ふたり、神鳴りの
凪野基
第1話 雪鷹
兎にしては小さく、鼠にしては大きいその毛玉の風下に回り込み、ベルクートは息を詰めて様子を窺う。
三十数えても、毛玉が逃げ出す気配はなかった。姿勢を低く保ち、ゆっくりと足を進める。
下生えは春の陽に喜びの緑に輝き、すり減った
日々、春の恵みを満喫しているベルクートだが、今に限っては陽射しの色も、大地のまるみも風の香りも知覚の外にあった。教わったばかりの狩りの心得が耳に蘇り、獲物を前にした高揚が心臓を高鳴らせる。一人で獲物を得たとなると、皆が驚くに違いない。
逃がしてなるものか。手柄を求める獰猛な気分は、初めて味わうものだった。焦燥と切り離せぬそれを、唇を舐めて宥める。
手を伸ばせば触れられる距離にまで近づいても、毛玉は動かなかった。もしかするともう死んでいるのか、それとも生き物ですらないのか。ベルクートは腹に溜めた息をゆるゆると吐きながら、毛玉に手を伸ばす。触れると、かすかに震えた。
想像していたよりも毛足の短いそれは、鳥の雛であるらしかった。外傷は見あたらないが、両の手のひらにすくい上げても、身じろぎさえしない。狩人の高ぶりはいつしか、このか弱き雛を死なせてはならぬという真逆の心持ちに姿を変えていた。手ぬぐいで雛を包み、帯を緩めて懐に納める。
蓬どころではない。ベルクートは衣の上から雛を撫で、村に向けて駆け出した。
家に駆け戻るや、ベルクートは炉端で温石をこしらえた。大人たちに説明する時間を惜しんでのことだが、炊事場で青菜の泥を落としていた母ミシュールがすっ飛んできた。普段は大らかで理解のあるミシュールも、ベルクートのただならぬ様子には黙っていられなかったらしい。
「ベルクート、どうしたの」
「鳥の雛を拾ったんだ。よくわかんないけど、すごく弱ってて」
言いつつ、布でくるんだ温石を懐へしまいこむ。暖かい春の日のこと、温石を抱えるとじんわりと汗が滲むが、白い雛のことを思えばどうということはなかった。
ミシュールはへえ、と顎に手をやって、春の訪れとともに仕舞い込んだベルクートの綿入れを引っ張り出してくれた。
「これでくるんでやるといいわ」
ベルクートは頷き、懐から温石と手ぬぐいを取り出して綿入れにくるみ直した。
「鷹だろうとは思うけど、白い雛って、見ないわね……」
「鷹の雛が草っぱらに落ちてるわけがないよ」
自力で羽ばたくことさえできない雛が、どうして草原にいたのか。ベルクートには知る由もない。
「母さん、巫女さまを呼んでくるから、見ていてあげなさいな」
「うん……ありがとう」
草履をつっかけ、ミシュールが駆けてゆく。村の巫女、ライルツの神に愛されたルトゥリナならば、雛を助けられるかもしれないし、この雛の正体も知っているかもしれない。ベルクートは期待を込めて、紺色の綿入れにくるまれた白い雛を見つめる。ぴくりとも動かない。
白い羽毛に触れたいのをこらえ、母の帰りを待った。
「何だ、何があったんだ」
ミシュールと入れ替わるように、父バッソが戸口から顔を覗かせる。村の少年たちに武術の稽古をつける時間だから、大慌てで帰ってきたベルクートか、走り去ったミシュールを見かけて戻ってきたに違いなかった。
蓬を採りに行く途中で雛を見つけたのだと、綿入れを指し示す。興味を持ったのか、バッソは沓を脱いで上がってきて、白い雛を見るなりはっと表情を強張らせた。
村一番の武芸者であり、巫女の『鞘』たる父がこれほどまでに驚くのを、ベルクートは初めて見た。
「何か、知ってるの……?」
「知ってるも何も」
バッソは首を振る。再びベルクートに戻した視線には、いつもの冷静さが感じられた。
「雪鷹じゃないか、こいつは」
ゆきたか。ベルクートはただ、父の言葉を繰り返す。
雪鷹はライルツの草原に住まう鷹の一種で、その名の通り雪のように白い。風切羽には雪雲を思わせる灰色が混じり、刷毛で一撫でしたかのごとき青灰が尾を彩る。影となって空を染め抜く翼は力強く、扇形に広がる尾は優美そのもの。
ライルツの神の使いとして巫女を訪れる雪鷹は、ベルクートらにとっては身近ではあるが、親しむ存在ではない。神鳥であるから、生態を調べようなどと不届きなことが為された過去はなく、巣の在処などは誰も知らなかった。
その、雪鷹の雛がベルクートの綿入れにくるまっている。にわかには信じられない。
「白い鳥の雛なんて、そうはいないだろう」
「でも……親鳥は見あたらなかったし、巣もなかったよ。どこからどうやって草原に来たの」
ふむ、とバッソは息をついた。ふと真面目な顔になり、何か言いかけたところへ、ルトゥリナを伴ったミシュールが戻ってきた。二人を押し退けるようにして駆け込んできたのはルトゥリナの娘、イルーシュカだ。
「見せて!」
ベルクートが場所を譲ると、イルーシュカは興奮に目を輝かせながら綿入れにかがみ込んだ。
イルーシュカは次代の巫女ということもあってか、同い年であるに関わらず口調も物腰も大人びているのだが、こんなふうに鳥の雛に興味を示すところを見ると、自分と何も違わないのだと安心する。
「雪鷹?」
イルーシュカが首を傾げるのに頷くのも躊躇われ、傍らの父を見上げる。視線を受けて、バッソは頷いた。
「恐らくは」
「何かわかりそう?」
ミシュールがルトゥリナの肘をつつく。ルトゥリナは間口で足を止め、視線だけをこちらに向け、目には見えない何かを
「だめ。雪鷹の雛であることは間違いないけど、他のことは何も視えないわ」
ライルツの神に愛された巫女は人にあらざる力をふるう。ここではないどこかを見る、幻視もその一つだ。
その素質がイルーシュカにもあると知ってから、幼馴染みに向けるものとは少々違った想いをベルクートは抱いている。それが何であるのか、はっきりと言葉にはできないけれども、イルーシュカが遠くに感じられるような、そしてその遠さを尊重しなければならないような。漠然としているものの、その想いはベルクートの芯だった。
「ルトゥリナに視えないなら、どうしようもないな」
バッソが言って、綿入れの雛をのぞき込んだ。
「きっとお誕生日の贈り物だ」
「誕生日は一月も前だよ。去年も一昨年も何もなかったし、どうして今年だけ贈り物なのさ。だいたい、贈り物って誰から」
「ライルツの神さま」
イルーシュカの声は明るく、だというのに有無を言わせぬ力強さがあった。イルーシュカが神さまというなら、この雛は本当にライルツの神が遣わしたものではないか。そんなふうに納得しかけるほど、イルーシュカの眼は確信にきらめいて、まるで明星を浮かべた夜明け前の空のようだった。
何も言えず、ベルクートは唾を飲んで雛とイルーシュカを交互に見つめる。
どうして僕に。なぜ雪鷹を。こいつをどうしろっていうんだ?
疑問は次々に兆したが、どれひとつとして声に乗せることはできなかった。
「ねえ、ベルクート」
沈黙を破ったのはルトゥリナだった。はい、とベルクートは居住まいを正す。
「イルーシュカの言ったこと、それほど的外れじゃないんじゃないかしら。そうでなきゃ、雪鷹の雛が草原にいた説明がつかないもの。あなたがこの子を育てて大きくすることに、何か意味があるんだと思うわ」
「僕が……育てるの、雪鷹を?」
近隣の村には鷹匠がいると聞いたことがある。鷹が勇敢で賢い鳥だということも知っている。鷹匠になるならば、それもいい。けれど、雪鷹はライルツの神の鳥。ただの子どもにすぎないベルクートが関わってよい存在ではないだろうに。
雛がふるりと羽を震わせた。か弱い声で、ぴぃぴぃと鳴く。鳴き声はひよことそう変わらず、ベルクートの保護欲を揺さぶり、なぎ倒すには十分な愛らしさだった。
ぱっちり開いた目は漆黒で虹彩は冬空の薄青。まっすぐにベルクートを見上げて、嘴をぱくぱくさせる。
床を蹴るようにして立ち上がったのは、イルーシュカと同時だった。
「餌、もらってくる!」
競争するように、鶏小屋へと走った。
雛はすくすくと大きくなった。成長するにつれて賢くなり、気性は激しさを増した。野性を失ってはいけないと鷹匠を招いて教えを乞うも、雛は自分の力で羽ばたき飛ぶことを覚え、草原での狩りをやってのけた。
「わしも雪鷹を間近に見るんは初めてやが、こりゃあ本当に神鳥やな。ええか坊主、あれは躾けるなんて考えちゃいかん。敬意を忘れちゃいかんよ」
「敬意」
鷹匠は頷き、訛りの残る言葉で続けた。
「きっと何か考えがあって、あれは坊主のとこに来たんやろ。友だちにするみたいに……ちゃあんと礼儀をもって振る舞うんや。したらきっと、あれも坊主をそんなふうに扱ってくれる。鳥やからって舐めてかかったら、そんなの筒抜けやと思っとくことや」
横にいたイルーシュカが、ベルクートの袖を引く。
「ふつうにしていればいいんだろう? 簡単じゃないか」
ね、と雪鷹に同意を投げかけると、その通りとばかりに神妙に頷くではないか。ベルクートは呆気にとられて、雪鷹とイルーシュカを見比べる。
「どうしてイルーシュカじゃなくて僕だったんだろう」
雪鷹はイルーシュカにも従順だったが、気安い関係というわけではなさそうだった。ベルクートの言いつけしか聞かず、それも芸事のような真似は一切しない。考えれば考えるほど雪鷹がベルクートを主と認めた理由がわからなくなるが、それでもベルクートは雪鷹に愛着を感じていたし、雪鷹もそのようだった。
子猫や子犬を愛でるのとは少々違ってはいるが、ベルクートと雪鷹の間に生まれた紐帯は、強く太く育っていた。綿入れの中で震えていた雛を見たときに覚えた強烈な保護欲は、格闘とたくさんの生傷を経て信頼とでもいうべきものに形を変えている。どうして僕のもとへ、という疑問に答えが示されることはなかったが、成長の日々を共にするのは、悪い気分ではなかった。
ベルクートは雪鷹をシュノと名付けた。村に出入りする行商人のチグが教えてくれた、他の地方で「雪」を表す言葉の一つである。
「シュノ」
呼ぶと、優雅に羽ばたき、差し出した手甲に舞い降りる。まるで言葉が通じているようだと鷹匠は感心していたが、その通りだった。
雪鷹。神の鳥。言葉を解すとして、何の不思議があろうか。
シュノはただ、ベルクートの傍にいた。命じられれば狩りをするし、荒天や熊にいち早く気づいて警告を発する。遠駆けに連れていけば心強い相棒として活躍したが、果たして神はこんなことのためにシュノを遣わしたのだろうか、と頭を捻らざるを得ない。
巫女ルトゥリナやイルーシュカにさえライルツの神の真意はわからぬというのだから、只人であるベルクートに知れようはずもなかった。
「ベルクート」
父バッソがいつになく真剣な様子でベルクートを呼びつけたのは、シュノと暮らしはじめて最初の冬のことだった。バッソは家の裏で薪を割っていた。手伝えということなのかと、薪を束ねはじめる。
ライルツの冬は厳しい。海からの風が唸りをあげ、冬枯れの草原をねじ伏せる。雪が降る日も多く、行商人たちの足も遠のくから、冬の備えはしすぎるということがなかった。薪を準備しておくのは、保存食作りとともに重要な仕事のひとつだ。
村一番の武芸者である父の鍛え抜かれた腕が振り下ろされるたび、カンと爽快な音がして薪が割られてゆく。ベルクートも手伝ったことがあるが、どうやってもこんな快い音は出ない。そして、すぐに上半身が痛くなってしまう。
「シュノのことなんだが……」
「シュノがどうかしたの?」
バッソは淡々と薪を割り続ける。父がこのように、話の途中で考えに耽ることは珍しくないので、ベルクートも黙って手を動かし続けた。寒さでかじかんでいた手指がほぐれ、暖まってゆく。
すっかり薪を束ね終えてから、バッソは続けた。
「おまえや、イルーシュカを守るために神が遣わしてくださったのではないだろうか」
「守る、って……」
生じた思いをうまく言葉にできず、ベルクートは黙る。
この村に、ライルツの草原にひっそりと生きているだけで、神の恵みに
しかし、父の言う「守る」にはそれ以上の意味が込められているように思えた。例えば、父が『鞘』として巫女と村長を守っている、というような。
「……いや、いいんだ。忘れてくれ」
バッソは首を振って、話を打ち切った。煮え切らない思いで、ベルクートは頷く。
「だがな、シュノを拾ったのは偶然なんかじゃない。シュノはおまえを選んだんだ。そのことにはきっと深い意味がある。父さんにも、ルトゥリナにもわからないような意味がな。……それを忘れないようにな」
「はい」
もう一度、今度は明確な意志を込めて、頷く。父もまた深く頷いた。
シュノと出会ったことが必然だとするなら、それはきっとイルーシュカに関わることに違いなかった。次代の巫女、イルーシュカ。
ならばベルクートもまた『鞘』として彼女を守らねばならない。そのためには一日だって無駄にできなかった。父のようになるには、まだまだベルクートは幼すぎる。
ライルツの神の力は巫女の血脈に受け継がれるが、『鞘』は巫女と村長が指名する。今の『鞘』はバッソだが、息子のベルクートが次代の『鞘』になれる保証はないのだ。三日違いで生まれたイルーシュカとは仲良くしているが、『鞘』の選出はままごとではない。つきあいの深さではなく、人格と武術の腕で判断されるのだ。
寡黙なバッソは影のように巫女と村長に寄り添い、無言のままでその役目を果たしていた。客人をもてなす時、祭りの時。決して威圧的ではないのに、隙のない立ち姿はそれだけで悪しき者の心を挫くような、凛とした輝きがある。
あとどれほど修行を積めば、父に追いつけるのだろう。その道のりの果てしなさに目の前が暗くなる。
父が言うように、シュノに選ばれたのだとしても、増長する気には少しもならない。道の険しさを改めて突きつけられたようで、気が引き締まる思いだった。
薪を片づけていると、シュノの羽音がした。庇に止まって、じっとベルクートを見下ろしている。
その時ふと、シュノは守るためではなく、確かめるため、見極めるために遣わされたのではないかとベルクートは思った。イルーシュカに相応しい『鞘』たりえるか。ライルツを守る戦士たりえるか。水色の虹彩、漆黒の眼が、真っ直ぐにベルクートを射抜く。
ベルクートは固く拳を握り、手甲をつけた左腕を差し伸べる。
――なってやる。イルーシュカの『鞘』に、僕が。
白い翼を広げ、シュノが羽ばたいた。見上げた空に、ひとひらの雪が舞う。
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