正義の境界線

第32話

 とある雑居ビルの屋上。照り付ける太陽の下で双眼鏡をかまえて街を眺める男がいた。


 ボタンを外して前を開け、腕まくりという軍服を着崩した格好であるが、その内にみっちりと詰め込まれた筋肉のためだらしない印象は与えず、むしろ臨戦態勢をとった歴戦れきせんの軍人といったところである。


「はあ、まったくもってつまらん任務だ。もういいじゃねえか、適当に暴れさせて帰ろうぜ。」


 目を半開きにして、ため息をつきながらいった。街を歩く人、人、人。そのどれにも興味がない。誰が生きようと死のうとだ。


「標的を正確に認識したうえでそれを追うことができるか、そういうデータが欲しいのよ。いちもつをむしり取られたくなかったら、さっさとターゲットを決めなさい。」


 日陰ひかげの中から女の声。眉の上で前髪を真っすぐに切りそろえたロングヘア、女性士官用の軍服の上に白衣を羽織はおっていた。

 野性味あふれる男とは対照的に、知性の香りが漂う美女である。


「そう思うならお前も手伝え。なんだってこんな真昼間から、男一人でピーピングしてなきゃならんのだ。これじゃあまるで変質者じゃないか。」


「変質者であることは確かでしょう?臓物ぞうもつを見て勃起ぼっきするような奴を世間一般の用語でド変態って呼ぶのよ。」


「誤解があるようだな。俺は臓物で興奮するわけじゃないし、部屋に人体模型が飾ってあるわけでもない。臓物をまき散らしてもだえ苦しむ人間の、今まさに消え去ろうとする命のきらめきにこそ感動するんだ。いわば、戦場芸術家だな。」


 男はどうだと言わんばかりに得意げな顔をしているが、女はただ呆れ果て、冷たい視線を送るだけであった。


「で、それはいいとして。お前も日陰から出て来い、働け。」


 すぐには返事をせず、女は忌々し気に空を見上げた。暑い、眩しい。


「…日焼けしちゃうでしょう?ああ、パラソルでも持って来ればよかったわ。」


 ずっと部屋に籠っている人間特有の、青白い手をひらひらと振って見せた。


 こうなると何を言っても無駄だと悟った男は、肩をすくめて街を観察する作業に戻った。


 平和、くだらない退屈な日常。今日が終われば、また明日が来ると無条件で信じている人間の群れ。そういうものを見ていると、心が空虚くうきょになっていく。早く壊してやりたい。


 苛立ちを押さえきれそうに無いと思いはじめたその時、左右に振れていた双眼鏡がピタリと止まる。


 八の字の視界に映る一人の男。黒いスーツ、黒いネクタイ、深緑色のトレンチコート。以前見たときはネクタイは普通の柄物であり、トレンチコートは薄茶色だった。顔つきも記憶の中のものと比べると、随分と引き締まっている。だが、間違いはない。


 暑さも退屈も、全て吹き飛んだ。会いたかった、最高のターゲットだ。


「ふ、ふふ…ぐふっ。」


 体をゆすって笑いを漏らした。はたから見れば不気味としか言いようがない。その様子を眺めた女は呆れたような顔をしている。


「何よ突然、ハトがケツに豆突っ込まれたような顔して。」


「見つけたぜ、今回の条件にぴったりだ。この世に神様ってやつがいるなら感謝したいね、その性格の悪さに!」


 なおも笑い続ける男を放っておいて、女は用意してあった機材から白いカバーを取り除いて操作を始めた。ノートパソコンから数十本のケーブルが伸びて様々な計器類に繋がっていた。


 男にカメラを投げてよこし、その映像から顔の特徴や身長などを入力していく。


「なあ、本当に大丈夫なのか、このポンコツ。」


「できるかどうか、確かめる作業を実験って言うのよ。」


 軽口を叩いた後、それで納得したのかどうか鼻白む男を無視して、ほんの少しだけ躊躇ためらい、決定キーを押した。

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