6・ウサギが鳴いた(3)
「連載決定おめでとう!」
「ありがとうございます!」
それからまた数日後、俺と遊佐さんは世田谷区にある西上氏のお宅にお邪魔していた。その日、西上氏の邸宅で開かれた宴会は、俺の小説がライトノベル系文芸誌に連載されることが正式に決まったその祝いであった。その席に、俺と遊佐さんは揃って招待されたのである。普通なら編集者が駆け出しの作家を自宅に招いて宴会などないことだと思う。だが、目の前に並んだ和洋折衷の料理やお酒は、どれだけ西上氏が俺に目をかけてきたか、そして俺がどれだけ彼に失礼を働いてきたのか、身につまされる思いだ。
「しかし、たったの数日で連載決定とは、急なことでしたねぇ」
「ああ、だいぶ無理はしたよ。でも、この機会を逃しちゃいけないからさ。俺、久々に頑張っちゃったよ。いいイラストレーターを付けるから、挿絵も期待してくれ」
「それは、かたじけありません」
六人分の笑いがリビングにこだまする。
西上氏の邸宅は、世田谷区の一戸建てである。この邸宅は世田谷区が高級住宅街となる前から建っている純和風の古い建物で、それなりの広さがあり、現在は西上氏夫婦と西上氏のお兄さん夫婦が同居する二世帯住宅であるらしい。ご両親は田舎に隠居しておられるという。お兄さん夫婦は文芸とは全く関係ない仕事をされているとのことだが、それでも文芸には造詣が深いらしく、俺のこともご存じだった。西上氏には子供はないが、お兄さん夫婦には娘さんと息子さんが一人ずついるらしい。息子さんは地方の大学に進学していて当然この場にはいないが、高校生であるという娘さんの姿もどこに行っているのか、最前から見えなかった。
「いや、あはは、こいつはめでたいね。そうだ、サインを貰うんだった。おい、お前。ちょっと色紙を持ってこいよ」
「あいよ、お父さん」
西上氏夫妻以上に喜び、騒いでいるのは西上氏のお兄さん夫妻だった。
「二人ともいつ結婚するんです?」
ブランデーの瓶を差し出しながら俺と遊佐さんを見比べて、お兄さんが訊く。
「当面はお金も貯めないといけませんので、近い将来とだけ」
それには遊佐さんが答えた。お兄さんは「いいねぇ、いいねぇ」と上機嫌である。
「しかし遊佐さん、見かけによらず強いねぇ」
ブランデーをまるでジュースのようにぐいぐい飲む遊佐さんを見て、西上氏が驚いた。
「ええ、学生の頃は『
冗談なのか本当なのかわからない遊佐さんの答えに爆笑したのは、やはりお兄さんと、色紙を持ってきたばかりのお姉さんだった。
それには俺も笑った。彼女はたしかに、酒が強い。俺も初めて知った時には知的で清楚な遊佐さんが俺と同じくらいか、それ以上の酒豪であったことには驚いた。彼女の容貌からは「お酒は一滴も飲めません」と言われた方が納得できる。これこそ、ギャップ萌えというやつであろう。
しかし、大酒飲みを指して何でも飲み込む大蛇を意味する「
「じゃあ、先生、これにサインをお願いします」
「いやぁ、これは自分の初めてのサインになります。光栄であります」
色紙にサインをすると、お兄さん夫妻は「やった、初サインゲット!」と、年甲斐もなく(これは失礼か)諸手を挙げて喜んでくれた。
その喜びに自分も喜びを覚える一方、俺は違和感を感じていた。
「なあ、この人たち、なんか無理してないか?」
お兄さん夫婦と西上氏夫婦に聞かれないよう耳打ちすると、遊佐さんも「やっぱりそう思う?」と囁きが返ってきた。
ともあれ、せっかく用意してくれた祝いの席を無碍にすることもできまい。俺と遊佐さんは腑に落ちないものを抱えながら、一通りその場を楽しんだ。
「すみません、ちょっとお手洗いを」
俺が席を立ったのは、ブランデー一本を六人で空けた頃だろうか。既に西上氏も奥さんもだいぶ酔っていて、お兄さん夫婦はぐでんぐでんである。さすがの遊佐さんも少々酔いが回ったと見えて、頬が桜色になっている。
「ああ、そこの廊下を真っ直ぐ行って、突き当たりを右に行って、いちばん奥の左側がそうれす」
呂律の回らない口で、お姉さんが教えてくれた。俺は「では失礼して」と、薄暗い廊下を教えられた通りの道順を辿った。
「えっと、突き当たりを右に行って、それから……いちばん奥の右側だったかな」
正常な状態であったなら、それがトイレの扉などではないと気づいただろう。しかし、その時の俺は滅多にない高級なブランデーに、自分でも思う以上にしたたかに打ちのめされていたらしい。そして、その間違った扉を開いた時、さらに打ちのめされてほんの少し酔いが醒めた。
そこはトイレなどではなく、誰かの寝室だった。古い屋敷らしく、ほとんどの部屋が畳敷きであるのに、その部屋だけはフローリングに改装されていた。六畳ほどのその部屋は、窓際にベッドがあり、女の子が好みそうな薄桃色の掛け布団が、きちんと整えて掛けられていた。壁際には本棚があり、よほど本好きの子が使っていると見えて、ハードカバーも文庫も問わず、様々な書物が並んでいる。同じ文芸好きとしてはどんな本が並んでいるのか興味があったが、部屋が暗い上に他人の、しかも女子高生の部屋である。
「これは失礼をば」
主のいない部屋に詫びを入れて扉を閉めようとした時、壁際にある勉強机が目に入った。そこには参考書や教科書が几帳面に並んでいるが、その机の上のものに、俺は目が釘付けになった。どこかで見覚えのある紙の束である。
「あれ、これって」失礼とは思いながら灯りを点け、勉強机に歩み寄った。「な、なんだって、これは」
それは、俺が先々月頃に出版社に持ち込んであえなく玉砕した、あの没原稿だったのである。没原稿の上には、メモ用紙が一枚載っていた。メモには「あいむなぅひあ」と書かれている。
一気に酔いが醒めた。机の上には、さらに三つの原稿がある。それはいずれも、あのボロアパートにいた頃、押し入れの文学墓場に安置していたはずの文学の遺体だった。
なぜ、これがこんなところに?
「まさか。いや、まさか。まさかまさか!」
言いしれぬ焦燥に駆られ、俺は部屋を見渡した。尿意はとうに引っ込んでいる。机の脇には、見覚えのある黒いスポーツバッグ。そのバッグを開けてみると、中から黒いジーンズと黒いパーカー、そして黒いノースリーブのシャツが現れたではないか。
ここが、最前から姿を見せていない、お兄さん夫婦の娘さんの部屋であることは最初から察しが付いていた。しかし、その娘さんというのが、まさか……。
俺は「あいむなぅひあ」と書かれたメモ用紙をひっつかみ、リビングに駆け戻った。リビングでは、相変わらず宴会が続いている。
「おい、死神の正体が知れたぞ。それに、上手くすれば居場所もわかるかもしれん」
頬を桜色に染めた遊佐さんが、さっと真顔に戻った。
「死神ぃ~? 一体なんすか、そりゃ。縁起でもねえなぁ」
だいぶ酔っ払ったお兄さんがうつろな目で訊いたが、それに答えている暇はない。
「君、『あいむなぅひあ』というアプリは入れているか?」
「ううん、入れてないけど」
俺は偶然にも入れていた。そのアプリを入れていると、スマートフォンの電話帳に登録してある人たちの居場所が全地球測位システム(GPS)によって特定され、地図上に表示されるというプライバシーもへったくれも問答無用な韓国製のアプリだった(一応、拒否設定はできる)。だから、あのメモを見てぴんと来たのだ。アプリを知らない人にとっては何のことだかさっぱりわからなかったであろう。
「君は死神の電話番号とメアドを知っていたな。このアプリは無料のはずだ、今すぐ入れたまえ」
「あ、うん」
言われるまま、遊佐さんはアプリをダウンロードした。
「あ、出た」そう答えた遊佐さんのスマホを覗き込み、俺と彼女は顔を見合わせた。確かに、地図上のある地点を矢印が指し、その上に「死神さん」と表示されていた。それも、そう遠くは離れていない場所だ。
「こ、ここは」「玉川上水!」
しかも、そこは俺たちの思い出の場所。
「おいおい、二人でなにやってんの?」
西上氏がテーブルの脇から顔を突き出してきたが、俺たちは構わずに手荷物をまとめた。
「すみません、急用です。お呼びいただいたのに」
「この埋め合わせは後ほど、必ず!」
返事も聞かずに西上家を飛び出した俺たちは、世田谷通りまで走り出てタクシーを拾った。行き先を手短に告げ、車上の人となったところで、俺はようやく遊佐さんに説明する余裕を得た。
「死神の正体は、西上氏の姪御さんに違いない。以前原稿を売り込んだときに、西上氏が言っていたんだ、高校生の姪っ子が変だとね。明るかった子が突然暗くなって、学校にもろくに行っているのかわからない。自殺でもするんじゃないかって、心配してたんだ」
「それはたしかに。あなたに付きっきりだったら学校もろくに行ってないと思うわ」
「君も感じただろ。お兄さん夫妻のテンションが変だったじゃないか。あれは空元気だよ。本心は娘のことが心配で仕方ないのだ」
暗い物事を隠そうとするあまり、過剰なほどに陽気になることはままある話だ。俺だって経験がある。
「でも、どうしてそれが死神さんだって気づいたの?」
「実は、トイレと間違って彼女の部屋に入ってしまったんだ。そこで、俺は彼女にあげたはずの没原稿を発見したんだ。その原稿の上に『あいむなぅひあ』と書いたメモ用紙があった」
単に彼女の正体がわかったのならば、それで喜んで後ほど挨拶に伺えばいい話だ。しかし、俺たちを焦らせているのは西上氏の話にあった「自殺しかねない」という言葉と、玉川上水という場所のせいだった。
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