第23話 熟達の冒険者ジュリアス・イサンクオンに聞いた魚類の瞳の話 後編
アシュトンはウイジャ盤を広げてから、水を張った盥を用意した。
何をするものかと訝しんだが、後は三本立ての燭台をウイジャ盤の隣に置いて火を灯すだけで準備は終わったと告げる。
「ジュリアス様、右手を盥に入れて下さい。今から終わるまで、手はそのままでお願いします」
「分かった」
生ぬるい水だった。
ただ、それだけである。
「では、始めましょうか」
アシュトンは笑みを崩さない。
こっくりさんの銅貨代わりの木札に指を置く。
「シーナさん、聞こえているでしょう。ジュリアス様に憑いたシーナさん、参られなさい」
不思議な声音だった。
男を捨てた宦官特有の高い声だというのに、腹の奥底に響く。
木札が動いた。
文字とは離れた場所にある見たことの無い呪印の上にするすると木札が移動する。アシュトンがただ動かしただけかもしれない。
潮の香りが漂う。
心臓は早鐘を打っていた。
あの海岸で嗅いだ匂いによく似ている。生命を感じさせない海の匂いだ。
「シーナさん、どうしてジュリアス様に憑いているのですか」
木札が動く。
お
と
う
さ
ん
に
に
て
る
アシュトンの顔は揺らめく燭台の灯りに照らされている。
柔和な顔付きの中で、目だけが刃のごとき鋭さで光っていた。
「シーナさん、あなたは本当にシーナさんですか?」
木札はめちゃくちゃな文字を移動した。言葉になっていない。
「あれは、シーナじゃないのか」
「静かに、今は口を閉じて」
ジュリアスはアシュトンの物言いに苛立った。
「貴様っ、ケツもどきの坊主崩れが舐めた口をっ」
頭が瞬間的に沸騰し、刃を抜くために立ち上がろうとした。しかし、右手が動かない。
盥に入れた右手が、万力にでも挟まれたかのように抜けないのだ。
「何をしたっ」
「虎剣山にある聖域の湧水を聖別した聖水です。悪しき者は動けまい。ぎぎらぎぎらあずでぎよそはか……」
アシュトンの唱える聞いたこともない聖句が響けば、ジュリアスの頭に激痛が走る。
「ぐっ、がっ、やめろ。その音をやめろっ」
「椅子に座れッ」
ジュリアスは椅子に座り直して、痛みに呻く。
何だ、何が起きている。
「シーナさん、あなたはシーナさんではありませんね?」
木札が動く。
示した先は『はい』と『いいえ』の中間だ。
アシュトンの口元にあった笑みが崩れた。口を真一文字に結んでいる。
「ならば、シーナの魂の残りか」
今度こそ、木札は『はい』へと滑った。
「ジュリアス様、多少厄介なことになりました。シーナに欲情したことは? 抱いたことはありませんか?」
「子供なぞ抱くものかっ」
ジュリアスは言いながら、嫌なことを思い出した。幼少時代にあった性的な悪戯のことである。あれから、思春期の少女というものが大嫌いになった。
シーナはことあるごとに身体をすり寄せてきた。嫌でたまらなかった。
「よろしい。少し苦しいが我慢して頂きます。目を閉じて、ジユリアス様の座る椅子の後ろを想像して下さい」
言われるままに、そうした。
荒かった呼吸が落ち着いてくる。
背後には、ドアがある。
先ほど食事を饗された部屋に続くドアだ。
ああ、扉が開く。
きいぃ。
ドアが軋む音がする。
「誰が入ってきました?」
「シーナだ、あいつがまた来た」
すぐに姿を消した時と同じ、魚類の瞳をしたシーナが扉を開けて自らの背中にいる。
「大丈夫です。さあ、よく見て下さい。シーナの姿をきちんと見るのです」
「い、嫌だ。魚の目が、お、俺を、俺を見る」
とうにやめていた『俺』という一人称が出ている。騎士の様に振る舞うために『私』と言っていたのに、こんな時には地が出るか。卑しい地が。
「見ないといけない。見ないと、何をされるか分かりませんよ。ジュリアス様はお強い。さあ、見るのです」
魚類の瞳を持つシーナは、ジュリアスの背中を見下ろすだけだ。
口元がぱくぱくと、いや、何かを言おうとしている。
か
え
せ
「何を返したらいいんだ。もうつきまとわないでくれ」
魚の瞳からは表情が分からない。ただ、口を動かしている。
に
ん
ぎ
ょ
か
え
せ
「人魚? そんなものは知らんぞ」
「目を開けなさい」
アシュトンの声で目を開ければ、険しい顔のアシュトンが木札を指で押さえている。
木札は生き物のように跳ねようとしている。それをアシュトンは指で押さえているのだ。
「いま、シーナがっ、いっつ」
右手の指先に激痛。
盥を見れば、水の中にはシーナの顔があった。指先を噛んでいる。
青い髪は水の中でゆらゆらと揺れて、目は人のものだった。
「シーナの奥にいるもの、姿を見せよ」
アシュトンが言うやいなや、木札は砕けた。
アシュトンはジュリアスの目から見ても素人ではない手つきで素早く短剣を抜いて、盥の中に切っ先を突き入れた。
「シーナっ」
水面の中の顔、その眉間に短剣は突き刺さる。
ごほりと泡を吹いてシーナの唇は指先を離した。
「な、なんと」
顔が消えてあったのは、短剣に刺し貫かれた人の頭とも魚ともつかぬ奇妙な生物である。中途半端に人間の女の顔をした魚のようなものだ。
「さあ、もう手を出して頂いてかまいません」
盥から手を出すと、異様な悪臭がした。
「それは、なんだ」
訳が分からない。
「これは、教会のものとは違いますけれど、神様というか、精霊というか、そんなものです」
「どうしてそんなものがいる」
「にんぎょをかえせ、ですか。それと関係しているのでしょうが、私が思うよりももっと異様な何かがある様子」
「シーナは、あれはなんなのだ」
「ジュリアス様、あなたに憑いた地獄の気配は落ちました。これ以上は、何も後のことを気にする必要はありません」
その言葉を聞いて安堵した。
確かに今は腹の奥にあった不快感も無いし、何よりも頭の中がすっきりした。今だから分かるが、あの日からずっと頭に靄がかかっていたように感じる。
「シーナは無事なのか?」
「さあ、それは分かりません。ですが、あなたとの縁は切れました。もう一度会うというのは、それこそ地獄へ自ら赴くようなものですぞ」
アシュトンは言いながら、袱紗を取り出して魚を包んでいる。
「それはどうする?」
「後で食べます。通力が得られますので」
吐き気がした。
「こ、こんなものを食うのか」
「ははは、滅多に手に入るものではありませんでな。ジュリアス様、シーナという少女のことは忘れなさい。魔に魅入られたものとの縁など、何の得にもなりません」
「……、忘れろというのか」
「はい」
一応は恩人と呼ぶべきなのだろう。
また来るということを告げて、ジュリアスは宿に帰ることにした。
アシュトンはあの魚を食べるのが待ちきれないのか、露骨に帰れという態度を示してきたからだ。
それから、妙なものを見なくなった。
不思議だったのは、アシュトンと最初に出会った日に貰った魔除けがいつの間にか消えていて、後から彼に尋ねてみたが「はて、そんなものを渡しましたかな」などと恍けられたことだ。
◆
筆者はメモを取り終えて、息をついた。
ふう、と大きく息を吐いてからジュリアスが口元に人の悪い笑みを浮かべているのに気付いた。
「ベイル、お前は怪談を聞いた後、美味いものを食ったような顔をしてることに気づいているか?」
「えっ、そんな顔をしてたか」
ジュリアスは「はははは」と朗らかに笑う。
「してるさ」
「はは、そうか、気づかなかったよ」
なんだか恥ずかしくなった。
筆者自身、この趣味が奇妙であることは分かっている。
「ジュリアス、それから後には何かあったのか?」
「いや、まあ、そのこともあってな。あっちを見てみろ」
ふと、ジュリアスが居酒屋の入り口を指差す。
こんな店には似合わない貴族の女が入ってきたところだ。
艶やかな青い髪が見えた。
「おい、あれは」
「色々あってな。アシュトンに話はつけてある。これが紹介状だ」
ジュリアスは書状をテーブルに置くと、それ以上は聞くなと目で語り、席を立った。
追いかけようか迷っている間に、二人は親密そうに何か話しながら外に出ていってしまった。
ジュリアスとの友諠は続いているが、今でも青髪の女のことは聞けずにいる。
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