終章・死に至れない病

「えー、日本人の美意識とは時代によって移り変わってきたわけであります。代表的なところでは平安時代には『もののあはれ』などと言いましたが、鎌倉時代になりますと『幽玄』、さらに進んで『詫び寂び』、江戸時代になると『いき』なんて申しました。

 これらの美意識は時代が変わっても途切れることなく受け継がれ、さらに新しい美意識が生まれ、過去の美意識と並んで持てはやされるのです。現代の日本にて新しく生まれた美意識、それが『萌え』であります」

「なるほど確かに。してみると『萌え』も大切にするべき文化ですねぇ。先生は、以前は純文学をお書きになっていたと伺っておりますが、いきなりライトノベルに転向されたことにはどういったきっかけがあったのでしょう」

「私のほっぺたをひっぱたいて気づかせてくれた人がいたのです。しかも、グーでですよ。パーでもチョキでもありません、グーです。ありゃ痛かった。

 以前の私は古き良き文学を目指すあまり、皆さんにわかっていただける、面白い作品を書くという努力をまったく怠っていたのです。その人がいなければ、私はきっと今頃、巌頭の吟でも唸って華厳の滝から飛び込んでいたでしょうからねぇ。今でも、その人には感謝に堪えません」

「いいお友達をお持ちですねぇ」

「ええ、一生のパートナーであります」

 友達じゃない、恋人だ。しかし、それはこの場で訂正させるべきことではない。

 それに、俺とパートナーを結びつけてくれるきっかけを作ったのは、あの死神を装った女子高生だ。俺は改めて、俺をぶん殴ってくれた一生のパートナーと死神に感謝をした。自然と笑みがこぼれる。俺が笑ったので、相手も笑った。ぬるくなったコーヒーを一口すすり、俺は次の質問を待った。


 俺は今、インタビューを受けている。

 第二次玉川上水事件(俺と遊佐さんの間ではこの呼び名が定着している)から一ヶ月後、俺の小説の連載第一回目が文芸誌に掲載された。

 掲載にあたっては「晃昭錬太郎先生も絶賛」との文言が踊り、初回にして巻頭に掲載されるという栄誉を授かった。しかも表紙に顔写真付きというから恐れ入る。今のところ、読者の評判も上々という。ネット上でも、早くも話題に上っているという話だ。

「先生の作品に出てくる死神ですが、死神のくせに主人公の自殺をとことん邪魔するという設定が面白いですね。しかもこの死神は実は天使の子供で、紆余曲折あって死神に引き取られて育てられたという設定だそうですが、この着想はどこから得たのでしょうか?」

「実は、モデルがいるんです。死神も、ヘタレな主人公も、主人公に恋する幼なじみも、意地悪な部活の部長も、主人公が好意を寄せる性格の悪い女生徒も、みんなモデルがいます。むしろ、本作はほぼ実体験と言ってもいいかもしれませんね。まぁ、自分のモデルがその中の誰なのかは、皆さんのご想像にお任せするとしか言えませんが」

 身を乗り出して話す俺の姿を、記者に随行したカメラマンが一枚写真に収めた。

「では最後に、先生から読者の皆さんに一言お願いします」

「あ、ええ、そうですねぇ」

 俺はまた、ぬるくなったコーヒーで口を湿らせ、少し頭の中を整理した。

「これは自分の実体験で言うのですが、今、皆さんが何かの壁にぶち当たっているとします。悩むかもしれません、ともすれば全てを投げ捨ててしまいたくなるかもしれません。

 でも、ちょっと待ってください。それを越えられない壁ではなく、つまらんことだと思ってみてはいかがでしょうか。ちょっと勇み足を止めて周りを見渡せば、自分がいかに視野を狭くしていたか、気づくことができるでしょう。助けてくれる人もあるかもしれませんし、それはこの先を生きるための、大きなヒントになるに違いありません。

 と、まぁそんなことを、十回の連載を通して感じていただけたら、自分は幸いだと思っております。

 それともう一つ、文芸はライトノベルに留まりません。皆さんも是非、様々な文芸に触れてください。文壇とは作家と作家が血で血を洗う修羅道であると同時に、たくさんの人が求めて止まない極楽浄土でもあります。今後は自分もライトノベルに留まらず、あらゆる視野を広げて様々な文芸に挑んでゆきたいと思っております。今はライトノベル作家ですが、いずれは『ライトノベル書ける作家』になりますので、その際は皆様、どうぞ応援をよろしく」

 最後に深く頭を下げ、インタビューは終わりとなった。

「ありがとうございました」「はい、お疲れさん」「お疲れ様でした」

 俺の担当のベテラン編集者、西上氏が労ってくれ、その見習いである遊佐さんが冷たいおしぼりを差し出してくれる。緊張していた肩の力が一気に抜け、俺は冷たいおしぼりを顔に当てた。

 インタビューの会場は、出版社にほど近い喫茶店で行われていた。それから文芸誌の巻頭とインタビューのページに掲載されるという写真撮影を近くの神社や公園で行い、解散となったのは午後三時であった。今日は土曜日だが、遊佐さんも西上氏も、このためにわざわざ休日出勤してくださったのである。

「思ったよりも疲れますなぁ」

「売れれば何度でもあることだからさ、今のうちに慣れておきなよ」

 インタビュー会場の喫茶店から戻り、出版社の社屋前でタバコをくわえながら、西上氏が言った。

「あまり言わんでください。まだわからないし、落ち目になった時のダメージが大きすぎます。そうならないように努力しますが」

 並んでタバコをくわえた俺の隣で、遊佐さんもくすくす笑う。

「勝って兜の緒を締めよ。生真面目なあなたらしいわ」

「まだ勝ったかどうかもわからんがね。内助の功を頼むとするかな」

「任せて」

 遊佐さんがガッツポーズを決め、俺たちは顔を見合わせて笑った。

「ははっ、見せつけていやがるぜ。同棲なんて回りくどいことしてないで、さっさと結婚しちまえよ。さて、帰るか」

 タバコを一本吸い終え、西上氏が言った。

 我々三人は並んで歩いた。方向は飯田橋駅ではなく、その逆方向にある地下鉄半蔵門線の九段下駅だ。半蔵門線は渋谷で東急田園都市線に乗り入れしているため、その沿線にある西上家まで一本で帰れるのである。

 奇しくも、その日は第二次玉川上水事件からちょうど一ヶ月目だった。

「ただいま。今日は先生が一緒だよ」

「お邪魔します」

 二人で声を揃え、西上氏の家へとお邪魔した。右手には初めての原稿料で買った高級なブランデーを提げている。これは先日の祝いの席を中座したお詫びの品であった。

「やあ、これはこれは先生、よく来てくれました」

 奥から出迎えてくれたのは、西上氏のお兄さんだった。

「娘も喜びます」

 お兄さんはそう付け加える。

「まあ、一杯やりましょう」

 俺と遊佐さんはリビングに呼ばれた。それからは心づくしの宴会である。俺、遊佐さん、西上氏夫妻、お兄さん夫妻の六人が並んだ食卓は、席が一つ空いていた。そこにはオレンジジュースの入ったグラスが置かれ、今にも遅れてきた誰かが座って料理をつつきそうな、そんな雰囲気で椅子が一つ残されていた。

「あの、娘さんのことは……」

 俺がそう訊いた時、

「ただいまー。あ、ウサギさん、また来てたの?」

 リビングの扉を開けて現れたのは、松葉杖を突いた死神だった。お兄さんが、死神を叱りつけた。

「またとはなんだ、先生は命の恩人じゃないか」

「別に頼んでないし。それに、あたしだってウサギさんの命の恩人なんだからね。大体、あんなところから飛び込んで死ねるわけがなかったんだよ。あーあ、失敗失敗」

 第二次玉川上水事件。その結末は笑い話にもならなかったのである。

 あとで調べたところによると、現代の玉川上水は、水深が最も深いところで2メートル。我々が飛び込んだところは1メートルにも満たなかったらしい。太宰治が入水した頃は増水していた上に今よりもっと水深が深く、河岸も川底も整備されていなかったために自殺は可能であったらしいが、整備された現代では死のうとしても死にきれない場所だったのである。

 そんなところに三人が相次いで飛び込んだわけであるから、死にはしないまでも死ぬほど痛かった。

 遊佐さんは軽い打ち身で済んだが、俺は足首をひねってしばらくは包帯を巻いて過ごした。もっともひどかったのは死神で、コンクリートの川底に右足をしたたかに打ち付けて足首を骨折していたのである。おかげで一ヶ月を経過した現在でも、彼女は松葉杖のお世話になっている。

 事件の直後、我々は必死の思いで死神を岸に引き上げ、救急車を呼んだ。病院に駆けつけた西上氏夫妻やご両親には顛末を説明しないわけにはいかなかった。そのせいで死神はご両親から涙混じりの大目玉を食らったことは言うまでもない。

 それから、ほとんど一週間おきに、俺と遊佐さんは死神の様子を見に西上家を訪れていた。毎度毎度ご馳走になるほど我々も図々しくないので、普段はお茶の一杯も頂いて引き上げていたが、今日は原稿料が振り込まれたため、やっと埋め合わせのブランデーを買うことができたという次第である。

「はあ、アホらし。それにしても二人とも、また見せつけにきたわけ? あたしだってウサギさんのこと、好きだったんだよ。ちょっとだけだけど。あたしにもウサギさんみたいに真面目でいい人、現れないかなぁ」

 死神はぶつくさ言いながらも、テーブルに着いて料理をつつき始めた。その顔は、言葉とは裏腹に楽しそうに見える。

「足の調子はどうなの?」

 遊佐さんの問いに、死神は満面の笑みを浮かべて彼女を振り向いた。

「悪くないよ。あと一週間もすれば松葉杖なしで歩けるってさ」

「そう、よかった」

「遊佐さんも、新しい仕事はどうなの。楽しい?」

「大変だけど、楽しいよ。血塗れブラッディ・ユサの汚名も、これで返上だから」

「そっか。よかったね」

 死神の奴、遊佐さんの言葉にはやけに素直に答えるものだ。以前の俺ならば面白くないと思っただろうが、今はこれがかわいらしいと思える。きっとこれがツンデレであり、萌え要素なのだろうと解釈できた。二人の会話に笑みさえ浮かべながら、俺はブランデーを傾ける。

 死神と出会ってから、ほんの数ヶ月。俺は自分の変化に驚いていた。全てはこいつのおかげと思えば、憎む気持ちも起きないというものだ。

「ウサギさん、それ、あたしにも飲ませておくれよ」

 死神が俺の持ったブランデーのグラスに手を伸ばす。だが、俺はすぐにその手を引いた。

「だめだ。未成年はオレンジジュースでも飲んでろ」

「固いこと言わないでよ」

「いいや、未成年の貴様が酒を飲むことで罪が一ポイント加算される。そうすると、貴様は地獄行きだ。貴様が地獄で苦しむところは見たくないからな」

 遊佐さんも、ことの顛末を知っている西上氏夫妻も、お兄さん夫妻も、声を立てて笑った。ただ一人、死神だけは面白くなさそうに頬を膨らせる。

「ほんと、あんたたち、漫才みたいねぇ。見てて飽きないわ」

 腹を抱えて笑いながら言ったのは、お姉さんだ。

 本当に、笑い話で済んでよかった。もし、玉川上水がもっと深かったら、もっと流れが激しかったら、俺も遊佐さんも死神も、この世にはいなかったかもしれないのだ。

 華厳の滝で、くだらない茶番を演じながらも俺を止めてくれなかったら。

 ガス自殺の朝、部屋の換気をしてくれなかったら。

 遊佐さんと結託してくれていなかったら。

 俺はきっと、この世にいなかった。

 連載の喜びも、遊佐さんのことも、知らずに死んでいたのだ。


 先日、兄貴から電話があった。兄貴は連載の決定と就職を褒め称えて喜び、両親は文芸誌を二十冊買い購めたという。

 二人のオタク大学生からは「めっちゃ萌えっすよー!」とメールがあった。俺の名前と作品をネットで拡散してくれるという。

 職場では、社長をはじめ、社員全員から賛辞を受けて臨時の飲み会まで催してくれた。会社のカウンターにはくだんの文芸誌が三冊ほど並んでいる。「単行本が出たらここで売る」とまで、社長は言ってくれる。もちろん「仕事は疎かにするな」との言葉が付いた。

 友人たちも、揃って祝ってくれた。「やっとウサギ脱出だな」と言われたが、「当面はウサギのままでいい」と断っておいた。

 来年には文芸誌の企画で晃昭先生との対談も予定されているという。晃昭先生たっての頼みだそうだ。

 驚いたのは、吉川さんからメールが来たことである。彼女のメールには文芸誌の表紙の写真が添付され、「おめでとうございます」とあった。表紙に俺の顔写真が載っていたので驚いたという。

 さらに驚いたのは「硫黄島からのメール」だったが、硫黄島でもあの文芸誌が読めるのだろうか。そもそもあのイケメン店長がライトノベル系文芸誌を読むとは、よほど娯楽が少ない土地に違いない。ともあれ、励ましの言葉があった。

 誰もが、俺が生きていたことを喜び、俺が書いた作品を喜んでくれた。

 誰よりも、遊佐さんだ。彼女は、そのきっかけこそ、俺が小説を書いていたことであったが、最終的には俺の人柄に惚れてくれたのである(と、本人から聞いたので間違いないだろう)。小説家としてはもちろん、人間として、読者のために、彼女のために生きたいと、心から願った。

 今思えば、俺のような個人が「文学に一命を賭して警鐘を鳴らす」なぞ、おこがましいこと甚だしかったのだ。俺の自殺なんて、年間自殺者三万人と言われる無機質なデータの一つに数えられ、世の中は早々にその事実を忘れ去っていたことだろう。敢えて死を選ぶ必要などなかったのだ。生きてこそ、文学に命を懸けることができるのだ。

 ここ数ヶ月の出来事で、俺はそう学んでいた。


 これが、俺の文学であり、哲学だったのだ!


「ちくしょうめ、貴様が生きてるだけでどれだけの人間が喜ぶと思ってるんだ」

 万感の思いを噛み締めながら自分を棚に上げ、しかもうっかり高いところに上げてしまったせいで下ろしようがなくなり、俺は死神を睨み付けた。

「ほんとに喜んでる?」

「そう、喜びだよ」「喜んでるよ」「嬉しいよ」「嬉しいねぇ」「嬉しいわ」

 西上家の面々+遊佐さんが、口々に言う。

 だが、その喜びに気づく者は稀だ。喜びが当たり前になりすぎて。

「ところで死神よ、次の予定はなんだ?」

 目の前の死神にも、俺は同じことを思っていた。世の中がつまらないだと? くだらん中でも、最もくだらん自殺の理由だ。まして二十歳前の子供が悩むようなことじゃない。長い人生、そんなのは百年のうちに結論を出せばよろしい。まずは目先の喜びを得ることに心を砕きたまえ。

「もう、あたしの邪魔をしないでおくれよ、ウサギさん」

 女子高生に顔を寄せる俺を、ご両親も西上氏夫妻も、にこにこ顔で見つめている。俺はこの人たちに信頼されている。「この人がいる限り、娘は死ぬことがない」と信頼を寄せてくれている。

 応えねばならない。

「いいや、どこまで行ってもとことん邪魔してやるさ、貴様が諦めるまでな」

「うわ、うっざい。なんでそこまでするの」

「立場逆転だ」

 俺はグラスに残ったブランデーを一口に煽り、死神に向き直る。そんな俺に、遊佐さんも腕を絡め、死神の方を向いてにんまり笑った。

「なにせ俺は、このたび栄えある貴様の担当となった死神だからな」



                                                       了

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吾輩はウサギではない。 可楽亭けん太郎 @kentarou1977

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