Q:これは触手ですか? A:はい、夫です

浅生柚子

第1話 夫婦の朝

 暖かな日差しが降り注ぐ中、ウンと背伸びをして、清廉な空気を肺いっぱいに吸い込む。

 それが私――琴子の、この三ヶ月の日課です。

 庭に咲いた花たちも日差しを浴びて、気持ちよさそうに揺れています。その姿を見ているだけでも、私の心はふんわり優しい気持ちになります。自然とほっぺが緩んでしまうのは仕方ないですよね。

 鼻歌でも歌いたくなるような気分で、赤い花のひとつに顔を近付けます。すると、甘い香りが仄かに鼻腔をくすぐりました。

「あなたたちのご飯は、後で持ってきますね」

 私の言葉に返事をするように、花たちがまた揺れました。その姿に微笑みながら、家へと戻ります。


 我が家は、2DKの木造平屋です。

 玄関を入るとすぐにキッチンとリビングが広がり、暖炉が備え付けられています。その奥に寝室。横にはお風呂場や洗面台、トイレがあります。キッチンとお風呂場の横にもうひとつ部屋があり、そちらは書斎になっているのです。

 全体的にはこじんまりとしていますが、天井は8メートルを超えています。

 なぜって?

 だって、その高さがないと不便なんです。


 リビングに置かれたテーブルの上には、私がさっき作った朝食をすでに並べてあります。今日は目玉焼き、ベーコン、サラダ、コーンスープ、そして焼き立てのパンです。

ありきたりなものばかりで申し訳ないです……。

もっと豪勢なものを作ってあげたいと思うのですが、この十八年間、私は家で料理を作ったことがないのです。そのせいか、一品作るだけで時間がかかってしまって……食卓につく時間までに、作りきれないのです。

自分で料理を作るようになった、もう三ヶ月も経ったというのに、いまだこんな調子なんです。不甲斐ないです。もっと腕を磨いて、美味しいものを食べてもらいたいのに。

そうでした、落ち込んでばかりもいられません。料理が冷めないうちに、あの人を起こさなきゃいけないのです。

 そっと寝室のドアを開けると、寝息が聞こえてきました。昨夜はお仕事が長引いたようで、寝る時間が遅かったせいです。まだ夢の中にいるところですし、起こすのは忍びないのですが……今日も朝早くからお仕事だと言っていました。お仕事に遅れたりしないよう支えてあげるのも、私の務めです。

 決意を固めると、そっとベッドの上を覗き込みます。そこには――

 ツヤツヤとした、宝石のように綺麗な淡萌黄色の肌、一部引き裂いたかのような大きな口、体と同じ色をしたイソギンチャクのような細い六本の手が生えた生き物が、大きな体をクルクルとヘビのように巻き、横向きになって眠っています。


この方こそ、三ヶ月前に結婚した、私の夫――触手さんです!


 私の夫! なんて素敵な響きでしょう! 愛する人と添い遂げ、自分の家族だと紹介出来る日がくるなんて、夢のようです!

 ああ、それにしても触手さん、今日も素敵なお体です。撫でたら手のひらに吸い付きそうな肌、堪りません! それに触手さんのいつも大きな口が、時々寝言でムニャムニャ言っているのもかわいいです! 触手さん、触手さん、触手さん……!


 い、いけません。私ったら、つい興奮してしまいました。

 この世界は、人間界とモンスター界に別れています。でもお互い戦争をしているわけではなく、むしろ別の世界の娯楽を提供する者同士、共存しているのです。ただ、お互いに『基本的な考え方』が違いすぎるので、住む土地を離しているのです。

 私も、三ヶ月前までは人間界に住んでいたのですが、今は妻として夫を支えるためにモンスター界で暮らしています。

 彼との出会いを語りだせば、一日や二日では収まりません。ただ彼と出会った瞬間、私は彼の優しさやそのスベスベとした感触に惹かれ、恋に落ちてしまいました。

 私は当初から「好きです」と告白し続けましたが、そ触手さんは「人間とは付き合えない」と言って、最初の頃は私を遠ざけたのです。でも、めげずにアタックを続けた結果……こうして結婚にまで至ったのです。人生、何が起こるか分かりませんね。


「うーん」

 触手さんの呻く声にハッと我に返り、顔を覗き込みます。まだ起きてはいないみたいで、ちょうど寝返りを打とうとしたとことでした。

 いけません。私の役目は思いにふけることではなく、触手さんを起こすことです。

 私は触手さんの腕の部分を、両手でそっとつかみ、軽く揺さぶりました。

 ちなみに触手さんの体は一見すると一本のヘビのように見えますが、さっきも言ったように、裏側に六本の細い触手が更に伸びています。これが彼の腕です。状況によってはあと数十本伸びるらしいですが、私は見たことがありません。どうやら、お仕事で使う時があるそうです。

「触手さん、朝ですよ。起きてください」

 声をかけると、触手さんからまた唸り声が聞こえてきました。けれど、まだ起きる気配はありません。ならば、もう一度。

「触手さん、起きてください。お仕事に遅れてしまいますよ」

 今度は唸りながら、うっすらと口が開きました。

「琴子、さん?」

 触手さんの柔らかい声に名前を呼ばれるだけで、全身が喜びに震えてしまいます。頬が熱くなっていくのを感じながら、私は笑顔で頷きました。

「はい、あなたの琴子ですよ。おはようございます、触手さん」

 やっと寝起きの頭がスッキリしたのでしょう。触手さんも口元に笑みを浮かべました。

「おはようございます、琴子さん」

 こうして触手さんとお話するだけでも、心が弾んでしまいます。結婚しても、私の触手さんへの想いは消えるどころか、増すばかり。

 しかし、愛おしさを噛み締めている場合ではありません。緩んでしまう自分の心を引き締めて、私は触手さんのベッドから三歩ほど離れました。

「朝ごはんが出来ていますよ。一緒に食べましょう」

「ありがとう」

 触手さんはベッドから這い出すと、私の横に立ちました。1.5メートルの私と、4メートルの触手さんが並ぶと、とんでもない身長差です。それでも私は、隣に立って彼を見上げるのが幸せのひとつでした。

触手さんもこちらを見下ろしてくれたので、お互い微笑み合って、一緒に部屋を出ました。そうして私はリビングでコーヒーの準備を、触手さんは顔を洗うため洗面台へ向かいます。

 温かいコーヒーを注いで座ろうとしたところで、触手さんがすっきりした顔で向かいにやってきました。触手さんはイスの上にやってくると、下半分をグルグルと巻いて座りました。器用です。

 私たちは両手を合わせて、「いただきます」をしました。触手さんはフォークを使って、目玉焼きを口に運びます。

緊張の一瞬です。

「うん……」

「……どうですか?」

「今日も美味しいね」

「ほ、本当ですか? 無理していませんか?」

 心配になって尋ねると、触手さんはカラカラと気持ちのいい笑い声を上げました。サメみたいなギザギザの歯が、見え隠れします。

「無理なんてしていないよ。あ、でももうちょっと味が濃い方が僕は好きかな」

 触手さんは嘘のつけない方。

 この言葉も私を気遣ってのことではなくて、本当に心からそう思ってくれているんだと思います。とても嬉しいのですが……触手さんに食べてもらうのなら、完璧でありたいのです。

 隣に住むゴブリンの奥様みたいに、私がもっと料理上手にならいいのに。そう思って毎日練習しているのですが、なかなか上達しません。ゴブリンさんの奥様の手料理は、プロのものと変わらないくらいの出来栄えで、とても美味しいのです。私もそのレベルに達することが出来れば、きっと触手さんをもっと満足させてあげられるのでは、と思うのです。

 もっと上手になりたい。もっと触手さんに喜んでほしい。

 その思いが、私の心を重くしていきました。


「ゆっくりで、いいんだよ」

 触手さんの声が、私を現実に引き戻しましてくれました。

 触手さんには目がありませんが、顔が合います。すると触手さんは、口元に笑みを湛えました。

「今、早く上手にならなくちゃって思ったよね?」

「は、はい。どうしてわかったんですか?」

「琴子さんは考え事をすると、黙り込んじゃうからね。すぐわかるよ」

 触手さんは優しい声で話しながら、フォークを置いて、その手で私の手を撫でました。滑らかな皮膚が、私の手の甲を這っていきます。

「急になんでも上手になるわけじゃないんだから、琴子さんは琴子さんのペースで、上達していけばいいんだよ」

 触手さんの言葉が、私の胸を軽くしていきます。

「本当に、いいんですか? 何年かかるかわかりませんよ?」

 それでも尋ねる私に、触手さんは体を半分揺らしました。頷いたんだと思います。

「なら、何年でも待つよ。だって僕たちは夫婦なんだから、時間はたっぷりある。そうでしょ?」

 触手さんの言葉は温かくて、私の心を優しいもので満たしていきます。何年でも待つ。それは、私とずっと夫婦でいてくれる、という意味だからです。

嬉しくて、幸せで、目頭がじんわり熱くなっていきました。

 パタパタ、と雫が落ちていきます。

「え!? こ、琴子さん泣いてる!? な、なんで!? 僕、なにか傷つけるようなこと言っちゃいましたか!?」

 慌てる触手さんを前に、私は慌てて首を横に振りました。涙はまだ止まりませんが、今は拭うよりも……


「やっぱり私、触手さんが好き。大好きです」


 あなたに、想いを伝えたい。


 溢れる涙をそのままに、触手さんへ微笑みかけました。

「あなたを好きになって良かった。あなたと結婚出来て、本当に良かったです……っ」

 気持ちが、涙と一緒になって溢れて、止まりません。

 すると、テーブルの下からガサゴソと不思議な音が。なんだろうと思って覗き込むと、そこから触手さんが顔を出しました。どうやら、テーブルの下に潜り込んでいたようです。

私の足元から上半分を出した触手さんは、私の体にスルスルと巻き付きました。体温が低いので、彼が触れる部分がひんやりしていきます。

 触手さんは恥ずかしがり屋さんなので、普段はあまり触れてくれません。そんな触手さんがこんな風に抱きしめてくれるなんて……驚きで、動けなくなってしまいました。

六本あるうちの二本の腕が、私の頭を優しく撫でてくれました。抱きしめてもらった上に、頭なでなで!? 驚きの連続で、胸が震えてしまいます。ドキドキと、鼓動が速くなっていく音が聞こえました。

「それは僕のセリフだよ」

 どういう意味か分からず、顔を上げました。すると触手さんは私を見下ろしながら、微笑みかけてくれます。

「僕のために、毎日美味しいご飯にしようって考えてくれる子がいるなんて、こんなに嬉しいことはないよ。琴子さんに想われて、僕は世界一幸せだ」

 心なしか、触手さんの顔は赤くなっているような気がします。

 可愛いです。

 頬が緩むのを感じていると、触手さんの肌が私の額に触れてきました。触手さんの息が唇に触れるほどの近さに、また心臓が弾けそうになります。その音を聞きながら、私も触手さんの肌にそっと手のひらを添えました。

 お互い顔を見合わせると、どちらともなく微笑みあいました。それだけで、楽しい音楽が鳴るような……心が踊るような気分になります。これが、愛し合う音なのでしょう。


 大好きな人と毎日一緒にいられるだけでも幸せなのに、その人に想われているなんて、私こそ果報者です。

 でも、その幸せに満足してはいけません。

 ゆっくりでいい、と触手さんは言ってくれました。だから私なりに……でも少しでも早く、触手さんのために美味しいご飯を作れるように努力しようと思います。

 そしていつか、触手さんが心から満足してくれるような料理を作れた時には……


 触手さんに、たくさん「なでなで」してもらうのです!

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