第2話 王の使者(1)

 ライルツはいいところだ、風が違う、とチグは目を細める。

 行商人の彼がこう言うのは今回が初めてではなく、むしろ村を訪れるたびに口にするのだが、嫌な気はしない。

 当然だろ、とベルクートは内心で呟いた。

 ライルツの地には神が住まう。

 陽の光、草原を渡る風、清らかな水、空と大地に住まう神は万物に宿ってライルツの繁栄を見守っているのだ。村長と巫女は毎日の祈りと供物を欠かさないし、村人の誰もがつつがなく日々を生きられることを感謝する。よそには別の神があろうが、ライルツの神がいちばんだ、とベルクートは思っていた。

 荷馬車とともに様々な土地を巡って商いを続けるチグ一家は各地の情勢に明るい。ベルクートとそう歳の変わらぬ末っ子のチサトでさえもそうだ。荷馬車で生まれ、旅路に育ったことを誇らしげに語る彼もまた、ライルツの地はよそとは違う、と神妙な顔をするのだった。


「神さまのいない土地って知ってるか、ベルクート」

「そんなところがあるの」

「大きくて人がたくさん住んでる街には大抵いないもんだ……都とかさ。ここみたいに神さまの力が強い場所なんて、そうはないぜ」


 チサトが兄貴風を吹かせて乱暴な口調で言うのに、ふーんと曖昧に頷く。はるか東の海岸線をずっと南に下ったところにある「都」はここライルツから馬を飛ばしても十日以上かかるという。ライルツの地を離れたことのないベルクートにとっては地の果てにも等しい場所だった。

 大人たちが集まる火の側では、村長サズンと巫女のルトゥリナが、チグともう一人の客人である縮れ髪の詩人に酌をしている。何を話しているのかは聞こえないが、焚き火のせいだけでなく人々の顔には赤みが差し、和やかな雰囲気だった。

 チグ一家が訪れる日だけは、子どもたちも夜更かしを許されている。ベルクートは眠気に負けじと奥歯を噛んであくびをこらえながら、チサトに問うた。


「……神さまがいないなら、巫女は何をするの」


 自然と、視線は大人たちの輪の外れに向かう。チサトの姉、チトセと顔をくっつけるようにして話していたイルーシュカがぱっとこちらを振り向き、小さく手を振った。手を振り返すのも気恥ずかしく、顎を引くようにして頷く。こちらを向いて意味ありげに唇を吊り上げたチトセに促され、彼女はまたおしゃべりへと戻った。


「何って。神さまがいないんだから、巫女だっていないよ。必要ないだろ。それにさ」


 勿体をつけるように、チサトは一度言葉を切った。


「……イルーシュカみたいな子は、他に見たことない」

「そりゃ、ライルツの巫女だもん」


 チサトは何かを言いかけて止めるというのを何度か繰り返し、やがて諦めたように焚き火に照らされてのっぺりと厚みを失った夜空を見上げた。


「ベルクート、おまえ、大きくなったら一度よその土地にも行ってみろよ。そうすりゃきっと、俺の言ったこともわかるからさ。ライルツは確かにいいところだけど、他を見たからわかる良さっていうのもあるだろ」

「……うん」


 ベルクートもチサトにならって空を見上げる。ライルツに生まれた男子は十五の歳に村を離れ、他所の土地を見て回る旅に出る習わしだ。だが、今のベルクートにとっては十五になるということも、ライルツを離れるということもあまりに漠然としていて、想像すらできないのだった。

 だからベルクートにとって、遠くの町の様子を報せてくれるチグ一家や吟遊詩人たちは、村の長老たちと並んで尊敬すべき知恵者だ。彼らがライルツの神を、ライルツの地を讃えるのは誇らしく、くすぐったい気持ちになる。同時に、「外の世界」と呼んで差し支えないような、ライルツ以外の土地はいったいどんなところなのだろうか、神さまのいない土地がどんな様子であるのか、興味は尽きなかった。

 わあっ、と焚き火の周りで歓声が上がる。まばらな拍手と、竪琴の音色が続いた。見れば、手押し車に乗せられた酒樽が開封されたところだった。

 チグ一家が旅路の無事と商売の成功を祈って神に酒を捧げ、詩人が歓待の礼にと竪琴を爪弾きながら物語り、神を讃えて歌う、宴がいちばん盛り上がる時間だ。

 酒は祭壇に捧げられ、大人たちがお下がりを少しずつ味わう。詩人の竪琴と歌声が夜の気配を押しのけて朗々と響きわたった。

 酒とともに配られる揚げ菓子をつまもうと、ベルクートはチサトとともに大人の輪に加わった。ふと気になって、赤い頬をつやつやとてからせたチグの袖を引く。


「チグさんはライルツの人じゃないのに、ライルツの神さまにお酒をあげるの?」


 首を傾げるベルクートに、チグは細い目をいっそう細めて笑った。


「そうともさ。ライルツのように、神さまがおわす土地は他にもいくつかあるがね、土地の神さまっていうのは大事にしなきゃならん。おじさんの商売がうまくいってるのも、きっと神さまのおかげなんだからさ。おじさんは商人だから感謝の気持ちにお酒や食べものを供える。そっちの詩人殿は歌を歌うのが商売だから、歌を捧げるってことさね」

「……じゃあさ、神さまのいない土地では何に感謝するの?」


 チグは面食らったように言葉を飲み込み、縮れ髪の詩人と顔を見合わせて苦笑した。


「坊やは利口だね」


 詩人は柔和に微笑む。馬鹿にされたようで面白くないが、ここで拗ねたり膨れたりするほど、ベルクートは子どもではなかった。来月には十になって、短刀を授かるのだ。引く弓もずいぶんつよいものになったし、馬だって自在に乗りこなす。短刀を授かればライルツでは一人前の男、髪も断つし、刺青も入れる。坊やなどと呼ばれるのも今だけだ。


「ベルクートはバッソさんの自慢の息子だからな。バッソさんてわかるかい、ほら、あの、『鞘』の……」

「ああ、ライルツの巫女をお守りする……なるほど、言われれば目鼻立ちがそっくりだ。これは将来が楽しみだな」


 不満を表情に出したつもりはないのに、チグはベルクートを見下ろしてすまんすまんと手のひらを立てた。


「ベルクート、神さまのいない土地にはな、神さまがいなくとも人々がうまく暮らしていけるような仕組みがあるんだ。ライルツにだって法はあるだろ? その仕組みがもっともっと複雑なんだよ。おじさんたちもその法に従って商売をするから、感謝するとしたらその法に、だな。ただ、法は神さまと違って人が定めたものだから、お酒は嗜まないなぁ」


 チグが話してくれたところによると、都にも神はおらず、長の定めた仕組みに従って多くの人々が暮らしているのだそうだ。都で暮らす人々は万とも十万とも言われていて、その数の大きさにベルクートは目を丸くする。


「じゅうまん」


 この手の指を何度折って開いたら、十万という数を数え上げることができるのだろう。この村に住んでいるのは百家族にも満たないが、それでも諍いや事故、病気を絶やすことはできないというのに、十万も人間がいればさぞかし長は大変だろう。


「……おれ、ライルツに生まれて良かった」


 ため息とともにこぼれた言葉に、チグも詩人も腹を抱えて笑った。どうにも面白くない。


「そりゃそうだ。ここほど恵まれた土地は滅多にあるもんじゃないよ」

「疫病も飢饉もとんと聞かないからね。……坊や、『鞘』になったらしっかり巫女さまをお守りするんだよ」

「うん」


 ベルクートは頷く。

 ライルツの神が力を授けたもうた巫女。人の輪の外れでにこにこしながら揚げ菓子を口に運んでいる、イルーシュカ。三日違いで生まれたかの人こそ、ベルクートの運命だった。



 チグと詩人に檄を飛ばされてからというもの、ベルクートはますます熱心に稽古に打ち込んだ。武術だけではない、空の様子や風の具合から天候を読むすべ、目印のない草原の只中にあって、星の位置から方角を割り出すすべ、獣を遠ざけつつ野営するすべ、食用となる木の実、茸、野草の知識、薬草学や応急手当、学ぶことはたくさんあって、だというのに時間は容赦なく過ぎてゆく。歯がゆさに眠れぬ夜を過ごすこともあった。

 誕生日を迎えたベルクートは髪を断ち、右の二の腕と手の甲にライルツの男である証の刺青を施した。飛び上がるほど痛かったが、涙はこらえた。刺青師の婆が「バッソもそんなふうであったわ」とにやにや笑っていたのだけが、何だか気にくわない。



 草原で生きるすべは、遊びに交えて学ぶ。生活のすべと遊びが近しいところにあるからだ。水練も、魚釣りも、ものにしなければライルツでは生きてゆけない。森遊びから狩りに至るまで、子どもたちは遊びながら草原での暮らし方を身につけてゆく。

 もとより、刺すような陽射しが降り注ぐ夏晴れに三日もさらされていれば、誰ともなく川へ行こうと言い出すのが常で、水を苦手とする子どもはライルツにはいなかった。

 レニ川はライルツの草原を東西に流れ、東の果てで海に注ぐ。どれだけ激しく雨が降っても不思議と澄んだ水が流れる一帯は濁らずの淵と呼ばれ、魚を獲る格好の場所だった。


「遠くへ行っちゃだめよ!」


 子どもたちを率いて声を張り上げるニーヤはつい先日、十五の誕生日を迎えて成人の儀を済ませたばかりで、それまでは子どもらの側にいたのだから威厳がない。隙あらばと悪巧みをする悪童らに睨みを利かせるのが髭もじゃのフォノン、バッソに次ぐ武芸者だった。

 年少の子らが水しぶきをあげてきゃっきゃと騒いでいるのを後目に、ベルクートは泳いで上流の岩場に向かう。水流が速く、複雑に絡み合う岩場は、水中で姿勢を保つことも難しいが、流れの穏やかなところでは見られない魚や貝を獲ることができる。

 川の深さはさほどでもないが、気を抜くと流れに持って行かれてしまう。呼吸を落ち着け、慎重に岩を蹴って水中を進んだ。

 瞬間、違和感に体をすくめる。

 一見、何もおかしなことはなかった。いつもと同じくぐもった水音、息を潜める貝。――だが、魚の様子が変だ。

 ベルクートは岩に手を添えて水中を窺い、やがて川底近くに沈む細長いものを見つけた。幅はベルクートの手のひらほどだろうか、単なる棒ではなさそうだ。川底の石に引っかかっているようだが、上流から流されてきた木切れには見えない。人工物だ。

 一度水面に浮かんでどうすべきか考えていると、長い髪を団子状に結ったイルーシュカが川下からやってきた。


「どうした、ベルクート」


 ライルツの神に愛された巫女でありながら、男勝りで負けず嫌いな一面も併せ持つイルーシュカは、ベルクートを追ってきたらしい。

 十の誕生日を境に、イルーシュカはライルツの巫女となるべく修行に入り、毎朝の勤めをこなすようになった。自然、ベルクートら他の子どもらと過ごす時間は減っていたが、修行の合間にはかつてと同じく、こうして野山を駆け回っている。

 これまでのイルーシュカと、巫女の修行に入った今のイルーシュカと、何も変わらないはずなのに、どうしようもなく焦燥感にかられることがある。表情や仕草のひとつひとつが艶っぽく見え、それに比べて自分は……と、頭を抱えたくなるのだ。


「底に何かある。見てくる」


 焦りをイルーシュカに見せることほど格好悪いことはない気がして平静を装うのだが、それすらも見抜かれているのではないかと、胸が騒ぐ。

 少女から目を逸らして、流れの速い川に再び潜った。やはり、棒のようなものが川底にある。手が届くほどに近づいて、ベルクートはぎょっとした。

 これは、剣だ。

 鞘に触れると、剣はやすやすとベルクートの手に収まった。錆もぬめりもなく、この剣が川底に落ちてきてからそう長い時間は経っていないようだが、何故剣が川底に、という疑問の答えはない。

 長く、反りはない直剣で、鞘の意匠もベルクートの知らぬものだった。ライルツをはじめ、近辺の集落では反りのあるもう少し短めの刀が使われているから、持ち主は遠方の者なのだろう。物知りなチサトなら何かわかるかもしれないのに、と歯噛みする。

 息が続かなくなってきたので、ベルクートは剣を持って水面に浮かんだ。イルーシュカが目を丸くする。


「剣?」

「そうみたいだ。でも、こんなの見たことない」


 イルーシュカが何かを確かめるように剣の鞘に触れ、弾かれたように「あっち」と岩場の陰を指さした。


「何かいる」

「……おれが見てくる」


 ライルツの神は遠見の力、夢見の力を巫女に授けるというが、こうもはっきりと神託が下るものなのだろうか。尊敬というよりは畏怖に近い心持ちで、ベルクートは川から上がって岩場を回り込み、指さされた岩陰へ向かう。

 何かある、ではなく、何かいる、とイルーシュカは言った。剣の持ち主だろうか、それとも家畜か野生動物か。

 濡れそぼつ身もそのままに、岩場の向こうを覗き見たベルクートは喉を鳴らして唾を飲んだ。


「……イルーシュカ」


 同じように首を突き出したイルーシュカもまた、身体を硬くする。

 岩場の陰には、金色の髪の大柄な男が、血にまみれて伏せっていた。



 ベルクートとイルーシュカの報せを携えたニーヤが村まで駆け、現場に残ったフォノンが男の怪我を確かめ、応急処置を施した。


「傷は深いが、死ぬような怪我ではない」


 フォノンを手伝ったベルクートとイルーシュカは、揃って安堵の息をつく。


「どこから来たのだろうな」


 イルーシュカが首を傾げている。好奇心むき出しで男の姿に見入っており、濡れた衣が張りつく背からベルクートは視線をひきはがした。

 草原で暮らす部族には黒髪の者が多い。手や足に部族を示す刺青がなく、金の髪で彫りの深い顔立ちとなれば、遠方からやってきたに違いなかった。

 それに、男の出で立ちはおよそ草原で暮らすには不向きだった。肩と胸に金属板が縫い込まれた厚手の上着と革の長靴で――どう見ても戦装束である。


「近くで戦があったとは聞いておらんがな……この直剣、都のものではないだろうか」


 フォノンの顔は険しい。

 汚れを拭うと、男がまだ若く、ベルクートの兄と言っても通ずる年頃であるとわかった。鼻筋はすらりと通って高く、手も足も骨太で筋肉がよろい、がっしりしている。

 ベルクートはフォノンに言いつけられて周囲を探索に出たが、男の仲間や野営の跡、戦の跡、男が乗っていただろう馬を見つけることはできなかった。


「シュノを連れてくればよかった……」


 川遊びをするとあって、雪鷹のシュノは連れてこなかった。シュノがいれば上空から偵察してもらうこともできただろうに、とベルクートはうなだれる。


「彼が単独でこの辺りにいたとは考えにくい。傷は刃物によるものだから、戦か、何らかの争いがあったはずだ。ベルクート、気は抜くな。イルーシュカは何かえたらすぐ教えてくれ」


 フォノンの緊張にあてられ、ベルクートもイルーシュカも神妙に頷いたが、結局その場では何も起こらず、男が誰なのか、どこから来たのか、何をしていたのかなど、一切は不明のままだった。

 やがて、ニーヤの案内で到着した村長とベルクートの父バッソ、数人の男衆が協議の末に、村に男を連れ帰ると決めてからも、大人たちは揃って渋い顔をしていた。

 見かけない男が戦装束で川にいた、しかも手傷を負って――それはライルツが戦に巻き込まれる可能性を示唆しており、どのような由あっての戦であれ、このような小規模な村落が不利であることには変わりなかったからだ。

 村長は寄り合いを開き、男の処遇を決めた。まず意識が戻り、体調が回復するまで面倒を見ること。会話ができるようになり次第、男の所属と目的、川にいた理由を明らかにすること。その後のことは、男の意志を汲んで決定すること。

 男の戦装束が、大人たちを神経質にしているようだった。彼がどこで、誰を相手にした戦に参じていようと、村がその戦の余波を被るのは好ましくない。戦とはとんと無縁であったこの村が、どれほど非力であるかはベルクートにもわかる。いくらライルツの神がおわし、巫女がいて、『鞘』がいるといっても、経験不足は否めないし、老人や女子どもも多い。男衆だけで村を守れるとは思えなかった。

 武人であろう男に対抗できるよう、という理由で、彼は『鞘』たるバッソの、つまりはベルクートの家で治療を受けることになった。出歩くたびに、好奇心を露わにした子どもたちに質問攻めにあったが、眠り続ける男について話せることはあまりなく、大人たちのぴりぴりした雰囲気もあって、次第に質問の雨も止んだ。

 板間に正座して、ベルクートは眠る男を見つめる。

 大柄で威圧感があるが、父バッソの大樹を思わせる体躯とは対照的に、猫や狐といった動物の躍動感を感じさせる体つきで、自らのひょろりと伸びた手足と見比べて、ベルクートはため息をつく。どちらがどう、と比べることさえ可笑しかった。大人と子ども。厳然たる事実に打ちのめされる。

 金髪は短く整えられて、粗野な印象はなかった。高い鼻、彫りの深い顔だちは、行商人のチグ一家と共に村を訪れる詩人を思わせる。平たく言えば、女たちが放っておかないような整った容貌であった。

 ベルクートが憂うのは、戦の危機よりもイルーシュカのことだ。食い入るように――憧れの眼差しで見つめていた彼女。男の何がイルーシュカの気を引いたのか、考えたくはなかった。彼は、ライルツの外からやってきた大人なのだ。それだけで十分だった。

 この人は、とベルクートは無理やりに考えを逸らす。傷が治ったらここを去って、元いた所へ戻るのだろうか。戻るのだとしたら、女の二、三人は一緒に行くなどと言い出しかねない。

 ライルツに暮らす人々も、ゆるやかに流れている。半分ほどは一生をライルツで過ごし、もう半分はきっかけを得て村を離れる。そして村を離れたうちの幾人かが、再び戻ってくる。

 同じように、よそからやってきて、ライルツに住み着く者もいた。ベルクートの母、ミシュールがそうだ。南方で生まれた母は都の戦に巻き込まれて故郷を失い、命からがら逃げてきたのだ。そのような人々を、村では拒まず、また去る者を追うこともしない。移動が許されていないのは、巫女だけだ。ライルツの神の力を授かった、村のかなめ。

 ――けれど、イルーシュカはどうだ。

 三日違いで生まれてずっと、一緒にいた。草原を駆け、棒きれを振り回し、祭事の炎にうっとりと見惚れた。同い年の、次代の巫女。

 イルーシュカは村で一生を過ごす。神に愛され、神の力を授かった巫女なのだから。なのにベルクートは、イルーシュカが繋いだ手をふりほどいて遠くに行ってしまう想像に取り憑かれていた。奔放な彼女ならば、しきたりも習わしもすべて放り出して、飛び立つことを厭わないのではないか。いや、むしろ望んでいるのではないか。

 実際にイルーシュカが外に行きたいと言ったことはないし、そんなはずはないとわかっていても、心のざわめきを静めることができない。雪鷹のように軽やかに飛び去ってしまうのではないか、この異邦人が連れ去ってしまうのではないか。想像はどこまでも広がって、焦りと苛立ちを生む。

 チサトは、ライルツの地やイルーシュカのことを「他にはない、見たことがない」と言う。ベルクートも同じ思いだ。ライルツしか知らないけれど、イルーシュカは他の子どもとは全く違っている。その「違い」が前例のないことをする、というふうに働いてしまったらと思うと、いてもたってもいられなくなる。

 どうにも落ち着かずに足をもぞもぞさせていると、布団に横たわる男が小さく呻き、身じろぎした。閉ざされていた瞼が、ゆっくり持ち上がる。潤んだ鋼の色の眼に見つめられ、鳥肌がたった。


「……ここは」

「ら、ライルツの……」


 そうか、と男は吐息とともに呟いて、一度目を閉じた。再び現れた灰色の視線は幾分か力を取り戻していて、人懐っこく和む。


「誰か、大人の人はいるかな」

「呼んできます」


 ベルクートは立ち上がり、両親を捜して表に出た。わけもない心細さに、拳を固く握る。


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