6・ウサギが鳴いた(2)
途中で大吟醸の一升瓶を一本購め、マンションに戻った俺はおつりで貰った五百円玉をリビングの「百万円貯まる貯金箱」に入れた。この貯金箱は入り口はあっても出口はない。開けるには缶切りを使って破壊しなければならないシロモノだ。
背広を脱ぎ、風呂を浴びてスウェットになった。そして遊佐さんの帰りを待つ間、パソコンの電源を入れて次回作を書き始める。
小説というのは傍から見ている以上に体力を使う作業だ。きりの良いところまで書き終えた時には、運動を終えた後のような疲れが全身を覆う。
俺が大きく伸びをした時、玄関が開いて「ただいま」と彼女の声が聞こえた。時計は午後の十時を指している。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「お疲れさん。いい時間じゃないか。それに、明日は土曜日で休みだ。君も休みだったろう。深酒しても夜更かししても大丈夫さ」
リビングに現れた遊佐さんは、閉店間際のスーパーで買ってきたらしい寿司の詰め合わせを持っていた。
「あなたのことだから、お酒は買ってあるでしょ?」
「もちろんだとも」
遊佐さんも「百万円貯まる貯金箱」に五百円玉を投入する。これは結婚資金の足しにするため、二人で始めた五百円貯金だった。まだ始めたばかりでそう貯まってはいないが、二作目の原稿料と印税も足せば、知り合いを呼んで披露宴ぐらいは開けるかもしれない。
「お風呂、入ってくるね」
「ああ、用意して待ってるよ」
風呂に向かう彼女の後ろ姿を見届けて、買ってきてくれた寿司をテーブルに広げ、冷蔵庫で冷やしておいた大吟醸を置いて彼女を待った。
それから我々は、ソファーで二人並んで乾杯をした。
「連載決定おめでとう」
「え、もう決定したのかい?」
「あれからすぐに西上さんがねじ込んだの。上の評判も上々よ。天地がひっくり返るほどのことが起きなければ、決定だから。挿絵の手配とか、まだ色々あるけどね」
「そうか、君が言うのだから間違いあるまい。あれ、この寿司、さび抜きか」
俺はわさびががっつり効いた寿司が好物である。遊佐さんはすぐに冷蔵庫から練りわさびのチューブを持ってきて、醤油皿の上にひねり出してくれた。
「ああ、思い出した思い出した。ガスで死のうとしたとき、最後に食ったのも寿司だったっけなぁ。あれもさび抜きだったよ。それと、そう、この大吟醸だ。最後の晩餐と祝いの晩餐が同じになるなんて、運命的なものを感じるな」
「運命かぁ。なるべきものが、なるようになる。それが運命というなら、これは本当にそうね。わたしたち、だいぶ回りくどいことしたけど」
透明な大吟醸の入った、赤い江戸切り子のお猪口を眺めながら、遊佐さんは言った。たしかに、俺は死のうとしたから、遊佐さんとこうしてここにいることができる。そして、死のうとして死ななかったから、これからの小説家としての活躍が見込まれる。全てがなるようになったのだ。それもこれも、全ては……
「そういえば、死神はどうしているだろうか」
死神は結局、あの玉川上水事件を最後に、一度も俺たちの前に姿を現さなくなった。俺が自殺を諦めたその瞬間、彼女は俺を用無しと見切ったのだろうか。
俺を指差して「あんた死ぬ気でしょ」と叫ばれたのが、そもそもの始めである。それから、あいつは俺の行く先々に現れては邪魔してくれた。今となってはその邪魔がありがたいのだが、いくらなんでもこれでおさらばはなかろう。遊佐さんもたびたび電話を掛け、メールを送っているが、返事は一向にないらしい。礼の一言も言わせずに消えるのは、些か卑怯ではないか。
「うちに来れば飯ぐらい食わせてやるのになぁ。あいつにはだいぶつっけんどんな態度を取ってしまったからなぁ」
この感情は、そう、「寂しさ」である。言ってみれば、死神は俺と遊佐さんを結んでくれた
「やっぱり繋がらないわ」
遊佐さんがスマートフォンを見つめて溜め息をついた。改めて電話を掛けてみたらしい。俺も買ったばかりのスマートフォンを見てみたが、そもそも俺は死神の連絡先を知らない。
「気になるが、しかたないな。まあ、改めて考えようか」
何気なく、俺はテレビのリモコンに手を伸ばした。電源を入れると、「くすくすっ」と、かわいらしい笑い声が聞こえた。
「あんたも、ちょっとはマシな顔になったじゃない。やっとアタシの好みに近づいたわね。でも、遅かった。残念だけどこれでお別れよ」あの、傲慢でいけ好かない萌えヒロインが、まさに光に包まれてこの世ならざるところへと帰ってゆくところだった。「あんたはもう大丈夫。このわたしが保証するわ。幸せになりなさい」そのかわいらしい顔は、傲慢に笑いながらも軟弱な主人公との永訣を惜しむ涙に彩られていた。
「このアニメ、今日が最終回なのよね」
「きちんと観ていなかったな。あとでDVDでも借りてこよう」
俺たちは肩を寄せて杯を傾けつつ、大嫌いだった、でも今は少しだけ好きになれた萌えアニメの最終回を鑑賞した。
しかし、死神の正体は、意外なところから知れたのであった。
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