番外編 春疾風、南より

 泉の澄んだ水は鋭利な刃物を思わせる。

 水の冷たさが爪の先から骨の髄までひたひたと沁みてゆくにつれ、体の内側にこびりついた淀みが断ち落とされていくようで、イルーシュカはふるりと肩を揺らした。

 身体を拭い、髪を梳く。毎日同じ時間に同じ手順で繰り返される一連の動作は、四肢にすっかり馴染んでいる。いつもならばぼんやりと思索に耽る間に手が動き、全身を清めて衣を替えるのだが、今日だけは違った。

 執拗に肌を拭い、祭事の時にしか使わないお気に入りの香油を丹念にすり込む。髪に艶が出るまで櫛を入れ、ゆるく束ねた。今日のために取り置いていた襦袢に袖を通して、小走りで水辺を離れる。母屋に走り込む寸前、つと泉を振り返った。

 対岸に留まっていた靄は薄らいで、金色の朝陽が幾筋も水面に射し込んでいる。木々の梢から透かし見る空は真新しい青、雲は淡い。

 きっと、一日中好天が続くだろう。ライルツの神もみなの帰還を祝福していらっしゃるのだと、イルーシュカは頬を緩める。

 鼻歌なぞ歌いながら、新年にあつらえたばかりの衣を重ね、腕輪や飾り紐をはめてゆく。靴こそ去年から履いているものだけれど、こればかりは仕方ない。母のお下がりの耳飾り、魔除けの額輪、鹿の骨と雪鷹の羽、玉を連ねた首飾り。イルーシュカをイルーシュカたらしめる装身具を一通り身に着けて、鏡の前で一回転する。衣の裾がふわりとはためき、刺繍を施した帯が遅れて舞った。悪くない。……悪くない、が。

 父と母の気配がないことを確かめてから、鏡台の引き出しをそっと開けた。ずらりと並んでいるのは、白粉、眉墨、それから祭事で使う色とりどりの紅。

 母の化粧道具は去年、十五の誕生日から自由に使うことを許されていたが、粉をはたいて紅を差し、大袈裟に眉を描くと別人になってしまうようで、色気よりも気恥ずかしさが先に立つ。

 ましてや巫女化粧を施すとなればもとの人相などあってないようなもので、普段は気安く接してくれる村人たちが自分のことを、流石はルトゥリナの娘、次の巫女さまがあんなにしっかりしているならこの地も安泰だ、などと囁き、一歩の距離を隔てるのがどうにも居心地悪く思えるのだった。

 化粧とは特別な日、非日常の象徴。イルーシュカ、ではなくて、ライルツの巫女として振舞わねばならぬ証。

 巫女化粧をし、白い装束を纏って背を伸ばした母は神々しく美しいが、それに並び立ち、いつかは母の後を継ぐことになるとはとても思えず、祭事のたびに憂鬱になる。

 だから、これまでは引き出しに触れることさえなく、化粧道具を手に取るのは初めてだった。

 なのにどうしてと問われれば、今日だからとしか答えようがない。深呼吸して高鳴る胸をなだめ、紅入れの蓋を次々に開いて奇抜でない色を探す。

 淡い色がいい、血のような赤や椿の色は紅の色ばかりが目立ってしまいそうだから――四つめの器で、望む色を見つけた。

 鏡に向かう母の姿を思い出しながら、指にとって唇に乗せる。酸っぱいような苦いような不思議な味と匂いに、桜の色を乗せた唇がきりと締まった。

 鏡を見ながらほんの少しだけ紅を足して、顔を近づけては遠ざけ、右を向いては左を向き、もう一度顔を近づけて遠ざけ、にっこり笑って、それからようやく鏡に覆いをした。

 ――変ではない、と思う。たぶん。

 戸棚の一番奥から、折りたたまれた手巾を取り出す。そっと開き、蝶をかたどった髪留めを手に取った。翅に貼られた貝殻が光を弾いて虹色に輝いている。

 貝、というのは海にいる生き物なのだそうだ。ライルツの地を離れたことのないイルーシュカは、海を知らない。向こう岸が見えぬほど広大な、塩辛い水をたたえた泉だというが、想像できるものではなかった。

 岸には砂地が広がり、貝殻や木の枝や、その他はるか遠く隔たった地からの漂流物が打ち上げられているのだとか。それらは寄せては返す波の仕業なのだと、イルーシュカは教わった。

 海は青い水の原、ライルツの草原と並ぶほど美しく、まるで空を映したかのよう。一日中眺めていてもちっとも飽きない――興奮も露わに語ったかれの姿を思い浮かべ、目を眇めて蝶の翅にまとわりつく光の戯れに没頭していたイルーシュカは、母の声で我に返った。


「イルーシュカ、どうしたの、ぼうっとして」

「ううん、何でもない」

「心配しなくても、この天気ならきっと昼前には着くわ。支度が済んだら、準備を手伝って」

「うん」


 化粧には気づいただろうに、母は何も言わなかった。椿の色の紅をさした唇だけがやわく弧を描く。

 貝殻の蝶を襟元に留め、イルーシュカは炊事場に向かった。朝の家事を終えた村の女たちが集まって、めいめいに作業している。

 酒や食器の準備をしている者、芋の皮を剥く者、団子を捏ねる者、大鍋に湯を沸かして汁物を拵える者、塩漬け肉を切り分けて香味野菜とともに葉で包んでいる者。イルーシュカは香ばしく炒った木の実を潰し、団子に入れる餡を作る作業に加わった。


「ようやく戻って来るんだねえ」

「都ってのは随分賑やかなんだろう。みんな若いんだから、都で一年も過ごすと、こっちは退屈なんじゃないかしら」

「退屈だってなら、牛の世話でも雨漏りの修理でもやらせりゃいいんだ。仕事はたんとあるさ」

「土産は何かしらね」

「元気に戻ってくるのが何よりの土産じゃないか」


 息子の帰還を待つ女たちの表情は村を照らす太陽のごとく明るい。そこここで交わされる世間話を聞くとはなしに耳に入れながら、イルーシュカは手を止めない。油が染み出した木の実餡を鍋に移し、砂糖と味噌を加えて練り上げてゆく。

 ふと、耳の奥がざわめいた気がして顔を上げた。南を見遣る。

 まだ何も見えない。見えないが、ライルツの神が一行の到着が近いことを知らせてくれている。

 ライルツで育った逞しい馬たちが草原を力強く駆けてくる。先頭を駆けるのは金髪の偉丈夫続いて村の若者たち。懐かしいかれの姿はしんがりの馬上にある。幼い頃からイルーシュカの隣にいた、かれ。日に灼けた額、射抜くようなまっすぐな眼差し――戻ってきた。戻ってきた!

 視線を感じて振り返ると、母が小さく頷いた。同じ光景をたのだ。


「さあ、もうすぐよ。もうすぐ子どもたちが帰ってくるわ。みんな一年分大人になってるわよ」


 母の言葉に女たちの顔がいっそう輝く。イルーシュカは目を閉じて幻視を続けようとしたが、手元の鍋がちりちりと音をたてはじめたので、諦めざるを得なかった。代わりに、首飾りに連なる雪鷹の羽と、襟元の蝶に触れる。それらをイルーシュカに握らせた手のぬくもりを反芻しながら。

 かれが戻ってくる。都での経験と土産話とともに。

 こらえきれずに南の空を仰ぐと、遠く、遠く、青空を舞う雪鷹が見えた。


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