水槽の中の私たちは今日も目を見て話せない

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水槽の中の私たちは今日も目を見て話せない

 「透子さん、木曜のハンカチは縞々じゃない。水玉だよ」

 「あっ」

 気まずい沈黙が二人の間を漂う。

 「珍しいね、間違えるなんて。らしくない」

 「ごめんなさい、ぼんやりしてた……」

 「そうか。ならいいんだけども」

 私たちの今日は、こんなやり取りで始まった。彼は、文則さんは、私の方に視線を向けることもなく、腕時計をしきりに気にしながら、相変わらず生気のない声色でぼそぼそと言い放った。共通の話題に関して意思疎通を図ることを「会話」とするならば、私たち二人が交わすそれは、一体何と呼べばよいのだろうか。おたがいの言葉の意味するものは、問題なく理解できる。言葉という音声記号を聴覚で認識し、脳内でそれを意味のある音の集合体に変換し、それに対して最適な返答を投げ返すことは、できる。ただ、私たちの交わす言葉には、意志がない。あるいは、言葉に込められた意志を感じ取る能力を、おたがいに持ち合わせていないのか。二人の口から発せられた言葉は、それ単体で相手の耳へと直行する。本来そこに積まれるべき意志という積み荷は途中で振り落とされ、二人の間を漂い続ける。触れ合うことはおろか近づくこともないまま、波にもまれ、沈んで消えてゆく。きっと彼は、いつのまにか私がSF映画に出てくるような高機能AI搭載のお手伝いロボットにすり替わっていたとしても、しばらくは気づかないのではないか。意味は通じても、意志は、心は通わない。そんな感じだ。

 「ところで」

 家を出る直前、玄関扉を開ける手を止め、文則さんは振り向きざまに言った。

 「今朝の味噌汁のネギは厚すぎたし、お茶はぬるすぎた。疲れているのかな。明日からはいつも通りで頼むよ」

 私は何も言わず、ただじっと、彼の目の下にできた血液の沈殿を見つめていた。返事もせずに黙っている私を気にすることもなく、彼はいつものように家を出た。

 「それじゃ、行ってきます」

 玄関の前に立って、バス停へと続く農道をトボトボと歩いて行く彼を見送った。その後ろ姿は、何だか捨てられた飼い猫のように見えた。何度も繰り返した、そしてこれからも続いてゆく、朝の光景である。



 ***



 冷蔵庫の中には、カテゴリ分けされた食材が缶・瓶・タッパーに入れられ、寸分の隙間もなく、規則的に詰め込まれていた。開け放たれた冷蔵庫の前で、彼は両手の爪の長さを気にしていた。

 「透子さん、僕はね。魚はカレイ、肉は肝臓、食後には必ずコーヒーゼリーを食べて、餃子のヒダは五つに折ると決めている。通勤のバスでは最後列の左端に座り、火曜日のハンカチは唐草模様、木曜は水玉を持って行く。朝は7時に起きてすぐに青色のブラシで歯を磨き、きっかり25時にはベッドに入る。決まりごとが多いかな? でも透子さんなら大丈夫だよ。ごめんね。僕は決まりがないと安心できないから。」

 伏し目がちに私の様子を窺うように、それでいて淡々と、そう告げられた。初めて彼の家を訪れた時のことだ。

 彼と初めて出会ったのは、婚活のセミナーでの立食パーティーだ。結婚願望のない私は、心配した親に無理やり後押しされる形で強引に参加させられた。様々な年齢の男女がそれぞれの集団で談話に興じるなか、彼はべったりと冷や汗をかいたまま、グラスに注がれた赤ワインを見つめ、水面を水平に保つことに専念していた。周囲の喧騒がどうしても気になるらしく、視線だけがキョロキョロと動いていた。私は何だか仲間を見つけたような気がして、ちょうど暇を持て余していた時だったので、何の考えもなく彼に話しかけてみた。

 「あの」

 「はい」

 「ほどけてますよ、靴紐」

 「ああ、靴の紐」

 急に話しかけられた彼は案外動じることもなく、靴紐を結び直すためゆっくりと屈んだ。病的なまでに白く長細い指を見て、きっと手先が器用なんだろうなと思ったのを覚えている。

 「あなた、お名前は?」

 「透子です。あなたは?」

 「今すぐにでもここから帰りたいです。何度も来ているのに、いつも自分が何をしに来たのか、忘れてしまいます。僕は文則といいます」

 「文則さんは、趣味とかおありですか?」

 「熱帯魚の飼育と映画鑑賞が好きです。観終わった映画の感想を記録してデータに残していると、何だか落ち着きます」

 「そう、私は趣味なんかないけど、あなたの趣味になら合わせられそうです」

 しばらく沈黙が続いた。私が空になったグラスをクルクルと持て余していると、気まずさに耐えかねたのか、ただの気まぐれか、今度は彼の方から質問してきた。

 「あの」

 「はい」

 「透子さんは、1から10の中でどの数字がお好きですか」

 「そうだなあ。強いて言うなら、8?」

 その返答には何ら根拠はなかったのだが、彼はなぜか嬉しそうに、伏し目がちに微笑んだ。

 そこでまた会話は途切れ、私たち二人は時計を気にしたり、意味もなく周囲を見渡したりしていた。しかし私は、もうその沈黙が気にならなかった。彼に漂う雰囲気には、その沈黙を肯定してくれるような何かがあった。周囲の盛り上がりは徐々に熱を帯び、みな好みの相手を探そうと躍起になっているんだなあと、他人事のように思っていた。

 「あの」

 「はい」

 「……いつまで僕のところにいるんですか」

 「他に話す相手もいないので」

 「透子さんは、僕のことが好きなんですか」

 「いえ、別にそういうわけでは」

 「そうですか」

 あえて突き放すように答えたのに、彼は別段ショックでもないというように、また押し黙った。私は水をもらいにいったんその場を離れ、すぐに戻ってきた。その間も彼は私に目を向けることはなく、ネクタイ留めのピンを着けたり外したりしていた。遠くで運営スタッフの「あと5分で終了でーす」という声が響いた。

 「そろそろ終わりですね」

 「ええ」

 「今日は私なんかと話してくれて、ありがとうございました」

 「いえ、そんな、僕のほうこそ」

 別れの挨拶を切り出したものの、ちょうど良い引き際が見つからず、私は黙ってしまった。すると彼がおもむろに、何かこう、喉に詰まった異物を押し出すかのように、

 「あの、透子さん」

 「はい」

 「僕と結婚してくれませんか」

 と、そう言った。相変わらずどこを見ているのかわからないような目つきで。だらだらと汗を流し、今にも吐き出しそうな様子に、私は何と答えたものか困ってしまった。

 「あの、結婚してくれないなら、もう結構です……」

 立食パーティーは終わり、周囲の人々も三々五々と帰途につき始めていた。いつのまにか参加者はいなくなり、私たち二人だけがパーティー会場の真ん中にぽつねんと佇んでいた。この状況を何とかせねばとどぎまぎしていると、ふと彼の足元が視界に入り、思わず「あっ」と歓喜の声を漏らしてしまった。

 「文則さん、あの」

 「はい」

 「靴紐、ほどけてますよ」



 ***



 彼の持ち物を準備し、玄関の靴箱の上にそろえて並べること、これが私の一日の始まりだ。左から順に、腕時計、ハンカチ、メガネ、定期入れ、合鍵、ラキストの箱、ライター。ひとつでも間違っていると、態度には出さないものの、彼はすぐに機嫌を損ねる。彼を気持ちよく出社させてあげるために、細心の注意を払って、いつも朝一番にこれを済ませる。

 玄関で掃き掃除をしていると、朝食をとり身支度を終えた彼がやってきた。

 「朝ごはん、ごちそうさま」

 「おそまつさまです」

 「……透子さん」

 「なに?」

 「金曜のハンカチは茶色の無地だ。水色は月曜だよ。」

 「あれ、ごめんなさい。すぐに持ってくるから」

 「二日連続で間違えるなんて。どうしちゃったの」

 「ううん、何でもない。何だかぼーっとしちゃって」

 「そう」

 「はいこれ、ハンカチ」

 「ありがとう。今夜は19時20分に帰ってくるから、すぐに夕飯が食べられるようにしておいて。で、僕が食べ終わる頃にお風呂を沸かすように。21時からベスト・キッドの再放送があるんだ」

 「わかった。そのようにします」

 「ありがとう。行ってきます」

 いつもの、8時17分のバスに向かう彼を、今日も玄関から見送った。今日も変わらない、朝のやりとり。いつもの時間、いつもの光景、バス停へ続く農道、彼の後ろ姿、それは猫背。

 私は何だか、自分は本当に彼専用のお手伝いロボットで、誰かにそうプログラムされたみたいに、規則的な毎日を決められた通りに消化しているように思えてきた。

 玄関に据えられた水槽の中を、一匹のエンゼルフィッシュが、苦しそうに上下を行き来し泳いでいた。水面で酸素を取り入れては、また水底に沈む。何度も繰り返す。一定の間隔で、同じように。

 

 彼と二人で住むようになってから、世界が止まってしまったみたいだ。



 ***



 日曜の午後は買い物に行くと決まっている。外出嫌いな彼は、毎週日曜日に一週間分の買い物を済ませようとする。「私が日中に出かけてきた方がいいわ」と勧めても、「自分で選んで買わないと落ち着かないんだ」と頑なに拒む。どうせいつも同じものしか買わないのだから、私が出かけても変わらないのに。

 行きつけの魚屋で、いつも買うカレイの干物が売り切れていた。あれがないと彼の一週間の食事は成立しなくなるので、他の店を探す。買い物ルートは変更され、帰りの時間も予定より遅くなった。表情にこそ出さないものの、彼はずいぶん苛ついていたと思う。

 帰り道、夕日に背中を照らされながら、二人で歩いた。一週間分の買い物をするので、いつも私たちの両手は買い物袋の重みで引きちぎれそうだ。横断歩道を待っている時、ここ30分ほど無言で歩いていたことに気づき、前だけを見つめてぼーっとしている彼に話を振ってみた。

 「あの、文則さん」

 「はい」

 「D.H.ロレンスは他人と話すとき、わざと暗い顔をしていたんだって」

 「……誰それ?」

 彼は振り返らずに聞き返した。

「詩人、イギリスの。本当は楽しくお喋りするのが好きなのに、あえてそうしてたんだって。何の意味もないのに」

 「そう。でも、そういう天才的な人って何かしらひねくれた性格してるよね」

 「それもあるけど……」

 「なに?」

 買い物袋の重さに負けてだらんと垂れ下がっている彼の肩の向こう側、夕日に照らされて朱く染まった河川敷を見つめながら言った。

 「ロレンスは、本当の自分をさらけ出すのが怖かったんじゃないかって、思う。自由に振舞うことが、なぜか不安だったんじゃないかって。私たち人間って、何かに縛られてないと、自分を取り繕っていないと、まともに生きていられないのかも。」

 前方から小学生の自転車集団がやってきた。私は彼らに道を譲るために、歩調を一歩ぶん緩め、彼の後ろ側を歩いた。疲れを知らない子供たちは、ぎゃあぎゃあ騒ぎながら私たちの横を通過してゆく。チーンチーンと、意味もなくベルを鳴らしながら。

 「ねえ、文則さん。私のこと、愛してますか」

 再び訪れた静寂。彼は何も言わない、言えないのかもしれない。あるいは、あまりに抽象的に、深く澱み切ってしまった感情を言い表す言葉を、彼は見つけられないのかもしれない。

 助けになりたいような、突き飛ばしたいような気持ち。

 彼の足元を起点に、左斜め後ろに向かって影が伸びている。私はそいつを、子供みたいに、えいっえいっと踏んづけながら歩いた。

 私の背後にできた影は、彼のそれと同様に伸びており、二つの影は左斜め後ろに向かって平行線を描いていた。いま思えば当然の事なのに、私は喉が詰まるほど悲しい気持ちになって、買い物袋を握る指先がひどく痛んだ。



 ***



 いかがわしい夢をみた。良くないというか、みるべきではない夢。彼と暮らすこの家を一人で出て行って、どこか遠い場所で暮らす夢。そこで私は好きな時間に起きて、好きなものを食べて、趣味のエアロビクスを楽しみ、雑誌編集者の仕事を適度にこなし、週末は友達とお茶を楽しんでいた。

 外に出て行ってみれば案外、楽しくやれたという夢だった。

 夢は深層心理の表れ、理想化された現在、とかなんとか聞いたことがあるが、私はそんなふうには思わない。思いたくない。自分は心の奥底で、実はあのような生活を想像していたのかと思うと、怖くなって否定したくなる。

 夢の中で私は鳥になり、気の向くままに大空を飛び回り、文字通り羽を伸ばした。それはそれは楽しく、開放的な夢だった。私は確かに、自由とはこういうことなのだと、久しぶりに実感していた。

 それでいて、どこまでも寂しく、忘れてしまいたい夢だった。



 ***



 「ハンカチの柄は合っている。が、メガネが無い。メガネはどこ?」

 「隠しちゃった」

 こちらに背を向けたままで、彼はピタッと動きを止めた。

 「……は?」 

 「隠したの。あなたが困るかなと思って」

 「急になんだ?」

 彼は責めるような表情をこちらに向けた。何を訳の分からないことを、とでも言いたげだ。こんな緊迫した状況にもかかわらず、久しぶりに彼と視線が合ったこと、彼の焦った顔が見られたことが何だか嬉しくって、そわそわしてしまう。それを悟られまいと、背を向けて靴棚を整理するふりなんかして、私はしばらく間を置いた。

 「困った?」

 「じゅうぶん困ってる。早く出してくれ。……あれがないと仕事にならない」

 後ろで彼が苛立っているのを感じた。そろそろ潮時だろうか。はぁーっと、わざとらしく肩で溜め息をついた。

 「なーんて、冗談。ごめんね。」

 ポケットに忍ばせておいた彼のメガネを、少しずらして掛けてみる。私はサーカスのピエロみたいに両手を上に挙げて、くるっと振り向いてお道化てみせた。

 彼は黙ったままで、私からそっとメガネを外し、自分の耳に掛けた。訝しむような、哀れむような眼でじいっと私を見つめていた。

 「行ってくるよ」

 失望されただろうか。嫌われてしまっただろうか。彼はいつもの道を歩いてゆく。雲ひとつない夏空は、ちっぽけな二人を嘲笑うみたいに青く澄み渡っていた。私は今日も、何も言わないまま彼の背中を見送った。

 

 

 ***



 テレテテレテテレテンッ♪ と携帯の着信音が鳴った。あの人からだった。先ほど家を出たばかりの彼から電話が掛かってくるなんて。忘れ物は、ないはずだ。

 「もしもし」

 「……はあ、はあ」

 「もしもし、文則さん?」

 「……の、乗り遅れた。最悪だ」

 携帯を耳に当てたまま、私は動けなくなってしまった。

 「バス停のベンチに座って田んぼなんか眺めてる。あり得ない……」

 私が何も言えずに黙っていると、彼が大きく息を吸う音が聞こえた。 

「君のせいだぞ君が朝に妙な行動をとるから……リズムが壊された! 次のバスが来るまでの20分間、僕は何をしたらいいのか分からない。どうしてくれる……」

 初めて、彼が声を荒げるのを聞いた。電話越しでも相当に取り乱しているのが分かった。

  「くそっ! 僕は飛行機雲なんか見たくないんだよ……くそっ!」

 ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、と、苦しげな彼の呼吸音だけがしばらく響いた。突然責め立てられて頭が真っ白になってしまった、彼の苛立ちが鎮まるのを茫然自失と黙って待っているしかなかった。

 ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、はぁ、はっ、ぜぇ、はぁーっ……。

 「透子さんと暮らすようになってから、妙な夢ばかり見るよ……。僕はあの家で、ずっと一人で暮らしてて、何もせずにふわふわ宙に浮いてるだけ。それでも結構楽しくやれてるっていう、そんな感じの。何でこんな話……」

 らしくない、こんなとりとめもない話を、彼が喋る。バス停のベンチにだらっと腰掛け、青ざめた顔で空なんか眺めてる彼を想像して、ちょっと可笑しくなってきた。

 「ねえ、文則さん」

 「はい」

 「今夜はお肉を食べに行きましょう。夢中で骨付き肉にかぶりつくあなたが見てみたいの」

 「……それもいいかもね」

 

 変なの、こんな時間に二人でぼんやり話してるなんて。

 何だか同じ夢のなかにいるみたいで、嬉しい。

 通話を切った私は、久しぶりにエンゼルフィッシュの水槽の水を換えてやった。

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