第3話 ふたり、神鳴りの(1)

 彼女は凛と立っていた。

 草原の東、物見の塔の最上階。長い黒髪と、額輪から伸びる幾筋もの髪飾りを風になびかせて。

 髪飾りにつけられた鈴がちりちりと鳴っている。

 彼女の背後で、灰色の分厚い雨雲が渦巻きつつ、流れていく。

 彼の心をそっくり取り出して空に並べたかのような天候に、喉の奥が熱くなった。

 彼女は凛と立っている。

 雨雲の向こうで輝いているだろう、太陽のごとき笑みを浮かべて。



「震えているぞ、ベルクート」


 平時と変わらぬ声に、はっと我に返る。その眼は黒のようで、闇ではない。太陽が沈み、夜に染まりきる寸前の、昼の名残を宿した空の色。ベルクートを引きつけてやまない涼やかな視線が、まっすぐに刺さる。


「震えてなどいない」


 もっともっと言い返すべきだと思ったのに、言葉が浮かばなかった。いや、たとえ思いついたとしても、喉がからからで、舌が顎に貼りついているようなこの状態では、ろくに喋ることもできなかったに違いない。一言返すだけで、こめかみに汗が浮かぶ有様だった。

 イルーシュカは三日前までと同じ、平服に風除けの貫頭衣をまとっただけの簡素極まりないいでたちで、腰にくくりつけた短剣にも汚れはなかった。

 戦火を感じさせぬ飄々とした笑みも、ベルクートを見てくすぐったそうに細められる目も、何も変わらないのに。

 どうしてベルクートだけがすっかり変わってしまって、物見の塔でイルーシュカに、忠誠を誓ったあるじに、剣を向けているのだろう。

 ベルクートには何もわからなかった。ただ、奔流としか形容できない機運を、時勢を、茫と眺めているうちに攫われ流され、もはやその流れから抜け出すことも、抗うこともできないのだった。

 すい、と目前を影がよぎる。イルーシュカは目もくれずに唇の端をほころばせた。


「シュノか」


 シュノはベルクートが草原で拾い、育てた雪鷹だ。怪我だらけになりながらも神鳥である雪鷹と友誼を結んだベルクートには嵐のような賞賛が贈られたが、長みずからがベルクートとシュノに触れ、良き風をと祝福を与えてくれたのが何よりの栄誉であったし、シュノとの言葉なき交感の果てに築き上げた揺るぎない絆は、金品に替えられぬものであった。

 彼も、この動乱の行く末を案じている。

 愚行は止せと忠告している。

 ベルクートは冷静だった。イルーシュカに剣を向ける野蛮さも、不埒さも、愚かさも、すべて理解していた。

 同時に、チェスカがつばきを飛ばしながら熱弁する、都ふうの進んだ暮らしぶり、秩序、法、戦術や戦略にも一理あると思っていた。

 だからベルクートは動けない。

 ライルツの巫女を守る『鞘』の息子でありながら、当の巫女に剣を向けるなど、あってはならない。理性ではなく本能が剣を構えることを拒否し、腕を震わせる。

 そう、ベルクートの深くに息づくものは、この豊かな大地を治める長と巫女の力、ひとにあるまじき確かな神秘に触れ、畏れ敬ってきた。生まれたときから、ずっと。

 ライルツの巫女ルトゥリナ。

 神の言葉を賜りし村長サズン。

 姫巫女イルーシュカ。

 彼らは神秘の力でもって、神より与えられた緑なす大地をよく治めていた。民らは巫女と村長の下にまとまり、同じく大地と空の神に祈りを捧げ、二柱の神の狭間で暮らしていた。

 不満はなかった。何も。

 他の民の暮らしを、都人の生活を子細に語り、大仰に懐かしむことでここの暮らしを貶めたのは他でもない、チェスカだ。

 美しく磨かれた珠、鋭い剣、きらびやかな衣服。強い盾や珍しい食材。彼が都から持ち帰った品々に人々は感嘆の声をあげ、地の果てにも等しい都での暮らしに思いを馳せた。

 不満はなかった、ただ少しだけ、平穏すぎたのだ、この地は。

 ベルクートは目を伏せ、幾度めか知れぬため息をつく。

 避けようのない終焉を前にして脳裏に浮かぶのは、世界に光があふれ、まばゆく輝いているようだった幼い頃の――遠い過去のことだった。



 犬っころのようだ、と大人たちは口を揃えて言った。

 そう言われるもやむなし、と苦笑が浮かぶほど、ベルクートとイルーシュカは他の子どもらと一緒に泥だらけになって走り回り、泳ぎ、木に登ったり馬を走らせたりと、一日中山野で遊んだ。

 豊かな緑に覆われたライルツの地は子どもたちの格好の遊び場であり、同時に、大地の民として生き抜くすべを教えてくれる最高の教師でもあった。

 剣や弓、鉾や盾の使い方、馬を巧みに操る方法。野に生き、野に戦う方法。山に眠り、川で過ごす方法。同年代の少年らとともにベルクートは戦士として身につけておくべき一連のことがらを学んだ。

 一方でイルーシュカも巫女としての修行を積み、見事にその能力を目覚めさせるに至った。


「どうして『鞘』というのか、知っているか」


 そう問われたのは、いつだったか。イルーシュカが巫女の修行に入ってからだから、十にはなっていたはずだ。


「昔、ライルツの神の力は、神剣と呼ばれていたんだ。神の剣を守る『鞘』というわけだ」


 知らないと答えたベルクートに、得意げに鼻を鳴らす。では神剣とは何なのだと率直に問うと、イルーシュカは重々しく答えた。


「ライルツの神が天地を統べ、守り育てる力だ。転じれば、敵を蹴散らすことにも使えよう」


 はあ、とベルクートはぼやけた返事をするしかない。巫女の遠見や夢見の力にはたびたび世話になるが、そんな物騒な能力があるとは知らなかった。つまり、それだけライルツは平和だった。


「わたしたち巫女は神に祈る。豊穣と繁栄、平穏、発展など、祈りの項目はたくさんある。小さいものだと、そうだな、明日は祭りだから雨が降りませんように、とかかな」

「祈ると、晴れるのか」


 そうとも、とイルーシュカは頷いた。ひとつに束ねた長い髪が揺れて、鈴が鳴る。


「それでこそ神剣、神の剣を携えし巫女。祈りを届けられずして、巫女たる資格などないさ」

「ふうん。そんなものか」


 ベルクートのいらえがお気に召さなかったらしい。イルーシュカは繊細な蔦模様の刺繍が施された肩掛けを払って立ち上がり、右手を宙に差し伸べた。

 瞼が閉じられたのもほんの半呼吸ほどのこと、イルーシュカが再び夕闇の眼を見開くや、青白く弾ける稲光が細い掌の上に舞った。


「うわっ!」


 飛び退るベルクートに、イルーシュカは稲妻を握りしめた右手を突きだして、にやりと笑って見せた。


「どうだ、これが神剣の力ぞ」


 雷光を呼び招いたイルーシュカは背筋が凍るほど美しく、けれど幼いベルクートには、それは畏怖としか感じられなかった。仕掛けの壊れた玩具のように、ただただ首を振り続ける幼馴染みに、姫巫女は微笑んだ。


「『鞘』を目指していると聞いた。……わたしも、負けてはいられない」


 ただならぬ決意を秘めた言葉通り、イルーシュカは母ルトゥリナについて神の力の扱いを学び、祭祀や儀式の進行を学び、並行して舞や詩、算術や政などの学問にも取り組むことになった。

 次から次へと詰め込まれる膨大な知識に憔悴した様子のイルーシュカも、遠駆けとなるとすぐに顔を輝かせた。しょげかえった顔つきで、付き合えとベルクートを誘いに来ることもあり、是非もなくベルクートは弓矢とえびら、剣を携えて愛馬に鞍をつける。

 巫女の力の不思議は野の獣や草木にも及ぶようで、イルーシュカは鳥獣と意志を交わし、樹木と語らい、草花と笑いあうかの素振りさえも見せた。レニ川の急流も彼女の前では心なしか勢いを弱め、濁らずの淵はいっそう清らかに輝き、常夜の森の木々は恭しく首を垂れる。イルーシュカもまた流れる水に、そよぐ風に、ざわめく梢に敬意を表し、神への謝意を示す儀式的な文言を覚えてからというもの、祈りを絶やすことがなかった。ベルクートは感心するばかりだ。


「このライルツの地が豊かなのは、巫女と長の存在ゆえなんだな」


 当然であることほど、誰も教えてはくれぬもの。ベルクートはそのような意味合いで言ったのだが、イルーシュカはやはり、呆れたような一瞥をくれるばかりだった。


「じゃあ何だと思っていたんだ、ベルクート?」

「何、というわけじゃなくて、ただ……実際に目にするたび、当然のことが新鮮に感じられるんだ。実感する、と言うのかな」

「おまえの言うことは、いつも難しすぎる。我ら神の子は神の恩寵にあずかり、この地に生きる。それだけのことだ」


 何でもないことのようにイルーシュカは言うが、半分ほどが照れ隠しであると、幼馴染みのベルクートにはわかったし、彼女の敬虔な姿勢に強く心惹かれた。また、同じように思う民も多く、次代の巫女であるイルーシュカの成長を見守っていた。

 人々の期待を受けるのは、ベルクートも同じだった。抜きん出て大柄というわけでも、力自慢というわけでもなかったが、ベルクートは手先が器用で身体のばねが利き、馬術や剣術、体術もそつなくこなした。弓や水練にも秀で、身体を動かすことにかけてはおよそ不得手がなく、そういった者に多く見られる粗野なところもなかった。

 『鞘』である父バッソに似て寡黙で――単に口下手だっただけなのだが――忍耐強く、短絡的でもないベルクートもまた、次代の『鞘』と目され、イルーシュカの素質とも相まって、部族の未来は明るいと長老たちは皺に覆われた目をよりいっそう細めるのだった。

 ライルツの地は豊かだが、それは人々の暮らしが楽だという意味ではない。むしろ、乾季と雨季、そして緑の大地が一面の白銀に変わる厳しい冬への備えを考慮すれば、楽であるとは言い難かった。

 もっとも、代々培われてきた生活の知恵が田畑を守っていたし、より多くの実りをもたらすような工夫が日夜なされてもいた。ぬかるんでは乾き、再び緩む土壌に耐えるべく作物は強くなり、虫害は巫女が、まれではあるが外敵は村長と『鞘』が果敢に防いだ。

 子どもたちの健やかな成長を見守るだけの余裕は辛うじてあった。つまり、それは幸せな暮らしだったのだ。

 ベルクートは、思う。

 イルーシュカが神剣を継ぐのなら、おれは彼女を守る『鞘』にならねばならないのだ、と。




 時が流れ、長じるにつれ、ベルクートとイルーシュカの距離は次第に大きくなった。

 イルーシュカが以前ほど頻繁に遠出を求めなくなったこともあったし、ベルクートの武術の稽古が本格化したこともあった。しかし何よりも、分別がつくようになり、互いを意識し始め、遠慮が生まれたから、というのが大きい。

 イルーシュカはあるじであり、ベルクートはしもべである。揺るぎない現実をさておいて、おんなでありおとこであるというより強固な真実が、ふたりに距離を置かせたのだった。

 十二の年、祭りでもないのにイルーシュカが祭典用の豪奢な衣装をまとって神に舞を捧げる、ということがあった。大人たちは訳知り顔で頷くばかりで、誰一人として理由を語ってはくれなかったので、ベルクートをはじめ、同年代の少年たちは憶測を交わすしかなかった。

 きっとイルーシュカは巫女の奥義を会得する準備に入ったのだ。その証拠に、月に一度、外に姿を見せぬ時期があるではないか。あれはきっと、特別の修業ぞ。

 囁き交わす少年らの思いを知ってか知らずか、イルーシュカはより美しくなり、立ち居振る舞いにも落ち着きが見られるようになった。

 彼女は村の娘たちの憧れであり、少年たちの崇拝の的であった。生まれながらにして次代の長のひとりとなることを定められていながらも、少女らと鞠をついたり刺繍に励んだかと思えば、幼子らをあやし、お人形遊びに応じてやるのだった。少しも気取らず、お高くとまったところのないイルーシュカに誰もが親しみを覚え、そのことがベルクートには誇らしかった。イルーシュカの『鞘』になれたら、と思うだけで胸が高鳴り、しかしどうしてか、一方で冷気に首筋を撫でられたような心もとなさをも覚える。イルーシュカの『鞘』に指名されることは最高の誉れ。そんな特別な存在なのに。

 喉の奥に刺さった小骨のようにベルクートを苛立たせる違和感は、やがてはっきりとした感情となった。

 ルトゥリナと並び立つ、ライルツの神が定めた長がサズンだ。長ふたりは神に選ばれし存在、しかし『鞘』は違う。武芸者にして人格者と人々が推し、長が認めたものが『鞘』だ。『鞘』は長を守る大役だが、それゆえ長と並ぶ者ではない。

 村長が巫女にするようには、ベルクートはイルーシュカに接することができない。接してはならない。

 巫女と長と『鞘』。神に選ばれし者とそうではない者の間には、節度や身分、倫というれっきとした隔たりがあるのだ。その理解は、諦念という暴風へと形を変えてベルクートの中の何かをあっけなく壊していった。炉の灰が崩れるように、霜柱を踏み砕くように。

 目の奥が痛むのを忘れるには、ベルクートとイルーシュカを隔てるものを厳格に守り、自らを律し戒め、模範的な『鞘』たらんと研鑽を重ねるのが一番だった。皮肉なことだ、と遠くの方で冷静な自分が嘲笑するのを感じながら。

 イルーシュカの修行が進むにつれ、少年たちは姿勢を正し、早くに起きだして祭壇を清め、神事へ身をもって取り組むようになった。


「どうしてみんな、突然早起きになったんだ? 今までは陽が高くなるまでだらだらしていたのに」


 イルーシュカは首を傾げるが、ベルクートにはその理由が手に取るようにわかった。

 巫女の力は母から娘へと受け継がれてゆくが、神の言葉を賜る男、次代の村長は長の血筋には現れず、神の啓示を受けた者が長としてつ。村の男であれば誰でも啓示を受ける可能性を秘めているが、素行の良くない者に啓示が降りるはずもなく、彼らは一様に品行方正となった、というわけである。

 巫女は女系であり、必ず女児を授かる。男たちは神の啓示を受け、神の言葉を預かって初めて巫女と並び立つ長になるのだ。

 みなそなたに惚れているからだよと、ベルクートは口にしかけて思いとどまる。その躊躇が、イルーシュカに正答をもたらしたらしい。薄く微笑んで、彼女は宵闇の眼を里に向ける。


「……なるほど」


 イルーシュカもまた続く言葉を飲み込んだと気づき、ベルクートは足音を立てぬように半歩下がる。

 魂を分けたふたごのように育ってきたのだ、彼女が何を言いたかったのかくらい、肌で感じ取ることができる。

 ――では、おまえは?

 彼女はそう尋ねたかったのだ。そしてベルクートの答えに怯え、言葉を飲み込んだのだ。

 イルーシュカは正しい。

 尋ねられたならばきっと、ベルクートは本心に背いたことを言っただろうから。

 おれは、『鞘』になると決めたのだ、と。

 その一言がイルーシュカをどれだけ傷つけるか、それさえも我がことのように理解できるがゆえに、ベルクートは言えるのだった。

 おれは、彼女に傷を与えうる唯一の者。

 知っているからこそベルクートは言えるし、しかしそれは厳重に封じておかねばならない衝動だった。

 剃刀の刃のように薄く、同時に甘やかな想いに重石をつけて深みへと沈め、ベルクートはイルーシュカの流れる黒髪を見つめる。


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