第4話 チサト

 チサトと白馬の牽く荷馬車は街道を西に向かっている。

 できたばかりのこの街道は、都の王の命によって敷かれたものだ。都に端を発し、北へ、南へ、西へと伸びてゆく。血の管のようにあちこちで枝分かれし、街へ、村へと続く街道は、国中のどんな小さな集落へも至るよう、大急ぎで整えられているところだった。

 街道の設置が示すのは、王の威光である。都の北方に位置する広大な草原には、数多の部族がそれぞれに集落を作って暮らしていたが、古代より草原に住まうそれらの部族の長たちにも、王は服従を強いた。

 広く、均された道は騎馬での行軍も容易い。馬車をもってすれば、食料や補給物資の輸送も可能で、ただそれだけのために王は木々を伐り、岩を除け、草の根を引き抜いて街道を拓いたのだった。

 北方では、王の支配を良しとしない部族が多くあったと聞く。王は初めは友好の証として金品を使者に持たせ、使者が否の返答を持ち帰るや、万の軍を送り込んだ。

 豊かな土地の恵みにあずかり、素朴に暮らしていた北方の民は軍勢の前にまったくの無力だった。赤子の手を捻るように易々と、王は北の草原を版図におさめた。

 王の暴虐に抵抗した部族もないではなかったが、王に勝利しえた部族は皆無であった。

 チサトの家は代々行商を生業とし、北の草原へも幾度となく足を運んでいたが、王の支配が行き届いた今、チサトの商う品々を必要としてくれる者は、北にはいない。

 チサトは行商の最中に生まれ、各地を旅しながら長じたが、草原は素晴らしい場所だったと今でも思う。古き神を崇め、神事が暮らしの中心にある部族が多く、部外者のチサトからすれば奇妙だとしか思えぬしきたりに縛られていたが、それらの土地には形容しがたい「力」があった。大地は肥え、風は快い。水は澄み、疫病とも無縁の土地。それが神の存在ゆえというなら、そうに違いない。そんな説得力があった。

 ライルツもそんな部族の一つだ。

 神の力を授かった巫女と、神の言葉を預かる長、『鞘』と呼ばれる巫女を守る武芸者によって治められていたライルツが王にくだってどれほど経つだろうか。

 草原の神の力を欲した王だが、その力を手にしたとはとんと聞かない。ライルツの巫女は殺され、次代の巫女は同じく次代の『鞘』――チサトの友でもある少年だ――と姿を消した。天地を引き裂くがごとき雷が王の軍を襲い、将軍が命を落としたと聞くが、軍を退かせることはかなわず、神の力をふるう者が失われたライルツは、何の変哲もない草原になった。

 ライルツを訪れるたび、心の底から洗われるような気がしたものだ。風が、空気が違う。チサトのような常人ただびとでさえ、神の恵みを肌で感じることができたのに。

 巫女の不在は神の不在をも意味するのだと、王の支配を受ける草原の只中でチサトは知った。王がそれを知る日が来るのかはわからない。

 行方をくらました次代の巫女と『鞘』の消息は杳として知れない。人知れず自死を遂げたのか、はたまた手に手を取って逃げたのか。チサトの知る『鞘』の少年は、どんな苦境にあっても戦いの場から逃げ出すような性格ではない。生きていれば必ずやチサトを頼ってくるはずだった。

 草原の部族はゆるやかに連帯して暮らしているが、年若い二人がよその部族を頼るにはその連帯は淡すぎた。行商人として各地を巡り、見聞も知己も多いチサトが、彼らの脱出の鍵になる。

 そう思って待ちかまえていたのに、何日、何ヶ月、何年経っても二人は現れなかった。必ず自分を頼るはずだという思いが、単なる自信過剰であればいい。他に伝手があって、どこかで幸せに暮らしているのならそれで構わない。――いや、そうであってほしい。

 細い細い希望の糸を縒り合わせるように、チサトは祈る。祈る神をチサトは持たないが、ライルツの神に祈った。

 祈りが、神がかくも無力なものであるとは。

 諦めることは薄情に過ぎ、チサトは多忙を言い訳に、二人のことを忘却の沼に沈めた。それでも、起伏に富んだ旅の日々は不意に二人の面影をもたらし、チサトの胸を締め上げるのだった。

 高い鳥の鳴き声に、チサトははっと我に返る。街道を行く荷馬車、昼下がりの気怠い青空。

 少し居眠りしていたようだ。不用心な、とチサトは苦笑し、荷を探って干し杏と炒ったくるみを少しずつ囓った。

 ふ、と頭上が陰る。見上げれば、夢などではない、二羽の鳥が荷馬車の上空を大きく円を描くようにして飛んでいるのだった。

 あれは。

 チサトは馬車を止める。手庇を作って見上げる空を舞うのは、間違いない、ライルツの神鳥、雪鷹だった。あんなにも全身が白い鷹は他にない。

 チサトが認めるや、二羽の雪鷹はゆったりと高度を下げた。不思議と、襲われるのではという危機感は皆無で、ライルツの何者かが故あって遣わしたのだろうと、そんな予感めいた思いだけがあった。

 二羽は、つがいか。

 小さな方の雪鷹が、ほとんど手で触れられそうな高さまで降りてきて、くわえていたものを御者台に落とした。雪鷹を見上げたまま、手探りで拾い上げる。


「……あ」


 吐息とともに、思い出が洪水のように押し寄せる。

 雪鷹は短く鳴いて再び高度を上げ、飛び去った。


「ベルクート! イルーシュカ!」


 チサトは叫ぶ。雪鷹は戻らない。

 貝殻細工の、蝶の髪留め。

 ぶるぶると震えながら、雪鷹が運んできたそれを手巾に包んで懐の奥深くにしまいこみ、チサトは雪鷹の飛び去った北を見遣る。神の失われた、友がいた、ライルツの草原を思う。

 ――微かに、遠雷が聞こえたような気がした。




【ふたり、神鳴りの  完】

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