第2話 王の使者(2)
男は名をチェスカといった。
チェスカが目覚めたことを報せると、巫女ルトゥリナと村長サズン、バッソら主だった大人たちが集まって事情を聞くことになった。ベルクートは輪に加わることはできなかったが、同じくつまらなそうにしているイルーシュカと隣室に潜み、聞き耳をたてた。あの人を見つけたのだからという、責任感のようなものがあったのだ。もちろん、それを上回る好奇心も。
集まった大人たちとチェスカは互いに名乗り、チェスカはまず、治療の礼を丁重に述べ、自らの所属を明かした。
曰く、自分は都の王の兵である。王は北の辺境に残る、
「私は使者殿を警護する任に就いておりました」
チェスカの声は見かけ通りに若く、張りも艶もあった。詩人の語る、
「では、武装は……」
尋ねたのはフォノンの声だ。彼も最初にチェスカと接触した者として、素性が気になるのだろう。
「使者殿に害を及ぼすものは排除しなければなりません。それが野生動物であっても、物盗りのたぐいであっても。それが私の任務です」
「あなたの王は、この村とも交流を望んでおられる?」
村長の声はいつもと変わらず、穏やかだった。
「はい。私たちはこの辺りを巡る行商人たちから地図を買い、集落を順に訪ねておりました。次はこちらに伺うつもりだったのですが、道中で諍いが起こりまして……」
チェスカらの旅は長く、険しいものだった。故郷を離れてわずかな人数で見知らぬ村落を訪れ、友好を乞うのである。歓待されることもあれば、石を投げられることもあっただろう。王の意に添う結果を持ち帰らねばならぬ重圧もあってか、護衛の一人が体調を崩してしまった。先を急ぐ一行の鬱憤は知らず知らずのうちに、伏せった者へと集中する。やがて、伏せった者の回復を待とうという意見と、先を急ごうという意見の二つに分かれて対立するようになってしまった。
「我々も、訓練を受けた兵です。常時ならばこんな愚かな争いは未然に防がれるのですが……長旅の疲労のためか、皆が少しずつおかしかったのです。やがて、それまでよりも派手な口論が起きました。やはり結論は出なかったのですが、病を得た者が心労のために、首を括ってしまったんです」
大人たちは沈黙を保ち、チェスカの声だけが続いた。
「痛ましいことですが……次は、その死の責任を問うてまた諍いが起こりました。彼を責めすぎたせいではないか、と。それから、遺体をどうするかということや、このまま進むか都に戻るかについても。私たちの中で意志決定権を持つのは使者殿でしたが、我々兵士の気が立っていることに怯えているようで、話し合いでは決着がつきませんでした」
事態は膠着したまま、歩みも止まったまま夜を迎えた一行を、野犬の群れが襲った。統率の取れていない兵たちは立ち向かう者と逃げ出す者に分かれ、大混乱に陥ってしまった。
「私は野犬を追い払ううち、馬も荷物も野営地から失われてしまったことに気づきました。傷を負った馬だけが残され、無傷の馬は逃げ出した者が連れて行ってしまったわけです。その場に残ったのは私を含め、兵が三人と使者殿の四人でした。何とかこちらにたどり着きさえすればという一念で旅を続けたのですが……逃亡した者たちが戻ってきたのです」
「口封じ」
短く、恐ろしい一言を放ったのはバッソだった。寡黙な父の言には、並ならぬ迫力がある。チェスカは頷いたようで、どよめきが伝わってきた。
「私たちが無事に都に帰り着けば、先に逃亡した者は任務放棄した罪人となってしまいます。それを防ぐために、私たちを亡き者にしようとしたのです。その戦いで傷を負い、川辺で意識を失いました……それを、救っていただいたのです」
「周囲には誰もいなかったが。争った形跡もなかった」
フォノンの言葉に、そうですか、とチェスカは重い吐息で答えた。
「私は死んだと思われたのでしょう。それでこうして命拾いしましたが、あと二人の兵と使者殿がどうなったのか、私にはわかりません。形跡がなかったというなら、きっとそういうことなのでしょう」
しばし沈黙が下りた。隣ではイルーシュカが難しい顔をしている。きっと自分もそうなのだろう、とベルクートは他人事のように思った。
「それで、チェスカさん。あなたはどうなさるおつもりですか? 傷が治るまでこちらに逗留なさるも良し、都へ戻ると仰るならそれも良いでしょう」
ルトゥリナの声は優しかったが、普段よりも心持ち、語尾が尖っているように感じられる。どうしてだろうと頭を捻るうち、チェスカの困惑した気配が伝わってきた。
「これ以上のご厚意に甘えるのは申し訳が立ちません。すぐに都に戻ります。使者殿がどうなったのか、調べなければなりませんし」
「では、馬と荷を用意しましょう。ですが、これから長雨が来ます。雨が去るまで、こちらでお休みください」
「雨……? 失礼ですが、どうしてそのような」
「わたくしにはわかるのです。巫女ゆえに」
肩をつつかれ、ベルクートは盗み聞きを中断する。イルーシュカが手振りで、そろそろ行こうと告げていた。音を立てぬよう、表へ出る。ルトゥリナが言ったように、かすかに雨の匂いがした。
「どう思う?」
「どう、って……」
イルーシュカの問いかけに、口ごもる。正直なところ、大人たちの話を聞くのに夢中で、考え事をしている暇がなかったのだ。
「都の王様が仲良くしましょうって言ってきてるってことだろ。こっちがいいよって答えたら、チグさんみたいに、都からの人がたくさん来るのかな」
「都は遠いのだろう。こんなところまで来る人がいるんだろうか」
「そりゃ……わかんないけど」
盗み聞いた会話を思い出してみる。チェスカの明瞭な話しぶりや、護衛たちの諍いのこと。川べりで倒れていたチェスカ。
言いようのない不安が、はっきりと言い表せぬがゆえのもどかしさと混じり合い、もやもやとわだかまる。
黙ったまま不安の原因を探って、結局のところベルクートはチェスカという男そのものに怯えているのだとわかった。突然目の前に現れた、武装した異邦人。敵意はありませんと言う彼を、果たして信じて良いのかどうか。イルーシュカが彼に興味を抱いているのも、すっきりしない。
イルーシュカもまた、眉間に皺を寄せて何やら考え込んでいた。遠見の力を持つ巫女は、人の心の奥まで見通す――チェスカの真意を知ることはできないのだろうか。
何を言っても的外れであるような気がして、ベルクートは黙る。巫女の素質を開花させているイルーシュカがどう感じているのか、それを尋ねるのも軟弱なような気がする。やっぱり、黙っているしかない。
やがて、イルーシュカが内緒話をするように声を潜めて、言った。
「都と行き来ができるようになるのは、わたしは楽しみだけれど」
あぁ、と掠れた同意がこぼれる。ライルツの神に愛された巫女として、移動を制限されているイルーシュカはそうかもしれない。自ら赴かなくても、誰かが訪ねてくれば、退屈も紛れる。好奇心も満たされる。
今のイルーシュカにとって、ライルツは狭いのだ。その気になればどこへでも行けるベルクートとは違って。
「でも……行き来ができれば、危険も増えるだろ。みんながみんな、チグさんみたいにいい人じゃないだろうし。争いに巻き込まれたら、こんな小さな村ひとたまりもないよ」
水を差すようなことはしたくないが、渦巻く不安の一端が言葉に乗る。誰もが父のように、武芸に優れているわけではないのだ。この平和な暮らしを、美しいライルツの草原を、踏み荒らされたくはなかった。
「そのための『鞘』ぞ、ベルクート」
イルーシュカの言葉は、ベルクートの心の一点を確かに射抜いた。
「おまえがライルツを守るんだ。おまえとわたしで。違うか?」
それは、おれに『鞘』になれと言ってるのか。決して言葉にできない問いかけはイルーシュカの微笑みに肯定され、薄暗い不安を断ち切る剣となった。
ベルクートはただ頷く。万感を込めて。
チェスカはすぐに村の暮らしに馴染んだ。都との風習の違いに戸惑いを見せることもあったが、嫌みのない、朗らかな性格と人懐っこい表情はそんなぎこちなさを穏やかな笑いに変えた。子どもたちにもにこやかに、礼儀正しく接したためか、長雨の間にすっかり人気者になっていた。
チェスカの語る都の生活は、確かにこことは全然違っていて、大人も子どもも多くが「行ってみたいね」と頷くほどに魅力的だった。
通りに沿って軒を並べる商店は様々なものを商う。食料から医薬品、衣服や道具、花、武器、書物。金さえ積めば何でも手に入るという。煉瓦造りの学校では教師が子どもたちに勉学や武術、法律、礼儀作法などさまざまなことを教える。絵画や音楽を専門に教える学校もあるそうだ。
城下町には人々が行き交い、チェスカら城の兵士が治安を守っている。広場では芸人が人の輪を作り、詩人が王の治世を言祝ぐ。占い師や手相見の言葉に一喜一憂する若者たち――。
どれも、ライルツにはないものだった。羨ましくないと言えば嘘になるが、それらの喧噪がこの村に必要かと言えばそうでもない気がする。
チェスカの話を聞く輪に加わりながらも、どうしてか彼を腐すようなことばかり考えてしまうし、身を乗り出すようにして聞いている大人たちを醒めた目で見てしまう。要するに、ベルクートはチェスカが苦手だった。イルーシュカが眼をきらきらさせて話に聞き入っているのに気づいてしまうと、いっそう苦みが増す。
警戒していたほど、悪い人物ではなさそうだとは思う。わけもなく人を遠ざけるのはよくないとも。もしも本当に悪人なら、人の気配に敏い父バッソが黙っていまい。
たぶん、とベルクートは思う。おれはこの人に勝てないから、僻んでいるだけだ。
昨日のことだ。
雨が降っていても、素振りの日課は欠かさない。ベルクートが軒下で木剣を振るっていると、チェスカが隣に来て同じように素振りをはじめた。
「私も、このままでは
そう言いつつ剣を振り上げ、振り下ろすその腕の太さ。服をはだけ、露わになった胸板の厚さ。大地を踏みしめる足は大きく、鋼の視線は雨粒を断ちそうなほどに鋭い。
年齢差はあれど、どうあがいても勝てない。剣を合わせるまでもなかった。チェスカは、ベルクートが思い描く道のりのはるか先を歩いている。
それは、父に対する思いとは少々異なっていた。村一番の武芸者であるバッソに勝てない、と思うのには、いつかはその背中に追いつき、追い越してみせるという決意や、武術の師への尊敬がこもっている。けれど、チェスカに感じるのは、まるきり異種の、たとえば飢えた狼や気の立った熊を前にしたときのような、半ば絶望にも似た諦めと恐怖だ。背後を許したくないとまで感じる。
そんなベルクートの怯えには微塵も気づかぬふうに、チェスカはにこにこと笑うのだった。
「君は姿勢がいいし、真面目だからすぐ上達するに違いないよ。お父さん……『鞘』を継ぐんだろう」
「父が『鞘』だからといって、次がおれだとは限りません。皆に認められなければ」
そうか、とチェスカは頷いた。その表情に、年長者の余裕を感じたのも僻みだ。チ
ェスカにとってベルクートは、居候先の子どもにすぎない。意識しすぎているのは、ベルクートの方だ。
そんなこと、わかっている。わかりすぎるほどに。けれど。
――思い出すだけで、鳥肌が立つ。
いてもたってもいられなくなって、口実をつけて家に戻った。炉端で、バッソが茶葉を煎っている。そのあたりだけ、長雨で湿った空気が爽やかにからりと乾いていくようだった。
「父さん、あの……」
目で促され、父の隣に腰を下ろす。茶の香りに包まれ、ちらちらと揺らぐ炎を眺めていると、不思議と心が落ち着いた。
「チェスカさんが言ってた、都と交流するっていう話なんだけど……。散り散りになったチェスカさんたちの代わりに、別のお使いの人が来るの? 来たら、どうなるの?」
あの日、チェスカと大人たちが交わした会話は、ほとんどそのまま子どもたちにも伝えられた。盗み聞きする必要はなかったわけだが、あの時の奇妙な興奮を忘れることはできない。
バッソは、ベルクートの言葉を噛みしめるようにしばらく黙っていたが、やがて
「ベルクート。都の王はどうしてライルツに興味を持ったのだと思う? 父さんも都のことはチグさんに聞いた程度のことしか知らないが、都というのは大変に栄えていて、豊かだそうだ。住んでいる人も多い」
「十万人」
いつだったか、チグに聞いた数字が蘇る。そうだな、とバッソも頷いた。
「ここは小さな集落だ。都に比べるとずっと退屈に違いない。それなのに王はここだけじゃなく、周りの村々にも交流を呼びかけているらしい」
「交流って、仲良くすることでしょう。仲良くするのがだめなの?」
父の言葉に棘を感じて、ベルクートは尋ねる。バッソは薄く微笑んだ。
「ベルクートはそれでいい。でも、王はそれだけではだめなんだ」
「どうして」
「王だからだ。つまり、責任があるからだな」
責任。ベルクートは父の言葉を繰り返し呟く。人々の頂点に立つ者が大きな責任を負わねばならないというのはベルクートにもわかる。バッソの口調が含みを持たせたものだったので、しばし頭を捻った。どう考えても、バッソは王の申し出を歓迎していない。
都から人が来て、都へと人が出て行く。ただそれだけの話ではないのだと、ようやくベルクートは理解した。
ふと、「王が旧い神に興味がおありで」とチェスカが言ったことを思い出した。そのために使者たちがはるばる北の地を旅することになったのだと。これは盗み聞きしたところで、大人たちの説明にはなかったような気がする。
旧い神。ライルツの神のことだろうか。旧い、ということは、新しい神もいるということか。だが、都に神はない、巫女もいないとチグやチサトが言っていなかったか。
王が、ライルツの神、つまりは巫女に興味を示している。神のない都の王が。考えれば考えるほど、穏当な話ではないような気がして、口の中が渋くなる。何一つ確証はないが、嫌な予感で腹が重かった。
「王様は、都になくてここにあるものに興味がある、ってこと?」
バッソは重々しく頷いて、視線を遠くに投げた。
「それよりも……父さんはチェスカのことが心配なんだ。都に帰って、ひどい目に遭わなければいいが」
「あ……」
考えを異にし、チェスカを襲った者のことだ。彼が案じる逆の場合も十分にありうるのだ。つまり、裏切者たちが先に都に帰還し、己に都合のいいように報告すれば、チェスカは任務放棄で罰せられてしまう。
それでも、彼は帰ると言った。それがどんな心の動きによるものだとしても、並大抵の覚悟で言えることではない。任務への、彼が所属する軍への、彼の王への忠誠と熱意は、ベルクートにもよくわかる。
チェスカに抱いていた苦手意識が、ようやく少しだけ和らいだ気がした。
「別の使者が来るかどうかは、その時になってみないとわからないな」
恐らく来るだろう、とベルクートは思う。そして、その使者はチェスカを伴ってはいない。
すっきりしない気分で、しゅんしゅんと湯気を立てる土瓶を見つめる。嫌な予感が徐々に膨らんでゆくのを、茶で飲み下した。
チェスカが去ってしばらくして、王の使者を名乗る一行が村を訪れた。もちろんチェスカの姿はない。
一行は村長の館に案内されたため、ベルクートもイルーシュカも盗み聞きを断念せざるを得なかった。大部屋に布で間仕切りをしたベルクートの家と違って、村長の家は壁が立てられているのだ。
翌日には使者は村を発ったが、どんな話をしたのか子どもたちに説明はなく、けれども説明がないということが、ことの重大さを雄弁に物語っていた。
身を硬くし、息を潜めて様子を窺うようにしていたのも数日のこと。何の変化もない毎日に、まず子どもたちの緊張が緩んだ。一月が経ち、二月が過ぎ、やがて大人たちにも笑顔が戻った。
そのまま、王の使者のことなど誰もが忘れて日々が流れた。雨が降り風が吹いて、木々が赤く色づき、雪が舞い散った。凍った土の下から新芽が顔を出し、春の風が海からやってきて、草原が息を吹き返したかのように鮮やかに輝く。
野草を摘んだ帰り道、シュノが甲高く鳴いて、注意を促した。
何事かと周囲を見回したベルクートの目が、近づく騎影を捉える。草原を駆ける馬上にあるのは、金髪の逞しい男。
ベルクートは思わず大きく手を振って――そうした自分に驚いた。
馬上の人影が、手を振り返している。疾駆する馬の足音と風に負けぬよう、口に手を添えて、叫ぶ。
「チェスカ!」
春の陽射しに金の髪をきらめかせ、旅塵に汚れた頬が笑みを浮かべた。
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