第2話

 まだ日の高い昼間だというのに、入り組んだ路地裏はひどく薄暗い。


 生ごみのすえた臭いがあちこちから立ち上り、レイラはスーツに匂いが染みついたりはしないかと渋い顔をし、ごみを避けながら歩いていた。

 ハンカチで口元を覆いたかったが、片手が塞がることを嫌って結局は我慢するという結論に落ち着いた。


 見る限り、決して治安の良い所とは思えない。騒ぎが起きても警察が到着するまでに相当な時間がかかることだろう。無論、治安維持能力が機能していればの話だ。全くの無法地帯である可能性のほうが高いだろう。


 固い表情でスーツの上から熱線銃ブラスターの冷たい感触を確かめる。

 空気も治安も日当たりも悪い。モグラだって唾を吐いて立ち去っていきそうな場所に好きこのんで来たわけではない。今すぐ何もかも放り出して逃げてしまいたいというのが本音であった。


 惑星開拓のための資金は現金で預かっていた。物資の購入はともかく、フリーの船乗りを相手に交渉する場合、後払いや小切手、銀行振り込みでは応じてもらえないことが多々ある。

 紙幣が通用するならまだましな方だ。紛争地域など政府の信用が皆無の宙域では金塊か麻薬でしか取引できないことさえあった。

 フリーの船乗りは領収書を切ってくれるのだろうかと疑問に思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。


 レイラは自分を信じて大金を預け、今も開拓星で帰りを待つ仲間たちの顔を思い浮かべ、逃げ出すという選択肢を捨てた。義理堅い人間にとって、信用ほど重い鎖はない。

 いっそのこと社内でいじめられていたとか、冷遇されていたならば遠慮なく裏切ることができたのだが、決してそのようなことはなかった。

 事務員としてそれなりに優秀であったため、仕事を押し付けられるくらいのことはあったが、不満らしい不満はそれくらいのものである。少ないが残業代だって出ている。


 立ち止まり、また決意を新たに動き出すということを何度か繰り返し、目的のバーに到着するころには想定していた時間を二時間も過ぎていた。

 客に来てほしいのかほしくないのか、どちらなのかと疑問に思うほどの小さな看板。店名と名刺の裏書きを数回ほど見比べてから、意を決して錆の浮いたドアノブに手をかける。




 ドアを軽く開けると、隙間から冷たい風が流れ出す。荒くれ者どもの乱痴気騒ぎが一緒に溢れだすものと思っていたが、予想に反して店内は静かなものであった。


 衣擦れ、グラスを傾ける音、客の囁き声と耳を澄まさねばわからないようなボリュームのクラシック音楽。

 理性と文明の香りがすることに安堵した。少なくとも、会話が通じないということはないだろう。


 落ち着いて間接照明の灯る店内を見回す。客の姿はまばらであった。昼過ぎという時間帯を考慮すれば、客入りが良い方なのかもしれない。


 カウンターに男女二人連れ。テーブル席にばらけて男が数人。カウンターの内側にバーの主人らしき男がいて、視線だけを見慣れぬ来客に向けてグラスを磨き続けている。

 懐古趣味の酒場、というのがレイラの抱いた感想であった。


「いらっしゃい、ご注文は?」


 低いが良く通る声で店主が聞いた。レイラは場の雰囲気にのまれぬためと、話を早く終わらせたいがために、とりあえず一杯頼んでから、などとはせずに名刺をカウンターに叩きつけた。


「最高の船乗り、それが私の注文よ。」


 店主は名刺を確認して、眉間にしわを寄せた。どうやらその名にあまり良い印象を持ってはいないようだ。


「最高の船乗りなんか知らないね。最低の船乗りならそこで無駄飯食っているが。」


 くいと顎をしゃくってカウンターの奥を示す。男女二人連れの、女がこちらに気づいたのか軽く手を振って見せる。


 奇妙な恰好の女であった。旧世紀のキモノというやつだろうか、薄暗い店内でも

はっきりとわかる白いシャツと赤のロングスカート。首には十字のネックレス、手首に珠を連ねた腕輪。左腕に深緑色の腕章をつけていた。


 歳はレイラよりもいくつか上であろうか。なめらかに流れるブロンドの髪で顔の右半分を覆い、残る左半分で人懐っこい笑顔を浮かべている。瑞々しい向日葵を思わせる、そんな笑顔である。

 手を振るたびに揺れる、レイラのそれとは対照的な豊かな胸に気圧される思いではあったが、暴力の匂いによって威圧されるよりは数百倍もましであると考え直し、その奇妙な女に近づいて右手を差し出した。


「初めまして、クロサワ運輸のレイラよ。」


 フリーの船乗りにとって、見知らぬ他人に右手を預けるという行為はどうなのだろう、ひょっとすると礼儀知らずと言われて払いのけられるかもしれない。

 そんな考えが脳裏をかすめたが、全くの杞憂であった。女は右手を差し出し、さらには左手で包み込むようにして、いささか大げさに親愛の情を返した。


「会えて嬉しいわ。私は輸送戦艦スペース・デブリの火器管制。要するにドンパチ担当のメイよ。」


 輸送戦艦、という矛盾をはらんだ短い単語に疑問を持ったが、今は他に聞きたいことは山ほどある。


 メイと名乗る女の肩越しに男と視線が合うと、彼はグラスを持ち上げて会釈した。

 そんなやり取りに気づいたのか、メイは

「こっちはうちの艦長。といっても四人しかいない船だけどさ。」といった。


「ついでに給料も変わらん。」

 男は苦笑してみせる。不満というよりも冗談の類だろう。そこに不快な空気は流れていない。


「ただいまご紹介にあずかった、艦長のカンザキだ。よろしく。」


 黒の背広に、前を緩めた黒のネクタイ。これだけなら葬式帰りに一杯やりに来たました、という風に見えなくもない。店内であるにもかかわらず脱ごうとしない、深緑色のトレンチコートが異質な雰囲気を漂わせていた。

 ポケットの数が妙に数多く、何か固いものが入っていそうな直線的な膨らみを見せている。膨らみから察するに外だけでなく、内ポケットにも色々と入っていそうだ。


「早速だけど、仕事の依頼がしたいの。どんな困難な条件でもやり遂げるって聞いて、あなた達を探していたのよ。そのためになにかと散財を…いや、それはいいんだけど。」


 レイラの口上に、カンザキとメイは困惑した面持ちで顔を見合わせる。


「美女のご依頼とあらば、二つ返事で引き受けたいところではあるが…。」


「デマだった、ってこと?」


「ああ、うん、それがね。私らは三日ほど前に航海を終えたばかりで、乗組員たちにも休暇を出しちゃったわけよ。ポンコツ一号とポンコツ二号はボーナス握りしめて夜の街に消えちゃったし、もう一カ月ほど待ってくれない?」


 一カ月、それだけの期間を無駄に過ごせば開拓星で待つ仲間たちの身がどうなっているかわかったものではない。他の船乗りを探す当てもなく、この奇妙な二人組が信用できると決まったわけでもない。だが、レイラはここが賭けのしどころだと判断した。


「運賃は現金で払うわ。割り増し付き、前払いで!」


 メイとカンザキは再び顔を見合わせ、うなずいて

「話を聞きましょう。」と、二人同時に答えた。

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