底知れぬ深みへ
「明日からは自分で巻いて下さいよ。」
「善処する。」
クロエさんの脚に真新しいゲートルを巻きつけていきます。ゲートルはズボンの裾が岩に引っかかたり、鬱血するのを防いでくれるのです。昔、行商人が教えてくれました。しかし、この細いふくらはぎが険しい道程に耐えられるでしょうか。今更ながら心配になってしまいます。
「左脚は終わりましたよ。右脚出して下さい。」
「ふふふっ」
クロエさんが堪えるように笑いました。
「どうかしましたか?」
「いや、召使いと姫みたいだと思ってな。」
「本物のお姫様なんでしょ?それにせめて騎士ぐらいにはして下さいよ。さあ終わりましたよ。行きましょうか。」
靴を履き、リュックのウエストベルトを締めると、いよいよだな、と気持ちが昂揚します。
「寝袋」
「持った。」
「合羽」
「持った。」
「水筒」
「持った」
「ええと他には」
「もう行こうよ。昨日から散々確認しただろ。」
「なんか心配になっちゃって。」
ドアに鍵を掛け、三歩下がって家の外観を眺めます。
「どんな気持ちだ?」
クロエさんが顔を覗き込んできました。
「少し淋しくて、不安がいっぱいです。でも、こんなに清々しい朝は初めてです。」
その言葉にうなづきました。
「そうか。わたしにも同じ質問をしてくれ。」
「どんな気持ちですか?」
「楽しみだ!頼りにしてるぞ。シモン。」
にっこりと満面の笑みでそんな事を言われたので少し恥ずかしくなりました。
「そういえば、ジェシカと何を話してたんだ?」
「秘密です。」
「気になるねぇ。」
クロエさんがにやにやします。
芽吹いたばかりの新緑は初めての世界に期待を膨らませるような淡い色をし、華やぐ木々は喜びを抱いて空に枝を目一杯に広げています。寝ぼけ眼の太陽と反対に、雲は忙しそうに南から北へ。振り返ると炊事の煙を立てた故郷が見えます。いつかまた、
「シモン、早く!」
「はいはい。分かりましたよ。」
いずれ来る夜ももう怖くありません。
「クロエさん。」
「ん?」
「命に代えてでも守ります。約束です。」
柔らかい笑顔がこぼれました。
「なんだよ急に。照れるな。」
谷は私たちを歓迎するように口を開いていました。この先にあるのは生か死か。
「行こう。」
クロエさんの踏み出した一歩は小さく、
にもかかわらず大きく、
力強いものでした。
黄昏時に 西城西 @Am-fm
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