第35話 エリザベス刀自と会った折のこと

 伯爵閣下の許可を取らずに行動を起こすというのは、危険な賭けだ。

 一等法務官は皇帝陛下によって安全が保障されているという建前はあるが、そんなものはいつだって破られてきた。

 上手くいったところで、恨みを買うことになる。

 筆者にとって、その恨みは非常に大きな利となる。

 大きな事件を片付ける度に、大貴族は一等法務官ベイル・マーカスを恐れるだろう。

 甥が騎士となるまででいい。

 マーカス家の悪名を法務官の悪名で塗りつぶした後に、甥が騎士としてのマーカス家を継げばよいのだ。

 騎士爵などに生まれたくなかった、そのように嘆いていたのは少年のころである。

 つまらない大人の考えで家名を、家の存続を第一とする筆者を、甥はどう見ているだろう。

 兄と義姉も厄介なものを残してくれた。

 今も、決着がつけられないでいる。



 ◆


 汗を滴らせながら、ミランダは剣を振る。

 鍛錬用の革鎧を身に纏い、騎士剣を振り回す様は堂に入ったものである。

 ここ数日降り続いた雨は一転、雲一つない夏空が広がっていた。

 トリアナンの都より馬車で二日。

 景勝地として名高く、皇帝陛下も訪れたことのあるマテ湖の畔にそびえるトリアナン伯爵の別荘に辿り付く。

 ミランダとシャルルの兄妹、そして、アリスはその別荘で夏のバカンスと洒落こんでいた。

 馬でやって来た筆者に気付いたミランダは、ぶんぶんと手を振る。

 手を振り返せば、気づいたシャルルも手を振った。そして、その傍らの車椅子に座す老婆もまた、枯れ木のような手を小さく振っていた。

「さて、どう転ぶかな」

 痩せ馬を進ませるが、なかなか辿り付かない。分かっていても、別荘地の巨大さに圧倒される。

 ようやくのことで門に辿り付けば、伯爵家の女中服を着こんだアリスが迎えてくれた。

「ダンナ、ご到着をお待ちしていやした」

 矯正中の町方言葉が出ているアリスは、口に手を当てて後ろを振り返る。誰もいないことを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。

「随分と絞られてるようだが」

「ご主人様、トリアナンの都に帰りたいです……」

 人別帳に記載の無いアリスは、女中見習いとして別荘で保護してもらった。

 こういう時は方便として使われる扱いなのだが、ここの女中はしっかりと躾けてくれている最中らしい。

「その、ゴシュジン様というのはやめてくれ。私が誤解される」

「でも、ここの女中頭がそう言えって」

「土産がある。甘いものでも食べて休んでくれ」

 トリアナンの都を発つ時に買っていた無花果いちじくをアリスに押し付ける。詫びのつもりだが、彼女は理解してくれるだろうか。

 エルフの年齢というのはよく分からない。

「アリス、もうしばらくの我慢だ」

 アリスの泣き言を聞き流して、馬子に手綱を預けてミランダたちに会いに行く。

 美しく整えられた庭園に向かえば、ミランダとシャルルは笑顔で出迎えてくれた。

「ベイル、無事に来たか」

 ミランダは挨拶すらしない。いや、これが挨拶なのだろう。

「雨の中を駆けずりまわった甲斐はあったさ。そちらはどうだった?」

 気安い会話が出来ているのが不思議だ。こんなことになるとは思ってもみなかった。

「美味い食事にふかふかの寝台、それにこの景色だ。満足する以外に何があると思う」

「そいつはよかった。話はあるが、先にエリザベス様に用がある」

 ミランダの顔色が曇った。

「いらっしゃるが、あの御方は話ができる状態では……」

「それを確かめるよ。二人は席を外してくれ」

 ミランダは文句を言わなかったが、少し離れた所で見ていると言った。

 庭園のテラスへ行けば、車椅子の老婆がいる。

 シルセン子爵家最後の一人、血塗れ子爵の母親であるエリザベス様だ。

「旅姿で失礼致します。エリザベス刀自とじ、お初にお目にかかります。私は騎士、いえ、一等法務官ベイル・マーカスと申します」

 車椅子の老婆は、筆者を見ていない。

 遠い空をぼんやりと見つめている。

 きちんとした身なりだが、それは使用人が介護しやすいように造られた衣服と髪形だ。

「あ、う」

 小さく掠れた声は、意味をなさない。

 正気を失ってから十年以上が経つ。御年八十歳を過ぎた刀自は、もはや今を見ていない。筆者にもそう見えた。

「徴税書類と、隠退なされた折の書状を拝見致しました。それに、あの椿事の後の爵位保留の委任状も」

「……」

 宙空を見ていた瞳にほんの少し色が戻る。

「一等法務官は帝国臣民全てに対して、皇帝陛下より法に則った裁定を下す権限を委ねられております。エリザベス刀自、皇帝陛下の手が差し伸べられたのです。あなた様の声なき声、届きましたぞ」

「な、長く、言葉を、……つ、使って、いませんでした。し、失礼、は、ご容赦、を」

 エリザベス刀自は、涙を浮かべた瞳に筆者を映していた。

 やはりか。

 シルセン子爵が正気を失い自刃した後、その財産や爵位をいかにするか、最後の血縁者であるエリザベス刀自が委任状を記した。

 当時を知る者の多くは、正気を失ったエリザベス刀自が徴税官に言われるままに書いたものと言うが、その中身はシルセン子爵家再興のための最低限が確保される内容である。

 親戚筋に財産を吸い取られているように見せかけて、必要なものだけを伯爵に預けるなどという内容を、正気を失った夫人が書けるはずが無い。

「やはり、正気でいらっしゃいましたか」

「は、はい。こうでも、せねば、豺狼さいろうどもと、あの怪物、その魔手より、の、逃れ、……逃れられぬと」

「ゆっくりと、お体に障ります」

「いえ、わたくし、の、頭が、霞まない、うちに」

 エリザベス刀自に水をゆっくりと飲ませた。

 正気を失ったふりを続けて家を守るとは、辺境の地に根付く貴種の女の生き様の体現か。まさしく女傑である。



 それから、長い時間をかけて話を聞いた。

 委任状のこと、おころも様のこと。

 数字は嘘をつかない。

 だいたいの予測は合っていて、さらに予想もしない真実もあり、暗殺者が放たれた理由もはっきりしてきた。

 彼らの誤りは、筆者相手に田舎臭いやり方をしたことである。

 刀自には皇帝陛下に声が届いたと言ったが、それもあながち嘘ではない。一等法務官に任じられた折、陛下より直々に『朕の目となり耳となり手であれ』と命じられているからだ。

 目には目を、それは古すぎる。

 法務官、いや、ベイル・マーカスのやり方で反撃の狼煙を上げよう。

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