6・ウサギが鳴いた(4)

 ほどなくして、我々は玉川上水に至った。タクシーを降り、スマホを見ながら走る。するとかくして、死神は居たのだった。俺と遊佐さんが「玉川上水事件」と呼ぶ一連の出来事が発生したそのすぐ近く、橋の欄干に寄りかかるようにして、彼女は居たのだった。

 住宅街の寂しい光を受けた彼女の髪は、秋の風にさらさらと流れ、高校の制服であろうワインレッドのリボンを胸にあしらった白いブラウスを正しく着込んで、死神はとろとろと流れる小川を見つめていた。

「おい、死神!」「死神さん!」

 駆け寄ると、死神は今まで俺に見せていた、あのへらへらした笑いをどこかへ消し去り、ただ寂しそうに微笑んだ。

「へえ、まさか本当に来るとはねぇ。しかも二人ともお揃いで」

「貴様、何をしているんだ」

 訊くと、死神は大袈裟なほど大きく夜空を振り仰いで言った。

「空は大きいねぇ。世界のことを考えると気が遠くなるよ。この小さい体じゃ、その大きさを計ろうとするのは無理だよね」

「な、何を言っているんですか、死神さん」

 遊佐さんは眉をひそめたが、俺は彼女が何を言っているのか、わかった。


 悠々たるかな天壤てんじょう

 遼々りょうりょうたる哉古今、

 五尺の小躯しょうくを以てこのだいをはからむとす、


 藤村操の「巌頭之感げんとうのかん」を、彼女はおもいっきり現代風に訳して呟いていたのだ。旧制第一高等学校、つまり今の東京大学の学生だった藤村が、華厳の滝から飛び降りる間際に近くに生えていたミズナラの木に刻んだという辞世の詩の冒頭である。俺の前でそれを言ったということは、やはりそうだったのか。

「貴様、死ぬ気でいるな」

 訊くと彼女はあっさりと「そうだよ」と言ってこちらを振り向いた。一人驚いているのは遊佐さんだった。

「そんな、どうしてですか」

「どうして、か。ぶっちゃけ言うと、特にこれっていう理由もないんだよ。毎日勉強だとか、部活だとか、そんなことばっかりやってるけどさ。それってどんな意味があるの。みんないつかは死ぬんだよ。お父さんとお母さんは必死で『勉強しろ』って言うけど、死んだら勉強も部活も意味ないじゃん。なのに人間って、生まれたら死ぬことが決まってるんだよ。地球だって、いつか必ず滅びるんだよ。それって宇宙のレベルで見たらほんの一瞬じゃん。これって真理だよね。そう考えたら、なんか何をやってもつまらなくなっちゃって。どうせ死ぬんなら、早くても遅くても同じかと思って。これって理由になるかな」

「ならねえよ」「なりません」

 二人で声を揃えると、死神は俺を指差して「あはは」と笑った。

「ついこの前まであんなに死にたがってたのに、小説が売れて彼女ができたら、いきなりそれ? ちょっと滑稽だよ、ウサギさん」

「ああそうだ、滑稽だとも。だが、どんなに滑稽だとしてもそれは真理だ。それに気づかせてくれたのは貴様だ、感謝に堪えない。恩返しもさせないうちに勝手に死ぬことは許さんぞ。それに貴様は俺より年下だ。俺より先に死ぬことはなおのこと許さん。これとて真理のうちだろう。違うか!」

「一体、人間というのは虫の良い生き物です。早くても遅くても同じなら、精一杯生きてから死んで下さい。意味があるかないかは、あと百年のうちに結論を出せばいいんです」

 遊佐さんも負けじと言いつのる。しかし、

「意味ないよ、そんなの」俺たちの必死の問いかけにも、死神は冷ややかだった。「意味ない。全ての本当のことは、一言で言えるんだよ。『わからない』、それだけ」


 萬有ばんゆう眞相しんそうは唯だ一言いちごんにしてことごとくす、曰く「不可解げさざるべし」。


「では訊くが、貴様、なぜ俺を助けたのだ。あんな回りくどい手を使ってまで、なぜ俺を助けたのだ」

 問うと、死神は欄干から体を離して、俺たちの前にとことこと歩み寄った。そして、俺と遊佐さんを見比べて言った。

「死のうとしてる人の気持ちが知りたかったんだよ。それと、どうすれば死なずに済むのかもね。あたしだって最初から死にたかったわけじゃないよ。結果的にウサギさんは死ななかったけど、でも、それはあくまで結果論。それに、叔父さんもたびたび言ってたけど『このまま消えるのは惜しい作家だ』って。必要とされてるなら、敢えて死ななくてもいいじゃない?」

「死神さんは、誰にも必要とされていないとでも?」

「されてないよ。現に彼氏だってできないし。言い寄ってくるのは体目当ての馬鹿な男だけだし。そんな相手に純潔を捧げる必要ないじゃん。ちょっとだけ好きになった人は見事に取られちゃったしね」

「ならば、あのとき俺が『俺もちょっとだけ好きだよ』と言えば、貴様は自殺を思いとどまったというのか」

 遊佐さんが俺と死神を怪訝そうに見比べたが、俺は「後で話す」の意味を込めて、彼女に手のひらを向けた。

「あはは、今さら言ったって遅いよ。それに、あたしはウサギさんの自殺を止めるという目的をもう果たしたの。あたしの価値観を二人に押しつける気もないし、二人が生きたいと思うなら、生きればいいよ。よかったじゃん、ウサギさんも遊佐さんも、お互いに必要としてる人と一緒になれて。あたし、死ぬ間際に二人の人を幸せにできたんだね。これであたし、善行が二ポイント追加で天国行きだ。心置きなくあの世に逝けるよ。それじゃあね」

 死神が、欄干に足をかけた。俺は「待て貴様」と叫ぶが早いか、彼女の襟首を掴んで引きずり下ろし、かわりに欄干に飛び乗った。

「え、ちょっと、今さら死ぬ気?」

「いいや、死なん。だが、貴様を死ねなくしてやる。よーーーく見てろよ!」

 この際だ、一人の命を救えるなら、死神にも遊佐さんにも嫌われても構わないと思った。まして、第三者の通報や偶然通りかかった警察官に逮捕されることが一体何の苦痛になろうか。

「え、ちょ、ちょっと!」

「何するの、こんなところで!」

 読者諸賢、覚えているか。俺が死神の部屋に入ったのは、トイレと間違ったためだ。そこで俺は尿意を忘れ、慌ててここまで駆けつけてきたのだ。もう、膀胱は満水の中禅寺湖と化していた。暗闇と角度で二人の乙女に見えないことを願いながらエトセトラをさらけ出し、華厳の滝のミニチュアを玉川上水に向けて放った。

「ふははは、どうだ貴様、これでもここに飛び込むというのか!」

 それでも俺は、二人を振り返ることができなかった。仕方なかろう。こんなことをしている俺でさえ、羞恥心ですぐにでも飛び込んでしまいたいほどなのだ。

「も、もうやめて」

 遊佐さんにやめてと言われても、一度出してしまったものはなかなか止まらない。最後にぶるっと体を震わせ、エトセトラを仕舞った。欄干から飛び降り、俺は死神に向き直る。

「どうだ死神。人間、必死になればこれくらいの恥はなんともないのだ」

 死神も遊佐さんも、呆然と俺を見つめていたが、やがて死神の唇が歪んだ。

「ぷっ、はは、あははは」

 夜の住宅街に、玉川上水の静かな水音と死神の笑いがこだまする。死神はひとしきり笑ったあと、目を拭った。

「もう、なんていうか、あたし、こんなに悩むんだったら死んじゃおうと思ってたのに」


 我このうらみいだいて煩悶はんもんついに死を決するに至る。


「もう、ここに飛び込もうって決めてから、全然怖いことなんてなかったのに」


 既に巌頭に立つに及んで、

 胸中何等の不安あるなし。


「いま、はじめて知ったよ。ウサギさん、こんなにあたしを心配してくれて悲しいのに、でも、いま、こんなに面白いんだよ。こんな気持ちになることも、あるんだね」


 始めて知る、

 大なる悲觀ひかんは大なる樂觀らっかんに一致するを。


「そいつは何よりだ。なんなら他にもやってみせようか」

「いや、いいよ。なんでそこまでするの」

「当然だ。『助けてくれ』と言っている奴を見殺しになんかできるものか」

「あのアプリのメモですか」

 遊佐さんは合点が行ったようだ。だが死神はきょとんとしている。こいつ、とぼけてやがるんだ。

「わざわざ部屋に『あいむなぅひあ』のアプリをメモして行っただろう。しかも俺の原稿の上にな」

 それを俺は、死神からの「助けてくれ」のメッセージと受け取っていた。そうでなければ、わざわざそんなメモなぞ残さずにどこかで一人果てればいい。それなのに、わざわざ彼女はそうしたのだ。

「それはウサギさん、大きな勘違いだよ。まあ、今日、うちにウサギさんたちが来るってことは知ってたからさ。もしかしたら最後に御挨拶ぐらいできたらいいな、と思って。まぁ、一つのゲームだよね。でもウサギさん、今回はハズレだよ。それがあたしの『助けて』のメッセージだとするには、ちょっと頼りなくない?」

「なに、どういう意味だ」

「もし本当に助けて欲しいんだったら、もっと確実に伝わるメッセージを残すよ。たとえば遊佐さんにメールするとかさ」

「あ……それもそうか」

「たしかに、そうですね」

 大見得を切ったつもりだったのに、あっさりと挫かれた。おかげで遊佐さんの前でも二度目の恥をかいた。やはり俺は萌え小説は書けても推理小説には向かないらしい。頭を掻いて俯く。だから、俺は気づかなかった。死神が一歩一歩、俺たちから離れて行っていることに。

「遊佐さん、ウサギさん、最後に会えてよかった。ウサギさん、最後はかっこ悪かったけど、かっこよかったよ。あたしのこと、忘れない……ううん、忘れちゃって。バイバイ!」

「あ、待て!」

 今度は間に合わなかった。駆け寄った俺の手から、彼女の白いブラウスがするりと抜け、死神は漆黒の小川の中へと身を躍らせていた。最後に見た死神の美しい顔は、無上の笑みに彩られていたと思う。世の中がつまらないと言いながら、貴様は死ぬ間際にそれほど楽しいと感じているのか。刹那、俺の胸に怒りが沸いた。

「死なせてなるものか!」

 怒りのあまり、ただそれしか考えていなかった。俺はその背中を追って、欄干を飛び越える。

「二人ともだめ!」

 俺の後ろからも、遊佐さんが身を躍らせる気配がした。そうして、三人が三人、玉川上水へと飛び込んだのだった。

「あいいいいいいいいい!」

「んぎゃあああああああ!」

「ういやあああああああ!」

 三つの水音とともに、それこそ命が尽きたのではないかと誰もが思うような絶叫が夜の玉川上水を切り裂き、そして静かになった。ただ辺りは、我々三人がいた痕跡を全く残さず、はじめから誰もいなかったかのように、ただとろとろと小川の流れる音だけが響いていた。

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