第34話 女中のリマに聞いた話
生きることに辛くなると、幼少期のころを思い出すことにしている。
幸せと希望に満ちていた思い出は、より一層に現在の苦しみと現実を認識させてくれるからだ。
命の危機に直結しない苦しみもまた幻想に過ぎない。
過去現在未来は、生から死への道筋に過ぎない。
命に充ちる瞬間から幸せをすり減らして死へと行き着く。
かつて偉大な文学者は、胎動は母親の心を理解した故の恐怖からくるものだと言った。
◆
夕暮れから振り出した雨に濡れながら、教会の聖堂へと歩いていた。
トリアナンの雨は糸のように細いというのに、世界を覆い隠すほどに降りしきる。
雨の日には外出を控える習慣が根付いているため、雨と共に街には静けさが満ちる。聞こえるのは雨だれの音くらいだ。
トリアナンに根付いた風土病に、雨が原因とされている二十日熱や眠り病がある。それらを回避するための文化なのだろう。
雨の日に出る怪物が語り継がれている。
幾つかを紹介しよう。
なんの捻りも無い名前そのままである。
雨降りの日に現れる後家さんふうの女だが、姿を見ると病に陥る。
ただの女のようだが、顔を見れば怪物と知れる。
目が真っ黒な黒目しかない。
雨女に話しかけると家にまでついてくるというが、その後にどうなるかは判然としない。
水路に住む怪物で、通りかかった人を背後から食べてしまう。
虎のように襲いかかるということでこの名がついたが、その姿は見た者がいないため不明だ。
先帝陛下の御世に、遍歴の騎士が水虎を退治したという話がある。
大きな水路の近くを歩いていると、背後に獣の気配を感じてとっさに剣を振ったところ、手応えと共に雷鳴のような断末魔が響き渡った。
何者かと確かめれば、そこには水草が山と積まれていたという。
このことから、水虎は水草が変じた魔物だといわれている。
この騎士は水草をそのままにしたのだが、魔法使いの智慧者曰く『食べると虎のごとき強さが身に付いた』とのことで、大変に悔やんだとされている。
踊り坊。
雨の日にだけ屋敷の屋根に立つ子供の姿をした怪物である。
踊り坊が立っているだけなら何事もないが、踊り狂っているとその家は滅ぶとされている。
来歴は不明だが、かなり古い言い伝えであるらしい。
トリアナンの古い屋敷の屋根には、必ずといっていいほど黒竜魚を模した置物が設置されているのだが、これは踊り坊を寄せ付けぬための風習である。
筆者も最近になって知ったことだが、トリアナン近郊の亜人部族では黒竜魚を神聖視する信仰が存在する。
地獄の門を守るケルベロスのような役割を持つのだとか。
雨の日は、このような言い伝えの存在を捜してみるのだが、
こんな時、筆者は霊感というものの無さに頭を抱えてしまう。
これだけの情熱を注いでいるというのに、幽霊やあの世のことは何も分からないでいる。
目的の屋敷に辿りつき、使用人に声をかけると邸内へ招かれた。
傘とずぶ濡れの外套を預けると、汗ばんだ胸元にひんやりした空気が射し込んだ。ぶるりと全身が震えて、騎士にあるまじき無様な姿だと思った。
「濡れ鼠で来るなんて、助けが必要ですか?」
挨拶も無しに、やって来るなり言い放ったのは包帯で顔を隠したミス・ステラである。
「ご機嫌麗しゅう、ミス・ステラ」
「騎士ベイル・マーカス様、よくぞ参られました。歓待致しますわ」
ミス・ステラに案内されたのは屋敷の庭園が見渡せる四阿だ。
「この細く長い雨が、トリアナンの夏よ」
「慣れるには時間がかかりそうです」
使用人が茶を運んできた。
この時期は水瓶の水も足早だ。火を通さないと腹を下す。
「で、マーカス様、緊急の用件とは?」
悪戯っぽい微笑みとでも言おうか、ミス・ステラを真の霊媒と信じる者からすれば神秘的な笑みを浮かべて彼女は言う。
「手段は問わないので、調べて欲しいことがあります」
「あら、意外ね。幽霊のお話じゃないの?」
「本業ですよ、今日はね」
一等法務官として、筆者は来ている。それも、仕事のためにだ。
「内容によりますわ。一等法務官様」
茶を口に含むと、熱さに驚いた。夏のトリアナンでは客に出す茶は火傷するくらいが良いのだとか。歓待に手を抜いていないという証明になるからだ。
「先日、偶然にもミス・ステラ、あなたの経歴を知りましてね。トリアナンで生まれ、帝都で育ち、トリアナンに名を隠して戻られた由緒ある男爵家の庶子だとか」
ミス・ステラは目を見開いた。
「その出所は?」
「トリアナン伯爵の保証する古い家系図ですよ」
当然だが、ミス・ステラはそんな高貴な出自ではない。
報酬は、伯爵と一等法務官の保証する真っ白な身分証明である。
「……法務官様と伯爵閣下のご覧になられた家系図かしら?」
「そういうことになります」
この仕事に助力すれば、多少無理のある設定をトリアナン伯爵と一等法務官の権限で真実にしてやるということだ。
「ベイル・マーカス、あんたの犬になれと」
短剣でも抜きかねない剣呑な目で彼女は言う。切れ長の瞳に睨まれるというのは、なんとも怖いものだ。
「よく誤解されるが、私の仕事は荒っぽいものではないよ。それに、医者も紹介する」
僅かな間だが、筆者とミス・ステラは見つめあった。
「悪くないわね。マーカス、あんたはどうしたいの?」
「その前に、人払いはすませたか」
「あんたと会うんだから、最初からしてるわよ」
筆者はよくよく信用されない。
仕事の話は長時間に及んだ。
打ち合わせというのは疲れるものである。
幾日か詰めて今後の調整を行うことになった。
その合間に、ミス・ステラの使用人である女中のリマから聞いた話を小説として纏めたものが下記である。
◆
リマは特定の主を持たない渡り女中である。
屋敷の内向きで働く女中というのは簡単に欠員が出るものではない。特に、貴族や商人の邸宅ともなれば身元が明確で信用できる人物に限られるからだ。
女中の仕事が厳しいとされているのは、このような前提に加えて礼儀作法を知らないと来客に対応できないことも含まれる。
リマは即戦力で女中長と侍女を兼任できる優れた女性だ。
大切な宴の仕切りや、大規模な冠婚葬祭の裏方として招かれることもあって、その業界では広く知られた人物である。
どんなお屋敷にも一つや二つは奇妙なことや独特な何かがある。
渡り女中であるリマは、見える
首をくくった使用人や、生まれなかった子供、塗り込められた座敷牢から響く声、様々な怪異を見知っている。
「渡り女中ですから、様々なことがあります。怖いものもありますけど、死んだ人より生きた人のほうが怖いって、そう思ってたんですけど……」
人よりも怖いと思うことが一度だけあった。
古い歴史を持つ高位の貴族家の屋敷に勤めた折のことだ。
リマが任されたのは、普段は使われていない離れの手入れである。
綺麗に手入れされていたが、奥まった場所に座敷牢があった。正確には元座敷牢というべきか。
取り外れた格子や、手水場の位置取りから見ても、貴族家の裏側をよく知るリマからすれば察することのできる造りである。
厭だな。
大抵、こういう場所には何かがいる。
かつて、これと同じような主を失った座敷牢のある屋敷に勤めたことがあった。
そこには涎を垂れ流す枯れ木のような老人が、死した後も居座っていた。それに実害はなくとも、見えてしまえば厭なものである。
「座敷牢に長く入っていた人は、それ以外の世界を知らないからでしょうか。死んだ後も、そこにじっとしているんです」
ただ、そこにいる。
座敷牢とはそういうものだ。
リマの予想に反して、その座敷牢には何もいなかった。
きっと、念入りに御供養されたのだろう。そんなふうに思っていた。
肝心の仕事だが、その離れを手入れするだけで一日の大半は来客を待つといった有様である。
高い給金を払ってさせるような内容ではない。
女中は依頼主にものを言う立場でもないし、それならそれでとリマは割り切ることにした。
この依頼自体はなんとなく察しがつく。
座敷牢の主がこの世から立ち去ったか確かめたいが、屋敷の身内は嫌がったというところだろう。何もいない場所を恐れるのもまた、人間らしい反応だ。
死した後も忌避される座敷牢の主に同情したくなったが、そんな気持ちはすぐさま振り払う。
霊というのは、そういう想いに惹かれるものだ。無関係の因縁など背負いたくない。
単調な生活が続く。
屋敷付きの使用人や侍女はリマとは最低限しか口をきかない。渡り女中が嫌われるのは珍しいことではないが、彼らは何かを恐れている。
ははあ、ここにいるものは関係者だけに出る手合いか。
生贄に捧げようとでもしたのだろうが、はっきりした目的のある霊であればリマには目もくれないだろう。恨みが固定されていればの話だが。
死者に大した力が無いのは経験則で分かっている。
怖い姿で迫ってきて驚かせるという程度で、多少の豪胆さがあれば実害など無い。
日々は単調に過ぎゆく。
座敷牢であった離れの手入れをしていると、気づくことがあった。
この離れの造りはどこかおかしい。
天井が高すぎる。
座敷牢もそうだが、離れ全体の天井が宮殿のように高い位置にあるのだ。
元々座敷牢ではなく、宴席のための離れというなら分からないでもないが、それにしては規模が小さすぎる。
さらに奇妙なのは厨房だ。地下には氷室まで作られているというのに、竈があるべき場所に無い。無理に後付けしたであろう新しい竈はあるのだが、どうにもちぐはぐた。
「……おかしい」
不自然なことは他にもあった。
虫や鼠といったものの数が少なすぎる。
あまり使われていないとしたら、害虫害獣の類が住み着くものだが、この離れにはそれすら見当たらない。
しとしとと降る雨の日に、元座敷牢の部屋で雨漏りに気付いた。
雨漏りを放置すると屋根が腐る。確認しようとよく見るのだが、天井から垂れる雫が床に落ちない。
なんだろうか。
天井が高すぎるせいで、目の錯覚でもおこしているのか。
よくよく見ていれば、確かに雫は落ちている。しかし、床に辿り付く前に消えていた。
何も無い場所を通り過ぎる時に、消える。
「なに、これ」
リマは全身が総毛立っていることに気付いた。
何か、いるのではないか。
思いついたリマは、昼食に用意していたパンを千切って投げてみた。
滴の消える位置で、パンは消えた。
なんとも不思議なことだ。
あまりに不思議で、食べようと思っていたパンの半分ほどを投げて消えるのを確かめた。
そんなことがあったが、気にも止めなかった。
トリアナンは夏の終わりに雨が降る。
雨の日にだけ、その現象はあった。
退屈しのぎに菓子やパンを投げると、空中で消えてしまう。
何が面白いのかリマ自身にも分からないが、夢中で投げてしまう。雨の日を楽しみにするようになっていた。
待ちに待った雨の日。
パンを投げようと浮足立っている時に、虫を見かけた。
汚らしい油虫が這っていたので踏みつけようとしたら、飛んで逃げた。
それは宙で消失した。
ぱっと消えるのではなく、空中で潰れてその姿を消した。
「あ、あああ」
リマは後じさり、そのまま悲鳴を上げて逃げ帰った。
ギルドに泣きついて辞めさせてくれと頼んだところ、すんなりと相手もそれを了承してくれた。契約を反故にしたというのに、給金は多目に支払われていた。
空中で消失する一瞬、虫は何かに喰われていた。
あの座敷牢には見えない何かがいる。
天井から落ちる雫で渇きを癒し、投げた残飯や虫を喰らうなにかがいる。
「おおきな、あかちゃんでした。ほんの一瞬ですけど、みえました。あかちゃん、天井に届くほどの、大きなあかちゃんでした」
後にも先にも、不可思議なものに身の危険を感じたのはそれっきりだと、リマは言った。
その屋敷がどなた様のお屋敷か尋ねてみたが、最後まで教えてくれることはなかった。
金貨をちらつかせてみたところ、きっ、と強く睨まれてしまう。
ミス・ステラは良い女中を雇っている。
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