第36話 エリザベス刀自の記憶
エリザベス・シルセン刀自との対話は三日間に及んだ。
ご高齢であることからも体力的な不安があった。途中で休息入れようとしたのだが、刀自のたっての希望により連日の対話となった。
以下は、エリザベス・シルセン刀自の告白を小説として纏めたものである。
筆者の推測や補足が多分に含まれていることを明記しておく。
◆
シルセン子爵家は奇妙な家である。
見合いの日、御当主様のあまりに美しい面相には圧倒された。そして、嫁いでみれば美形の使用人と、獣人の血を引く醜女たちに傅かれる。
最初の十年ほど、男子が生まれるまではとても楽しく過ごしたことを覚えている。
あの子は、自らの腹から生まれたとは思えぬほどに、エリザベスには似なかった。
不義を疑われるやも知れぬと不安になったが、蓋を開けてみれば誰もが似ていないことを当然のこととして受け止めていた。
代々の当主は皆、母に似ない。
産みの親であるエリザベスは、それがあまりに不快である。
子爵家の外面を取り繕うために家にはいたが、家令のジョシュアを傍に置いて夫と寝室を共にすることもなくなった。
胎を貸してこの世に這い出たとすら思えてしまう我が子に対して、エリザベスは貴族家の男児であることだけを望んだ。
行き過ぎた躾があったのは認めよう。
尻を火箸で打ち据える時に歪んだ快楽があったこともまた、後年になってエリザベスを苦しめる一因となった。
今となっては、その全てもまた濁った血の為せるものと分かります。
夫が急死したのは、蒸し暑い夏の日のことである。
前日の夜会で遅くまで美酒をきこし召していたエリザベスが目覚めた時には、全ては終わった後だった。
泣きじゃくる我が子が見るのは、厠の中から引きずり出される父の姿である。
「ああ、そうなのね」
エリザベスは喪失感と共に、ストンと腑に落ちて理解するという不思議な心持になっていた。
夫は、閨を共にする時に口にも憚られる性癖を露わにした。
軽く諌めれば諦めるが、夫の死に方は恥ずべき性癖と合致していた。
女中たちが厠を使いたがらない訳だ。知っていて、エリザベスは使っていたが。
誰のものを見ていたのか。
暗い穴から見上げていたのだろう。
「ふ、ふふ。本当に、仕方ないひと」
愛想が尽きたとは言わない。
シルセン子爵家の当主はそのように死ぬことが多い。嫁いだ時に、義母からそれは教えられていた。
泣く我が子を慰めようとして、どんな言葉を紡げばいいか分からなくなった。
きっと、この日から親子の縁は切れてしまったのだろう。
家庭教師と家令に子を任せて、家を出た。
別宅に住んで喪に服しているということにしたが、実際には遊び歩いていただけだ。
それ自体はよくあると言えばよくあることでしかない。
「奥様、御供養の日取りが迫っております」
ジョシュアに言われて、はたと気づく。
ああ、そうか、もうそんな時期になっていたか。
シルセン子爵家の地下には、秘密の通路がある。
地下室の一番奥にある扉を開けて、螺旋階段を下へ下へ。
ランタンの灯りに照らされて降りていけば、一族の祖先の、トリアナン平定より以前からの祖先が眠る
ミイラ化した番人たちを見たのは嫁いで数年後のことだ。まだ若かったあのころ、悲鳴を上げて、あの人はそんなわたくしの肩を抱いてくれた。
そんな、甘い思い出がある。
夫の亡骸もまた、霊廟に葬られた。
最奥には、代々の当主が眠る棺の詰まれた広大な玄室がある。
その中央には、磔にされた鬼の亡骸が鎮座している。干からびた異形は恐ろしいが、
あの墓には入りたくないな、と思う。
供養の日、奇妙なことがあった。
シルセン子爵家とその直系の臣たちによる供養は邪宗の祭礼である。
嫁いだころから、それは我慢を強いられるものであった。
生贄の獣を捧げ、鬼のミイラと先祖に眠り続けて頂くよう懇願する。そんな、厭な儀式だった。
慣れてしまえば退屈な儀式は、今年も何事もなく終わった。
霊廟から出る折に、視線を感じて振り向く。
闇の中に蝶が飛んでいた。
紫色の羽を持つ蝶に誰も気づいていない。
どうして自分がそんなことをしたか分からないが、手を伸ばすと蝶は手の平に止まった。
「奥様、どうされました」
背後からの声はジョシュアのものだ。
見られてはいけない気がして、動転してしまった。
今でもどうしてそんなことをしたのかは分からない。
蝶を隠そうとして、口の中に入れてしまった。
「なんでもないわ……」
「左様ですか」
口の中で、溶けるようにして蝶は消えた。
不思議なことである。そして、取り返しのつかないことをした。
それから、子爵は婚約者の死に縛られたまま元服を迎えて当主の座に就いた。
夫が死んだことにより離縁を申し出ることもできず、エリザベスはそのまま若すぎる隠居となった。
隠居とはいえ、膨大な富の管理についてはエリザベスの意向も大きく影響した。商家騎士の娘であるエリザベスは計数には強い。
帳簿に妙な支出があったことを問い詰めれば、子爵が大金を投じて幼すぎる夜の奴隷を身請けしたことが露見した。
「あの子も、あの人の子供ね」
冷や汗をかいているジョシュアに漏らしたのは、そんな言葉だった。
幼くして亡くした婚約者を想うことと、年端もいかぬ少女を性の対象にすることは大きな隔たりがある。
「ジョシュア、義母様も仰ってたけど、シルセンの当主というのはそういうものなのかしら?」
奇妙な性癖を持つ美形の一族。
「……我々の卑しい血のなせる業なのでしょう」
呪わしき獣人の子孫であり、類い稀な美形を持つジョシュアの答えは、エリザベスの好むものだった。
彼が幼い日からずっと、家令として執事として縛り続けた。嫁いでから得たのは、金銭ではなくジョシュアであったのかもしれない。
抱かせてやろうと目の前で肌を晒したこともあるというのに、臆病な美男は触れてくることもない。
だというのに、
わたくしもそんなに変わらないか、苦笑と共にそのように思う。
女の性は魔法使いの炎に例えられる。
魔法使いは熟達するのに半生を捧ぐという。修行時代は小さな灯でも、歳を経て熟達してからの炎は熱く大きくなる。石をも溶かすほどに。
女も同じだ。胎の熾火は年月と共に陽根を溶かすほどに熱くなる。
褥のことばかり考えることもある。
「あの子の様子を見にいきます。それと、その子供がどこから売られたか調べなさい」
ジョシュアはエリザベスと子爵家を第一とする男だ。
抜かりはあるまい。
この後、聖女と出会う。
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