6・ウサギが鳴いた(1)

「いやいやいやいや、やればできるじゃない!」

 玉川上水事件(俺と遊佐さんの間ではこの呼び名が定着している)からおよそ一ヶ月半。俺は飯田橋の出版社を訪れていた。その数日前には推敲に推敲を重ねた小説を一つ、送ってある。編集の西上氏は、応接スペースでこれまで見たことのない笑顔で俺を褒めていた。

「うんうん、こりゃいい。本当に面白いよ、これ。まさか萌え小説とは意外だったが、君はいつかやってくれると思っていたよ。私が保証する。こりゃ売れる。本になったら帯のコメントには是非、私に一筆書かせてくれ」

 俺の原稿を眺めながら破顔一笑したのは、晃昭錬太郎先生であった。

「ありがとうございます。これで自分は、晃昭先生を痔にしなくて済みそうであります」

「そいつはありがたい、私の尻も守られたわけだ。顔も生き生きしちゃって、これからが楽しみだなぁ。大体、私はデビューからずっと君に注目してたんだ。こいつは化ける作家だと思ってたんだが、それにしても七年とは長かったね。小学生だった孫が今はもう高校受験だぜ?」

「いやぁ、その節はとんだご無礼を」

 三人で声を揃えて笑う。そこへ、女子社員がコーヒーの乗ったトレーを持って現れた。

「コーヒーをお持ちしました」

「ああ、ご苦労さん」

 西上氏が短く礼を言うと、彼女は他でもない、俺を振り返ってにこりと笑った。俺も笑顔を返す。俺は彼女に右手の人差し指と親指で「○」を作った。「売れたよ」の合図である。すると彼女は、パーティションの向こうで音を立てずに手を叩きながら飛び跳ねた。もちろん、その女子社員とは、遊佐さんである。

 玉川上水事件の直後、以前に西上氏が「急に一人辞めちゃって忙しい」と言っていたのを思いだした。そこで、ダメもとで遊佐さんを紹介したところ、喜んで引き受けてくれたのである。勤める先を次々と血祭りに上げた「血塗れブラッディ ・ユサ」のことは全く気にならなかった。なにしろ強力なマイナスとマイナスが掛け合わさったのだから、途方もなく大きなプラスだ。ましてもともと頭の良い人であるし、人当たりも良いので恙なく仕事をこなしているらしい。これで、俺は少しでも彼女に恩を返せただろうか。

 既に俺と遊佐さんの仲を知っている西上氏は、俺にからかうような笑みを見せたが、すぐに仕事の顔に戻って続けた。

「まあ、今すぐ出版ってわけにもいかないから、一つ提案なんだけど、これを何回かに分けて雑誌に連載してみるってのはどう? いま、ライトノベル系の文芸誌に一つ空きがあってね。君さえよければ、ねじ込んでみるけど?」

「それは願ってもない話です。是非、お願いします」

「雑誌掲載にあたって多少の改稿はお願いすると思うけど、期待してくれ。そういや、就職したばかりだろ。そっちにも障りがないようにしないといけないよね」

「その辺は、大丈夫です。自分は文学を愛していますので、苦労にはなりません」


 なし崩し的にアルバイトを辞めた俺が、急いでしなければならない事業は三つあった。

 それは新しい仕事を見つけること、新しい小説の執筆、そして引っ越しであった。

 前の二つは改めてその必要性を語ることもあるまいが、引っ越しを急いだことは説明を要するであろう。理由は二つだ。

 まず、あの玉川上水事件の時のような、突発的な豪雨に身をさらす羽目になった際にはその都度遊佐家に風呂を借りに行かねばならないことと、二人で住むには、あの部屋は狭すぎたことである。

 付き合い始めたばかりでいきなり同棲とは性急すぎると懸念を表される読者諸賢もおられることであろうが、こと、我々は世間一般のカップルの例には当てはまらないことを覚えていただかなくてはならない。俺と遊佐さんはマイナス同士。二人で居ることによって、初めてプラスになるのだ。そんな我々が離れて暮らす道理などあろうか。もちろん、お互いの両親には了解済みである。

 俺と遊佐さんが家賃を折半して住んでいるのは、以前のボロアパートからほど近い、2LDKの賃貸マンションだった。都内のことなので家賃は跳ね上がったが、俺も就職して安定した稼ぎを得たことだし、マイナス×マイナスの二人ならばじゅうぶんやっていける。まして、俺の職場と彼女の職場からそれぞれ家賃の補助が出るのでおおいに助かっている。

 その就職のことだが、読者諸賢は数ヶ月前の、俺と友人たちの飲み会を覚えているだろうか。その際、友人は俺を心配するあまり「近々職場で人を増やす予定があり、真面目なお前なら自信を持って推薦できる」と言ってくれた。

 俺は事件の翌日、すぐさま彼と連絡を取り、面接の段取りを取り付けた。彼の会社とは社員数十人ほどの小さな電気工事会社だったが、俺はそこの工程管理の仕事を与えられ、目下先輩たちの指導を受けながら励んでいる。なかには年下の先輩もいるが、彼らは俺に敬語を使い、決して「お前」とは呼ばない。俺も、年下の先輩には年上を驕らず敬語を使う。たまには休日出勤や残業もあるが、基本的に週休二日と定時は保証されており、小説を書くには困らない程度の時間の融通も利いた。社長からも「プロの小説家がうちの会社にいるなんて鼻が高い」と、深甚なるご理解をいただいている。近年まれに見る優良企業である。

 ところで、あのコーヒーショップはどうなったかというと、やはりあの落雷はビンゴだったらしい。周りには他にいくらでも高い建物があるというのに、ピンポイントでそこに雷が落ちたのは遊佐さんより先に俺が「辞める」と言ったからだろうか。検証する術はないが、だとしたら図らずも「血塗れブラッディ・ユサ」の本領が発揮されたわけだ。

 あとで聞けば、なんでも大量の電気が逆流して店にある電気製品の全てが再起不能になったばかりか、イケメン店長はブレーカーの管理を怠ったことと、たびたびバイトの女の子に手を出してきたこと、ついでに神棚をないがしろにしたことを咎められ、硫黄島支店へ左遷になったという。なんでそんなところに支店を出しているのかという疑問は残るが、いくらなんでも気の毒である。今頃は自衛官と米兵を相手にむさ苦しく頑張っているだろう。嫌いな奴だが敢えて不幸になることを望みはしない。心を入れ替えて本土に戻ってもらいたい。

 必然的に店長と別れる羽目になった吉川さんからは何度かメールが来たが、黙殺しているうちに来なくなった。オタク大学生の二人は新たなバイトを見つけて学業とともに励んでいるとのことで、彼らとはたまに連絡を取っては飲みに行き、遊佐さんも交えた四人で「萌えー萌えー」と盛り上がるのである。これもまた楽しい。


「君、今日の帰りはどうなんだ?」

 打ち合わせを終えて帰る前に、俺は遊佐さんに話しかけた。彼女は抱えた書類の束に目を落として少し考えたあと、「お祝いだもの、早く帰るわ」と言った。

「では、待っているよ」

 遊佐さんと別れ、外に出る。時刻は既に夜の八時を回っている。出版社はフレックスタイムが当たり前らしく、今日の遊佐さんは昼から出勤し、夜の九時には仕事を終えるという。俺は本業を終えるとほとんど同時にここに来たので、背広姿である。今は小説の他に地に足を付け、きちんとした職場で安定した収入を得なければならないが、いずれ小説だけで飯を食えるようになれればありがたい。

 都会のビルを吹き渡る風は、既に秋の匂いを孕んでいる。出版社社屋の出口脇には灰皿が置かれ、屋内禁煙の清浄な社屋から逃れた、濁った空気の好きな社員たちが思い思いにタバコをくゆらせる。その中に混じって一本を吸い終え、俺は帰宅するためにJR総武線へと乗り込んだ。

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