第3話 ふたり、神鳴りの(3)
都で過ごした一年間を、チェスカが村長にどう報告したのか、ベルクートはよく知らない。
ただ、村長や巫女が物憂げに南の方角を眺めているさまを目にすると、王の遠征はそう遠くない時期のことであるように思える。都の兵士たちは不安と期待だけでなく妙な高揚も見せていたし、鍛冶屋は忙しげに立ち回っていた。
戦か。ベルクートにはぴんと来ない。
都で見た軍隊は、兵士の数だけでこの村で暮らす民をゆうに上回っている。一対一ならばともかく、ライルツと都との戦となれば勝てる見込みなどない。草原に住まう他の部族と共闘しようにも草原はあまりに広く、意思の疎通さえ困難だろう。
王はどうしてライルツの神に興味を示したのか、チェスカが何を考えているのか、ライルツの民はどうなってしまうのか。自分はどうすればよいのか。ベルクートには何もわからなかった。父が生きていればどうしただろう。思考はむなしく空回りする。
「走りにゆかぬか」
そんなときだった、イルーシュカから遠駆けの誘いを受けたのは。
都から戻ってからというもの、何となく慌ただしくてイルーシュカと顔を合わせたのもわずかで、都への旅路については何も語っていなかった。きっとそのことも含めて話があるのだろう、とベルクートは誘いに応じ、母の持たせてくれた弁当二つと水筒をパナの背に、シュノを肩に、イルーシュカと村を出た。
イルーシュカの駆るトトカは葦毛の牝馬で、ほっそりとしなやかな体躯と優雅な走り、そして妙なところで頑固な性格があるじにそっくりだった。
わずか一年、会っていなかっただけなのに、村に戻ったときには無事を祝う盛大な宴もあったのに、イルーシュカはどうしてか緊張しているようで、以前よりも距離を感じるのがベルクートには気がかりだった。何か気に障ることをしただろうかと我が身を振り返るも思い当たる節はなく、かつて贈った貝細工の髪飾りが黒髪を彩っていることからして嫌われているわけでもないらしい。
話というのはそんなにも重要なことなのだろうか。あるいは、何かもっと別の話なのだろうか。
「……なあ、イルーシュカ」
清流のほとりで馬を休ませるそのわずかな時間に、ベルクートは思い切って声をかけた。細い肩が大きく震え、宵闇の眼が瞬く。
「具合でも悪いのか。戻って休むか?」
歩み寄ったイルーシュカがずいぶん小さく見えることに、ベルクートは気づいた。自分の背が伸びたのだと得心するまでは、ふた呼吸分ほどの時間がかかった。
気まずい空白ののち、イルーシュカはふわりと花開くように微笑んだ。
「何でもないんだ、ベルクート。おまえが都に出かけている間に、ずいぶん背が伸びたから驚いていただけだ」
昔はわたしの方が背が高かったのに、と口を尖らせるイルーシュカに手を取られ、今度はベルクートが驚く番だった。
「こんなに手も大きくなって……もう『鞘』を名乗っても恥ずかしくはあるまい」
思わせぶりな言葉に、え、と間の抜けた声がこぼれる。イルーシュカはベルクートの手を強く握り、言った。
「今日わたしが話すことは、他言してはならぬ。おまえをわたしの『鞘』として信じての頼みだ、聞いてくれるな」
「……わかった」
言葉を交わすことで緊張がほぐれたか、再びトトカに跨ったイルーシュカはベルクートの知るいつものイルーシュカで、他言無用と釘を刺した割には他愛のない話を続けた。田畑の具合や、サシェハのうちに生まれたふたごの様子。長老方が丹精した生垣の見事さ、収穫祭で納める舞のこと。
午前中は主にイルーシュカが話し、弁当を食べて午後からはベルクートが都での暮らしを語った。馬は草原を北に向かい、昼過ぎには常夜の森に入った。
わだかまりはすぐに消えた。たかが一年のこととはいえ、話すことは多くある。幼い頃のように木の実や果物をもいで食べ、語らううちに時間は飛ぶように過ぎ、空模様が怪しくなってきた。先ほどまで木漏れ日に輝いていた森は雨雲の影に覆われ、雷鳴に震えるようになった。
「一雨来るぞ。炭焼き小屋へ寄ろう」
間もなく土砂降りとなった森を駆けて、手近な炭焼き小屋に転がり込む。先ほどまでの好天が信じられないほど、突然の雨だった。
普段は無人の炭焼き小屋だが、こういった不測の事態を見越して少しの非常食と火起こしの道具が備えられている。ベルクートは炉に火を入れ、濡れ鼠になったイルーシュカを招いた。
「止みそうか」
尋ねたことに、深い意味はなかった。イルーシュカはベルクートのそんな気安さを打ち消すかのように歪んだ笑みを浮かべた。
「止まない。今夜中、雨は続く。……だから、おまえを誘ったんだ、ベルクート」
「……そうか」
つまりイルーシュカは、ふたりきりで話をするためだけに今日この日を選んだということだ。知って、ベルクートを連れ出したのだ。それほどまでに、彼女の話は重い。自然と、頬に力がこもる。
水の滴る上着を脱いで、ベルクートは炉辺に座った。濡れて身体に張りつく服の裾を絞り、露わになった身体の線を隠すようにしてイルーシュカが隣に腰を下ろす。
宵闇の眼に炎が映る。
ゆらゆらと、イルーシュカの炎が揺れた。
「都の王は、ライルツの地を欲している。正確には、ライルツの神の力を。友好だとか交流だとかは口実に過ぎぬ」
立てた膝に顎を埋めるようにして語り始めたイルーシュカは、ベルクートを見ていない。炎を透かしてもっと遠く、目には映らぬ何かをじっと見つめている。
「都を見てきたおまえにならわかるだろう。王の軍と戦をして、勝てる見込みなどない」
「……そうだな」
だから、とイルーシュカはようやくベルクートを見た。
「チェスカは王に降れと、わたしたちに進言した。王の民となれば、何の被害も出ぬだろうと」
やはりチェスカは王の手下だった。軍を追放されてなお、王への忠誠は捨てていないと、かつて語った通りに。ライルツの暮らしに入り込み、村人の心を揺さぶることで結束を弱め、この草原を王に差し出そうとしている。
チェスカにはずっと、何かがあると感じていた。もっと早くに確証を得られなかった申し訳なさと羞恥で、ベルクートは目を逸らす。踊る炎はそんな態度を諌めるように思えた。
「……すまない、イルーシュカ」
「なぜおまえが謝る」
イルーシュカはひとしきり笑い、次はおまえの番だとばかりに、顎をしゃくった。
「おれには、チェスカが今でも王に従っている理由がよくわからない。ライルツの民が王に
「それだよ、ベルクート。大きな利があるからこそ、チェスカは戻ってきたのだし、村をかき乱しては降伏を勧めるのだと思う……」
想像にすぎないが、と断って、イルーシュカは続ける。濡れた髪が重たげに揺れた。
「チェスカはもとから、この村で暮らして内情を報告するのが任務だったのかもしれない」
ベルクートにはチェスカの気持ちが少しもわからなかった。都は都、ライルツはライルツ。それぞれに良きところがあるだろうに、どうして己の領分を越えてよその土地を欲する王の手駒でいるのか。命を救われる恩を受けた身でありながら、村長を、巫女を裏切るのか。
すまない、イルーシュカ。何度繰り返しても足りるとは思えぬ謝罪はやがて、ため息に溶けた。
「きっとチェスカは、褒美に目が眩んだのだろうよ。それとも、チェスカほどの武芸者をあっさり手放すほど、都には優れた武者が多いのか?」
「いや……」
ベルクートは言いかけ、息を呑む。一般の兵士と比べ、チェスカの腕が相当なものであるということはすぐにわかった。そのチェスカが、もしも、北征の軍を束ねる立場にあったとしたら?
「では……王は、褒美にチェスカをこの地の長にするとでも?」
「可能性の話だ。王に降ったとて、父も母も無事では済むまい。……そうなると、誰がこの地を治める? 都は遠い。誰か名代を置くだろう」
「それが、チェスカ……」
「仮定ばかりの話だがな」
どうだろうな、と答えた声はやけに遠く、隣に座るイルーシュカの眼に映る炎の揺らめきを見ていると、水の中にいるような不思議な浮遊感に捕らわれる。
ライルツの民が王に降ったとして、ルトゥリナとサズンの生命はないだろう。ふたりの長が生きている限り、王がこの地を手にしたとは言えまい。では、では――イルーシュカは? 神に愛された巫女、イルーシュカは?
王が神の力を欲しているというならば、イルーシュカは生かしておくはず。新しき巫女イルーシュカと、そして新しく村長となるチェスカ。
それは、想像するだにおぞましいことだった。商売女と過ごした夜の色が、香りが蘇り、寒さのためではなく身体が震える。
「大丈夫か、ベルクート」
「……ああ」
強く握りしめた拳に、イルーシュカの手がかぶせられた。濡れた身体を拭く布きれの一枚すらなく、乾ききらぬ手は冷え切っていて、赤々と燃える火も凍える心を融かすには至っていない。
チェスカが長となり、イルーシュカを娶りこの地を治める? そんな、神を冒涜する行為が許されるものか。
「イルーシュカ。ライルツの神は……ライルツにしかいないのだな」
「都には、神はいらっしゃらないのか」
「いなかった。少なくともおれには、感じられなかった。……都では神は王なんだそうだ」
「王が神剣を持っているのか?」
「神剣を持っているのはおまえだけだ、イルーシュカ」
母上と神とわたしだ。イルーシュカの笑みを含んだ声が耳をくすぐる。
「なあ、ベルクート」
「なんだ」
「たまに思うんだ。わたしが分不相応な自由を望んだから、こんなことになっているのではないかと。好奇心が王の野心を呼び寄せてしまったのではないかと。……だから、おまえは……おまえの思うままに生きればいい。何にも縛られずに、自由に」
「……イルーシュカは、どうするんだ」
「好きにするさ。こうして、ささやかに家出などしてな」
嵐は勢いを弱めることなく、炭焼き小屋に風雨を叩きつけている。荒ぶる雨、逆巻く風がライルツの神の意志なのだとすれば、イルーシュカとベルクートが今夜この場所で夜を明かすこともまた、神の意志なのだろう。
「……今でも、『鞘』になりたいと思っているのか」
「わからない」
訊かれたらこう答えようと、かねてから用意してあった答えではなく、混じり気のない本心がほろりとこぼれた。触れあった手、イルーシュカの細い指先に力がこもって、かすかに震える。
「……おれに、神託が降りればいいのにと思うこともある」
――そうすれば、イルーシュカは。
ベルクートは黙って目を閉じる。薪の爆ぜる音、嵐の猛り、自らの鼓動までがないまぜになって夜を覆う。
長と『鞘』との間に横たわる、越えられぬ一線を意識したことがベルクートにもあった。
神に選ばれた長は巫女と並び、ライルツの民を束ねる。ライルツの神の力、巫女に触れることが許された唯一の男、それが村長、神の言葉を預かる者だ。『鞘』に神託が降りたことは、未だかつてない。
「雨が長く続けばいいな」
イルーシュカの囁きが耳たぶをくすぐり、ベルクートは両の腕に温かく柔らかな宵闇を閉じ込める。
そしてベルクートは、夢を見た。
大地と空、緑と風、生けるものすべてが円環をなす、不思議な夢を。
嵐の夜から、わずか三日。
チェスカはライルツの神の神託を受けたと宣言し、直ちにサズンとルトゥリナを拘束してライルツの長の名乗りを上げた。時を同じくして村を包囲した王の軍に降ることを表明し、サズンとルトゥリナを殺害、トトカと共に村を脱出したイルーシュカに追っ手を差し向けた。
思うままに生きよと告げたイルーシュカのまっすぐな眼差し、炎を映す白い肌、ベルクートを呼ぶ甘い声。どれもまだ鮮明に思い出せるというのに、ライルツの地の情勢はがらりと変わってしまっていた。
「王は神の力を……巫女を欲しておられる。ベルクート、お前にならイルーシュカも気を許すかもしれん。イルーシュカを探して、何としてでも連れ帰れ」
神託を受けたと、誇らしげにチェスカが長剣を振りかざす。困惑した様子の民らも、王の大軍を前に反論を飲み込んだようだった。サズンとルトゥリナを偲び、チェスカの心変わりを嘆き、草原を埋め尽くすかのような人馬の群れに慄き、肩を寄せ合っている。
呆然と立ち尽くしていたベルクートはチェスカに怒鳴られ、パナを駆ってこの物見の塔にまでやってきたのだった。
どうすればいいのか、その答えも見つけることができぬままに、チェスカの、王の手先と成り下がっている。一方のイルーシュカは平然と、笑みさえ浮かべているのに。
「チェスカは神託が降りたと言っているそうだな」
風に黒髪をなびかせ、イルーシュカは淡々と言った。
「……神託の真偽を判断することは、わたしにはできない。神のみぞ知る、だ」
「……違う、イルーシュカ」
チェスカが神託を受けたなど、真っ赤な嘘だ。ライルツの男でないチェスカに、神託が降りるものか。イルーシュカさえも及ばぬその真実を知るのは、ベルクートただ一人。
「神剣の力は、ライルツの神の力。いくらわたしが神剣を預かった身とはいえ、神の意に背いて力を使うことはできぬ。この力は、この地のためにあるんだ。王のためではない」
そう、そんなこと、ライルツで生まれ育ったならば誰だって知っている。万能ではない神の力を賜った長たちは、ライルツの地の繁栄のためにのみ力を行使することを許されているのだ。
イルーシュカは肩をすくめて頬にかかる髪を払った。背後の空、灰色の雲はまるで重い幕のよう。
「わたしは神剣を携えし巫女。この身が朽ち果てようと、想いは永久にライルツの地とともにある。それだけのことだ……おまえが苦しみ、気に病むことはない。思うままに生きよ、ベルクート」
体重を感じさせない動きで、イルーシュカは物見の塔の縁、転落防止用に石を組んだだけの不安定な足場に立った。黒髪が、髪飾りが風に煽られ、翼のように広がる。右手を差し出すと、青白い閃きが散った。
「……ベルクート。もしも、おまえも同じ想いなら」
雷火をまとう右手が差し伸べられる。空はいよいよ黒く、雨の匂いが満ちる。
「わたしと、空へ還ろう?」
階下へ続く階段が騒がしい。王の兵たちがここを嗅ぎつけたのだろう。
武具が触れあう耳障りな金属音、早口の怒鳴り声。砦を踏み荒らす多くの足音。シュノが肩に舞い降りるや、ベルクートは剣を棄てて駆ける。
大粒の雨が頬を、耳を、腕を打つ。
「おれは、おまえの『鞘』だ! 神剣を護る者だ!」
イルーシュカの稲妻の右手を取る。石を蹴り、ベルクートは飛ぶ。神剣を胸に、高く。
雷鳴が轟く。
閃光がライルツの地を青白く染める。
背に回される腕は嵐の夜と同じ温度。雨に濡れる頬を、袖で拭った。
「泣くな、イルーシュカ」
墨の雨雲を貫いて、緑の草原を切り裂いて、青き雷が天地を疾る。
――ライルツの神鳴りが、世界を断った。
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