第3話 ふたり、神鳴りの(2)

 風が緑野を駆け抜ける。

 ざざざ、と草木がたなびく。遠くへ、遠くへ。

 そのさまはまるで海を見ているようだった。光と風が躍るのに合わせて草原は波打ち、うねり、潮騒にも似たざわめきとともに刻々と色を変えてゆく。ベルクートは草原を見つめているのが好きだった。

 集落の西に位置するサネ山から吹き下ろす風に揺られる草原を、ベルクートは飽きず眺める。サネ山の麓を北側に回り込むと、樵たちの仕事場である常夜の森があり、森を抜けた先に隣の集落がある。四方に草原は広がっている。まさに、海のごとく。

 戦火の日々に倦み、草原での暮らしを選んで都から移り住んだ人々を率いて、獣を育み、木々を養い、山の懐で安住できる礎を作ったのがイルーシュカの祖先だという。神の力はこのライルツの地で授かったというから、巫女の力はまさに、ライルツの神が下されたものなのだろう。

 以降、巫女と神の言葉を賜りし長の下に、ライルツの民は草原に暮らしている。同じく草原に住まう部族はいくつもあるが、頻繁な交流はない。ライルツの地で、自然と共に過ごす。それが代々の選択であり、その暮らしに疑問を抱く者はほとんどいなかった。




 少年たちすべての剣の師でもあるチェスカは、度々「都」と口にする。「この程度、都ならば十の子どもでもこなすぞ」「都の間抜けな役人どもにも見せてやりたいな」などというふうに。

 彼の語る都の暮らしに興味を示す少年たちも少なくなかった。求められるたび、チェスカは都での暮らしを面白おかしく語り、賑わう市場や、色とりどりの料理、若さゆえの失敗の想い出を披露しては、懐かしげに目を細めるのだった。夢見がちな少年たちが心躍らせ、都に行きたいと言い出すまでにそう時間はかからなかった。

 王の兵であったチェスカが軍を追放され、ライルツで暮らし始めたのは、王が北征を目論んで、つまりこの広大な草原を狙っているとの噂がもたらされた頃だった。

 王への忠誠心は変わらぬが、ここの暮らしが気に入った。兵として都に住むことがかなわぬ今、よすがはここにしかない。そう言って移住を願ったチェスカを、村長と巫女は受け入れた。もとより、ライルツの村は来る者を拒まず、去る者を追わない。それが自然のあるべき姿だからだ。

 村の一員として迎えられたチェスカは、明るく朗らかな性格から、すぐに人気者になった。人好きのする容貌に加えて、話術も巧みだった。軍属ゆえに剣の腕も立ち、村一番の武芸者たるバッソを唸らせるほどで、すぐに年頃の少女たちが熱い視線を注ぐようになった。面白くないのは男衆だが、チェスカは気さくながら謙虚な姿勢を崩さず、村での暮らしや馴染みのない風習について男衆に教えを乞い、彼らを立てることを忘れなかったため、つまらない諍いは起こらず、見事というほかはないほど円滑に村に溶け込んだ。

 チェスカは神事にも興味を示した。都にはライルツのような神はなく、何もかもが目新しいのだという。露骨に過ぎた好奇心も、素直に告白されれば村人たちの自尊心をくすぐる文句になった。大仰に感心するチェスカにまとわりついて、子どもたちが神事の細かなしきたりを教えてゆく。

 当然のように、チェスカの興味はルトゥリナやイルーシュカの神秘の力にも及んだ。年長のルトゥリナを捕まえるのはさすがに遠慮が働いたのだろうが、イルーシュカを質問責めにしていた。神とはどんな姿なのか。どこにいるのか。巫女はどんなことができるのか。そのために何をしているのか。幻視の力に驚き、天候の変化を確実に読むことに感嘆し、祭事の華やかな衣装と巫女化粧に見入る。答えるイルーシュカも、チェスカの反応が良いためか、まんざらでもなさそうだった。

 イルーシュカはイルーシュカで都に興味があるものだから、話はたいそう弾んで、人垣ができることもまれではなかった。ベルクートはつとめて興味がない振りをしながら、耳だけはそちらに向けて木剣の素振りを続ける。

 都や王、軍にまつわるチェスカの知識は、ライルツの助けになった。王の軍がやって来たとき、チェスカがいれば……という期待もあったのかもしれない。彼は村人の一人として暮らしに馴染み、村人たちもそれを歓迎した。そんな毎日が続くと、誰もが思っていた。

 風向きが変わったのは、バッソの死がきっかけだった。

 チェスカがライルツで暮らすようになってほどなくして、バッソがしばしば体調を崩すようになった。次第に肌は青白くなり、唇は乾いて色も悪い。目元には隈が浮いて、やがて体を起こしていることさえ難しくなってきた。

 『鞘』として長たちを支え、村の防衛と少年たちの武術の指導を担うバッソの病臥に、皆が心を痛めた。行商人のチグから買った薬を与えても効き目はなく、ルトゥリナとイルーシュカが熱心に快癒を祈ったが、これといった神託は得られなかった。

 都から医師を招いてはどうかというチェスカの提案を、バッソは受け入れなかった。「巫女たちが祈っても神託が得られぬのだ、それが神の思し召しなのだろう」と言って。

 一進一退を繰り返しながら、長い闘病の末にバッソは帰らぬ人となった。ベルクートが十四の誕生日を迎える直前のことだった。

 バッソが亡くなって、『鞘』が空席になった。平和な村でのこと、決して目立つ働きをしたわけではないのに、『鞘』の不在は誰しもを落ち着かなくさせた。王の北征の話もある。不安にさざめく一同に、チェスカは言った。


「私が『鞘』になってはいけませんか?」


 彼からすれば、まっとうな提案だったのだろう。バッソの次に剣の腕がたつフォノンよりチェスカは強かったのだから。けれども、代々の『鞘』だった人物とチェスカはまったく違っていた。容貌も、経歴も、使う剣も。チェスカは村の一員だが、生まれは都だ。余所者で新入り、という意識があったのだろう、長老方が渋ったのを受け、村長サズンは『鞘』を空席のままにする意を表明した。


「皆の不安はわかる。だが、バッソに代わる『鞘』として適任がいない」


 ベルクートは成人もしておらず、フォノンは自分は器ではないと言う。チェスカは、この村の生まれではない。


「『鞘』になるために心がけではなく、生まれ故郷が問われるなんて初耳だ」


 決定に不服そうだったチェスカは、これまでよりも少しばかり大きな声で都の大きさ、強さ、華やかさを語り、ライルツの暮らしと比べるようになった。ごくさりげなく、子どもたちの関心をひく話法で、何度も繰り返し。

 チェスカに対して複雑な感情を抱いていたベルクートと、バッソの闘病を支え続けた母ミシュールだけがそのことに気づいていた。

 チェスカと誰かが話していると、ぴんと張りつめたような、あるいはねっとりとまとわりつくような違和感が伴う。どこがどう、とはっきり言葉にできぬもどかしさに、ベルクートは沈黙を選んだ。ミシュールはそんなベルクートに、小声で打ち明ける。


「あの人は、父さんをよく思っていなかったのよ。そうでなきゃ、お見舞いに来るときにあんなににこにこしていられるはずがないもの」


 やがて、チェスカの不遜な態度は長老方を怒らせるまでになったが、彼は相変わらず人気者で、少年や少女たちからは長老方を責める声もあがるほどだった。

 何だろう。何だろう、これは?

 チェスカを迎え入れたときと、今と。わずか四年で、村の雰囲気はがらりと変わってしまった。誰にも打ち明けられぬ違和感に、ベルクートは怯える。チェスカにだけは悟られまいと、平静を装って稽古を続けた。



 ライルツの少年は十五になると村を出て各地を巡り、見聞を広める習わしだが、少年たちの要望を容れ、村長は少年たちを都へ向かわせる決心をした。正確には、都の様子を探って参りましょうとチェスカが名乗りをあげ、長はそれを認め、少年たちを託したに過ぎない。

 ベルクート自身が都への遊学を望んだわけではないが、わずかばかりの興味があったことは否めない。いつだったか、チグの息子、チサトに言われた、ライルツの外からライルツを見てみるという経験もしてみたかった。ただ、都がどんな場所であろうとも、イルーシュカに力を授けたライルツの神の威光が及ばない地であるのは確かで、それならばチェスカが言うほど素晴らしい場所ではなかろうと、冷めた気分でもあった。

 チェスカは今や、人気者の仮面を被った過激で恐れを知らぬ人物だった。人々が不審を抱きつつも、はっきりと意志表示しなかったのはチェスカが『鞘』のバッソに次ぐ実力者であり、バッソ亡き今、村一番の剣の使い手であるという実績ゆえであった。それはつまり、裏返せば村一番の脅威たりえる、ということに他ならない。

 それでも長はチェスカが都に向かうのを止めなかった。


「私にチェスカを止める権利はない。ここでの暮らしが嫌になればどこへなりとも行く自由はあるのだ」


 しかし、ルトゥリナはベルクートに小声で囁いた。


「チェスカの行い、しかと目に焼きつけてくるのですよ。……ただし、いざという時には、あなたの正義に従いなさい」


 ルトゥリナの不安に曇る眼差しから、ベルクートはチェスカの変化に対する違和感が、村全体を覆う暗雲となっていることに気づいた。

 チェスカは、軍を追放されたと言ってライルツに戻ってきた。村は彼を受け入れた。それだけのことではなかったのか。チェスカにはライルツに戻ってきた目的が、都へ赴く目的があるというのか。

 内通、という言葉が浮かび、弾けて消える。それを確かめるいい機会ではないか。

 ベルクートは巫女の言葉に、ただ黙って頷いた。




 果たして、都での生活は思っていたほど悪くはなかった。

 食べて、剣の稽古をして、眠る。畑仕事や村周辺の見回りなどの日課がないことを除けば、都での毎日は村での毎日と大差ないものだった。拍子抜けした、と言ってもいい。

 かつてチェスカが所属し、賞賛した王の軍隊についてもそうだ。彼らはあくまで市街地や砦、城を攻めることを前提に組織されており、ライルツのような大自然の只中で実力を発揮できるかは疑問だった。

 火薬の力で鉛玉を飛ばす銃という新兵器も、熊をも一撃で仕留めるという殺傷力に偽りはなさそうだったが、風雨の中では使い物にならない。揃いの制服は窮屈で動きにくく、少し剣を使うと汗が蒸れて気持ちが悪かった。軍馬も、村で飼っている農耕馬にさえ劣るほど貧弱で、運動不足であると一目でわかった。これではとても、長距離を駆けることはできまい。

 兵士たちも、体格こそベルクートに勝っていたが、筋力、持久力や瞬発力で後れを取るとは思えなかった。

 ただ、都に住まう少年たちには十二の年から三年間、兵役の義務がある。三年が過ぎても軍に残る者も多く、従って兵の数は多い。聞けば、千、万という単位でいるらしい。広いライルツの草原を攻め、支配するためにどの程度の規模の派兵が行われるのかなど、ベルクートに知らされるはずもなかったが、草原での生活に慣れていないとはいえ、万の兵士に村を囲まれる想像は気分の良いものではなかった。

 けれども、戦の話を脇に置けば、バッソとチェスカの剣しか知らぬ少年たちにとっては、都に多数存在する剣術の流派を見て回るのは刺激的だったし、手合せは楽しかった。型を重視し、美を追求する実践的とは言い難い流派や、人を斬ることを重視した危なげな流派もあった。まったく実りのない日々ではなかったが、ベルクートにはどうしても、チェスカが言うほど、都が素晴らしいところであるとは思えないのだった。

 ベルクートは母に近況を報告する一方で、ルトゥリナに宛ててそのような手紙をしたため、イルーシュカのために髪飾りや透かし模様が美しい手巾などを同封してチグ一家に預けた。

 ただし、手紙には書けなかったこともいくつかある。

 ひとつは、チェスカが兵士とたびたび食事に出かけたこと。もうひとつは、共に村から出てきた少年らに誘われ、女を知ったことだった。

 嘘をつくよりは黙っていた方がましだ、などと適当な言い訳をするも、脳裏に浮かぶイルーシュカは村を出るベルクートを心配そうに見つめるばかりで、商売女の肌の白さも柔らかさも、ろくにベルクートの心には残らなかった。



 都での一年はあっという間に過ぎて、ベルクートらは村に帰った。日の出とともに起きて馬と家畜の世話、畑の見回りと手入れ、狩りと剣の訓練、草原の見回り。壊れた家屋を修理し、雨季と冬季のための備蓄小屋を補強し、農具の手入れをして眠る。

 畑や家畜、自然を相手にする毎日は忙しく、都での日々はすぐに心の片隅に追いやられ、ベルクートは二、三日のうちに村での生活に馴染んだ。雪鷹のシュノも、愛馬パナもベルクートの帰還を喜び、我先にとライルツの草原へと飛び出してゆく。冷たい風は緑と雨の匂いを含み、時に刺すように、時に甘く、植生や風向きによって様子を変えた。光を孕んで影を抱いて流れ、形を変えゆく雲が空をよぎり、鳶が、鷹が、高く鳴きながら空を切ってゆく。

 サネ山の稜線が遠くに見える草原の只中でパナの歩みを止め、ベルクートはぐるりと周囲を見回した。

 きっちりと整理された住宅区画も、精巧かつ重厚な建築も、色鮮やかな天幕の並ぶ市場もない。けれどライルツの地には神が与えた豊かな自然のすべてがあった。

 火照った頬を撫でる風の柔らかさ、空の青さ、緑の海の匂い。静かでいて一時も無音にならぬ空気のざわめきが身体に満ちてゆくようで、ベルクートは大きく伸びをした。

 ――ああ。

 理解とか、納得とか、そんな小賢しい概念ではなくて。

 おれの居場所はここだ。ライルツの神、そして巫女と村長のおそばなのだ。

 生まれたときからっていたその感覚を、今一度確かにしたのだった。


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