、理解した時である。


「若様が、身罷られました」


 絞り出すような悲痛な声で、現実に戻る。

 しばらくは言葉を出せないでいた。だが、目の前に積まれた書類に気付いた時に、我が子の死を知る。

 目の前にあるのはシルセン子爵家の命脈である資源迷宮の権利書だ。

 言葉を出せなかったのは幸いだった。

 正気に戻るのがもう少し早かったら、怒声を発する内容である。

 あの時と同じように、腰に暖かな手が。


 だめだよ。

 いまは、つかれたっていうの。


「ジョシュア、すこし、待ってもらって」

 家令は美貌を驚きに歪めた。そして、傍らの男がジョシュアを睨みつける。


 こいつは裏切ったよ。


 エリザベスは男の素性を記憶の底から掘り起こした。

 不幸にも死したクラウディア。その父親だ。

 様々な可能性が脳裏を駆け巡る。しかし、今は時間が無い。

「エリザベス様……」

 問いかけるジョシュアを睨みつける。

「お客様には退室して頂きなさい」

 言い放てば、二人は顔色を失った。

 男は何か言おうとしているが言葉にならないでいる。そして、エリザベスと男の両方から睨みつけられたジョシュアは、ぶるぶると汗を滲ませていた。

「今日は、一旦お帰りになって頂けますでしょうか」

 弱弱しい声で男に言うジョシュア。

 男が去って暫時。

「ジョシュア、あれからどれくらい経ちましたか?」

「は、あ、その、あれから、とは」

「あの子に最後に会ってからです」

「さ、三年となります」

 何から尋ねればよいのか。

 いや、今は必要なことだけでいい。

 我が子はどうして死んだのか。

 ジョシュアの語る内容は、考え得る限りの最悪としか言いようが無い内容である。

 ため息をつく前にやることがあった。

「シルセン子爵家最後の一人として、やらねばならぬことをしましょう。ジョシュア、わたくしの可愛いジョシュア、手伝ってくれるわね」

 じろりと見やれば、シャツの襟を脂汗でびっしょりと濡らしたジョシュアは承諾の言葉を絞り出す。

 蛇に睨まれた蛙である。これで、家令は妙な真似ができなくなった。

 それから、夜を徹して財産について調べ上げた。

「おのれ、石女うまずめ男色けつもどき共めが。お前たちの神に呪われろ」

 性奴の小娘を屋敷に招き入れたのが決定打になった。

 死した後も頼りない夫が薄暗がりから見つめてくる。が、エリザベスは意に介さない。

「それでも貴族家のおのこですか。今度という今度こそ、愛想がつきました」

 シルセン子爵家の生活は悪いものではなかった。それでも、許せないことがある。

 それは、夫や陪臣たちの、貴族としての矜持の無さだ。

 商売貴族と蔑まれるカーディアス家の娘であるエリザベスにとって、それは許し難いことである。

 三日三晩の時間でやれるだけのことをしたが、財の多くは豺狼さいろう共に奪われることになってしまった。



 ◆


 エリザベス刀自は全てを語り終えた後に、六十年分のため息を吐いた。

 筆者の計画は、刀自の悲願を成就ざせる一助ともなる。

 刀自は快諾してくれた。

 ご高齢の御婦人にたくさんの手紙を書かせるという非常に心苦しいものであったが、刀自は文句一つ言うことなく、筆者の言う通りの文面を書き記してくれた。

 書き終えて、刀自はこう仰った。

「法務官様、何卒、後のことを宜しくお願い致します」

 死を前にしているかのような口ぶりである。

「再興の目があるとしたら、これからですぞ。いざとなれば、刀自を女子爵ヴィカウンテスとすることもできます」

 その手続きに十年はかかるだろう。それに、女爵が認められるのは稀なことだ。

 安い慰めの言葉しか浮かばない自らが不甲斐ない。

「あの女の子が、手を握ってくれているのです」

 あの子とは、悪鬼かそれとも屋敷神か。関わる者により変わる『おころも様』のことだろう。

 筆者は息を呑んでしまったが、刀自はそれに気づかない。これほどお歳を召していれば仕方ないことである。

「マーカス様、どうか、どうか、お願い致します。名誉はもはや地に堕ちました。それでも、あの者たちに屈することだけは、それだけは」

「一等法務官は皇帝陛下が帝国に伸ばす御手に相違ありません。エリザベス刀自、あなた様の悲願は必ず成就させましょう」

 老女の手を握れば、存外に強い力で握り返された。



 エリザベス・シルセン刀自は、この後の顛末を知ることもなければ、女子爵ヴィカウンテスに叙されることもなく世を去った。

 早朝に、御付きの女中が冷たくなっているのを見つけた。

 老衰で苦しむこともなく、安らかな死に顔であったそうだ。

 女中曰く、部屋に綺麗な蝶が舞っていて、窓から空に飛び去ったとか。

 蝶は魂と死の暗示である。

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