第5話 元家令のジョシュア老に聞いた話
トリアナンの貴族街の外れには、使用人たちの住居が並ぶ一画がある。
ここに居を構えられるのは、家令や執事といった貴族家に深く関わる要職につく平民に限られる。
並の騎士などよりも豊かな生活をする者も多く、ある意味ではセレブリティな一面すらあるほどだ。
突然の訪問にも関わらず、ジョシュア老は茶を供してくれた。
蒸し暑い中のことで、冷えた茶は体に染み入るようだ。
かつてはシルセン子爵の母君、エリザベス様の家令であったというジョシュアは、その美貌もさることながら家令としての立ち振る舞いに衰えは見られなかった。
「大奥様のことも、御当主様のことも、今は過ぎたことです」
「この手記は限られた人物、私も名前を出すことができないお方しか見ることはありません」
筆者が言うと、ジョシュアは微笑んだ。
老いてなお美しい。美男子から美男へ、そして今は老紳士か。
「そろそろ、誰かに話さねばならないことだったのだと思います。抱えたまま逝くのは恐ろしいと、そう思うのです」
質素ながら清潔な住居は、ジョシュア老の人となりを物語るようだった。
不意に視線を感じて振り向くと、書棚に真紅のドレスを着た人形が飾られていた。大貴族の子供が持つような精緻なものだ。
「来客が珍しいのでしょう。私は独り者ですから。ふふ、殿方に照れているのかもしれません」
ジョシュア老の一言に、背筋が寒くなった。
「マーカスさん、その人形も話には関係します。先に、シルセン子爵家のことを話しましょう。退屈な老人の思い出話にしばしお付き合い下さいませ」
◆
シルセン子爵家は一風変わった伝統のある家だ。
勤める使用人や配下にはよほど縁が深くない限り、美男と
商家の妾腹に産まれ嫡子よりも優秀だったジョシュアが、シルセン子爵家に引き取られて家令見習いとなったのは十歳のころである。
エリザベス奥様は大層な美貌の持ち主で、些か傲慢な気質を持つお方だった。
使用人を乗馬用の鞭で
恋多き人というよりは美しい男を独り占めしたいという人物であった。
トリアナン地方においては、その美貌を宝石になぞらえるほどのシルセン子爵家との婚姻は、エリザベス様の自尊心に多大な満足を与えた。
「ここはとても居心地がいいわ」
と、ご友人にも語っていたとのことで、醜女の使用人に傅かれ美男の使用人たちが世話を焼き、美形の当主と睦み合う生活はエリザベス様の理想そのままだった。
御当主様、つまりは件のシルセン子爵の父、先代子爵はエリザベスの出産後に若くして病死している。
ジョシュアはエリザベス様に大層可愛がられた。
小間使いとして行く先々で、女性たちから好色な視線を投げかけられるというのは、あまり良い思い出として残ってはいない。
シルセン子爵家の人々は理解していても、他家からは男芸者と見られることも少なくなかった。
教育係であった先代の家令によれば、シルセン子爵家の当主が美形に産まれるのも、使用人に美男と醜女が集うのにも理由があるとのことだった。
それは、シルセン子爵家の開祖の物語だ。
元々は平騎士であったとされる開祖セリス・シルセンは、天界からお忍びでやって来た天使と恋に落ちたとされている。
その後は天使のご加護か神通力によるものか、栄達して子爵となる。
天使をも虜にした美貌は代々受け継がれているのだとか。
表向きはそのようなお伽噺と伝えられている。
◆
そこまで語ると、ジョシュア老は大きく息を吐いて茶を入れ直してくれた。
筆者と自らの茶を入れて、茶菓子にと揚げ菓子を出してくれた。
「お伽噺は綺麗なものですが、元になった話というのは大抵においてその逆です」
ジョシュア老のそれは、どこか諦念のようなものが混じっているような声音であった。
「……御開祖様が本当は何と契ったのか、御当主様だけに伝えられているそうです。言ってはなんですが、何かよくないものなんでしょう」
「……異類婚というやつですか」
辺境に必ずといっていいほど伝えられる伝承だ。
山の神、天のエルフ、魔物、それらと契ることで栄達する家の話はどこにでもある。
「真実を知るのは、奥様だけになってしまわれました。真実は分かりません」
ジジジジ、と外で夏の虫が鳴いていた。
あと二週間もすれば夏の盛りとなるだろう。
暑いというのに、ジョシュア老との対話は空寒いものがある。
◆
エリザベスが不思議な獣を見るようになったのは、シルセン子爵に物申しに行き逃げ帰った日からである。
ひっ、と小さな悲鳴を上げて振り向けば、毛が一本も生えておらず、つるりとした生娘のような皮膚をした四足の生き物がいるのだとか。
大型犬ほどの大きさで、狂乱するエリザベスの周りをぐるぐると廻っては、姿を消す。
エリザベス以外に、その姿は見えない。
医師も魔法使いですらも、匙と杖を投げてしまった。
心の病であるのだと、教会の治癒師からも深刻な顔で療養を勧められた。
「あそこにいるっ、あそこにっ」
狂乱した彼女をお慰めするのはジョシュアの仕事である。
最初は何もいないと言っていたが、それでは余計に興奮してしまう。そして鞭を振り回して転ぶのだ。
「ええい、この怪物め。このジョシュアめが追い払ってみせようぞ」
当時、立派な紳士であったジョシュアは、子供のごっこ遊びの騎士のように言っては、木剣でエリザベスの目線があるところを打ち据えるのだ。
「ああ、ジョシュア、ジョシュア、あれが逃げていく。あれが、ようやってくれた。お前だけが頼りです。ああ、ジョシュア」
五十歳を過ぎたエリザベス様は、それでも美しかった。
子供のころから仕えた主人の憐れな様に、心を痛めながらも暗い悦びを感じていた。
一度など使用人が奥様の陰口を叩く現場に居合わせた時など、手ひどく折檻を行ったほどだ。
ある日、屋敷に旅商人だという女が訪ねてきたことがあった。
どこかでエリザベスのことを聞き付けたのだろう。霊験あらたかな魔除けを売りに来る山師めいた輩だ。
叩きのめして追い出してよかったが、ジョシュアはその日に限って面会を承諾した。
騎士が追い出さなかったことも、自らが承諾したことも、後になると不思議なことだ。
「とても怖いことになっていらっしゃる」
旅商人だという中年女は、来客用の部屋で縮こまるようにしながら、そう言った。
「……魔除けの類なら間に合っている」
「魔除けなんていうのは、神様そのものでも持ってこないと効き目はありません。とても怖いものがいます。奥様を湯で清めて差し上げて下さい」
妙なことを言う。
「それで何がある」
「何か見えた時はこれを使って下さい」
旅商人の女が取り出したのは、古びた木剣である。
「桃の木の剣です。これなら多少は効き目がありますから」
「ふん、これを幾らで売るのかな」
「銅貨五枚でよろしいです。はい」
安い。銀貨の詰まった袋でも要求されると思っていたこともあって拍子抜けだ。
「いいですか、奥様の身代わりを造るのです。奥様の下の毛を、腰巻についたもので構いませんから用意して下さい。あとは、できるだけ高価なお人形の股にそれを張り付けるのです。そうしたら、あれらは人形を奥様と勘違いします」
中年女の言うそれは、どんな呪い師も言わなかった不思議な儀式だ。
まるで金にならない話であるし、たとえ高価な人形を買わせるのが目当てであっても、それは迂遠に過ぎる。
「子爵様のお屋敷を見ましたけど、あれはいけません。あそこはもう人の入る場所ではなくなっています。このお屋敷のお庭に果実のなる木がありますね」
リシオンの木が庭園にある。
「う、うむ、その通りだが」
「奥様の使っていらっしゃるお櫛と剃刀を木の根元に埋めて下さい。掘り返すことだけは、してはなりません」
中年女は他にも呪術めいたことを指示したが、それはどれもごく簡単で金のかかるようなものではなかった。
「五年したらまた参ります」
中年女はそう言って、銅貨五枚だけを受け取り立ち去った。
半信半疑ではあった。
だというのに、ジョシュアはそれを実行した。
エリザベスの陰毛を手に入れるのには骨が折れたが、それ以外はなんともない。
毎日の湯浴みも、当時のシルセン子爵家の財産からすれば湖から手桶で水を救う程度のものである。
木剣には効果があったように思う。
ジョシュアにはそれが見えないために分からないが、エリザベス様が落ち着くまでの時間は格段に短くなった。
人形は金貨八枚を支払って高名な人形師に新作を造らせた。
人形には魂が宿ると言われているため、古美術品のようなものは避けたかったのだ。
ジョシュアは届いた人形を見て、うんうんと頷く。
エリザベスによく似ている。きっとも子供時代の彼女は、こんな女の子だったのだろう。可愛らしい。とても。
その儀式は、閉め切った自室で行った。
真っ赤なドレスを着たお人形のスカートを捲り上げて、腰巻を脱がせる。
人形が恥らっているように思えて、手に力が入る。
ジョシュアは妻帯していない。
エリザベス様が嫌がるものだから、この年齢まで結婚できなかった。
女を知らない訳ではない。この美貌に相応しいほどに、恋もしたし女も抱いた。
エリザベス様の腰巻をはぎ取るのだとしたら、乱暴に、彼女が恐怖するように。男の力を見せつけて。
人形の腰巻を破いてしまうほど乱暴にはぎ取って、足の付け根に糊を塗る。
剥がれ落ちないように何度も、優しく。
少女には似つかわしくない女の陰毛を一本一本張り付けるのだ。
◆
人形の儀式を語るジョシュア老の瞳はらんらんと輝いていた。
屈折して歪んだ性であるということを全く隠すことなく、老人は語る。股座に糊を塗り付けて、それでも剥がれそうだったので、穴を開けたと。
「それで、エリザベス様の見ていた怪物というのは」
「その後も出続けましたよ」
おや、効き目がなかったのか。
謎の人物が助力するという話は多い。地方によっては、それは神やその使徒が人に扮して救いを与えるという説話となる。
「あれは、私のものですから」
悪戯っぽく笑うジョショア老は、書棚に飾られた人形を指差した。
「えっ、それは」
「エリーと名付けています。私の妻のようなものですよ。エリー、マーカスさんに御挨拶を」
飾られた人形の笑みには、まるで生きているような艶めかしさがあった。
「そんな迷信を信じる訳にはいきません。当時の私は疲れていたのでしょうな。人形にそんなことをした後に急に馬鹿らしくなったのですよ」
「そ、そうですか」
「せっかく金貨を支払ったのですから。可愛がってやらないと……」
嫌な想像が頭の中で膨らむ。
「奥様には最後まで秘密でしたが、木剣で叩くと、感触がありました。柔らかな肉を打っているような。二度ほど姿を見かけたことがあります」
「どんな姿をしていましたか?」
ジョシュア老は美貌に似つかわしくない厭らしい笑みを浮かべた。
「楕円形の、鶏の玉子のような形をした大きなもので、人間の手足がついたつるつるとした獣です。あれは、メスなのでしょうな。足元に体をこすりつけてくるのです」
筆者は礼を言って立ち去った。
玄関口で、エリーという人形と共に見送ってくれる。
頭を下げた後は、振り返らなかった。
人形を抱く老人。その足元につるとした獣が寄り添っているような気がしたからだ。
エリザベス様は存命だ。
シルセン子爵家最後の一人として、トリアナン伯爵家の別荘で療養している。
正気を失って二十年近くが経つ。今は子供のように過ごしているそうだ。
シルセン子爵の椿事はその三年後のことだ。
不思議な旅商人の中年女が来るといった五年後は遅すぎたのか、それともジョシュアの歪んだ愛が全てをぶち壊したのか、今となっては分からない。
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