ジェシカとバカ

旅に必要な物を買い揃え、飼っている牛の世話を養鶏場のおばさんに託し、世話になった人たちに挨拶回りをするうちに夕方近くになってきました。出店も揃い始めるといよいよ祭の予感に空気が浮き足立ち、通りのガス灯が嬉しげに揺れていました。確か、かささぎ亭の主人がダンスを行う広間の一画を陣取ってお酒を振舞うと言ってたと思います。若者達のダンスを肴におじさん達とお酒を酌み交わすのも乙なものでしょう。道を曲がってダンス会場となる広間に足を向けると


「おーい!シモン!一緒に行こう!」


後ろからクロエさんの声が聞こえました。


「ええ、分かりまし」


振り返り、クロエさん見て驚きました。長い髪はばっさりと切られ、ジェシカさんのようなショートボブになっていたのです。私は口をあんぐりと開けてものが言えません。そして、薄い青のワンピースはかつてジェシカさんが着ていたものでした。


「どうだ?」


クロエさんは勝ち誇ったような顔で仁王立ちしています。


「あのー、ジェシカさんみたいですね。」


「そこはかわいいですね、って言えよ」


ばちこんと後頭部を叩かれ振り返ると、そこにはフレアワンピースのとても綺麗な大人の女性が立っていました。


「なんだよ」


私があんまりに見つめるのでジェシカさんは怪訝な顔をしました。


「いえ、綺麗だな、と思いまして。」


ジェシカさんは意外そうな顔をしましたが、すぐに


「ありがと。」


あの頃のような屈託の無い笑顔で応えました。




「えー、シモン踊らないのか。」


クロエさんが下唇を出して不満そうにしています。


「大丈夫ですよ。お相手なら探してきました。ほら。」


「よろしくねークロエちゃん」


イムラはお相手が見つかって嬉しそうですが、それに対してクロエさんの表情は露骨に歪みました。その瞬間、ブラスバンドの音が響き渡り、皆が一斉に広間に文字通り踊り込みました。


「さぁ、早く行くよ!クロエちゃん!」


イムラはクロエの手を引いて雑踏に消えていき、見えなくなる直前までクロエさんは私に口パクで罵りの言葉を投げ続けていました。


「ひどいことするな。」


「社会貢献ですよ。」


ジェシカさんは私と並んで皆が踊る姿を眺めています。まだ夜は寒いとはいえ、広間は弾けんばかりの笑顔で踊る人、お酒を飲みながら談笑する人、揺れる炎で熱気に包まれていました。ドラムの音が腹のそこに心地よく響き、嬉しげな笑い声を聞きながら目を閉じると淋しいような幸せを感じました。


「良い街だよな」


ジェシカさんが嬉しそうに言いました。


「あたしはこの街もこの街の皆も大好きだ。ずっと今のままでいられたらって思うよ。変わらなければ良いのにって。」


「私も大好きです。故郷ですから。」


その言葉にはにかみながらジェシカさんが笑いました。


「踊らないんですか?せっかくの綺麗なドレスなのに。」


「うーん、そういう気分じゃ無いと言うか。」


足をぶらぶらとさせながら下を向いています。


「それは勿体無い。では、」


私はジェシカさんの前で片膝をつき手を取りました。


「私と踊っていただけませんか?」


ジェシカさんは驚いた顔をしましたがすぐに顔が赤くなり


「えっと...是非...」


恥ずかしそうに立ち上がりました。




スローな曲調でしたが、私たちはステップを確かめるように踏んでいきます。


「久し振りだと、だいぶ忘れてますね。」


「本当だな。」


上手な方とぶつからないよう端の方で踊っていると、イムラとクロエさんが踊っているのが見えました。


「クロエちゃん、上手だな!」


「あのイムラに引けを取らないですもんね。」


小太りのイムラは汗をかきながらいかにも見苦しい風体ですが踊っている時だけは不思議とかっこ良く見えます。踊ってるクロエさんは目が合うと、私に向かって舌を突き出して行ってしまいました。


「クロエに嫌われちゃうぞ。」


「イムラと踊る人なんて居ないですもん。雇ってくれた恩を返すという意味でも友人として最善の方法です。」


確かにイムラは上手いのですが、ステップについてすぐに講釈を垂れるので皆嫌がるのです。


「お前は下手だな。」


「ジェシカさんも負けないぐらいですよ。」


あはは、と笑って目が合うと、ジェシカさんの上気した顔に私はどきりとしました。


「なぁ、シモン。」


「なんですか。」


「本当に行っちゃうんだな。」


ジェシカさんは一切目を逸らさずに真っ直ぐ私を見ています。


「ええ。クロエさんが心配ですから。」


「そっか。」


サックスのソロに入りこの曲も佳境のようです。乾いた音が広間を包みます。


「こんなこと言っちゃいけないかもしれないけど、」


「なんですか?」


「シモンがどんな形であれ、この街で暮らすって決まって嬉しかった。」


ジェシカさんは俯きながら表情を悟られないよにしています。


「でも、シモンの気持ちなんて考えてなかったよ。どれだけ辛かったか分かろうともしなかった。」


私は言うべき言葉を探していました。


「言う通りだよ。シモンを助けてる自分が好きだった。」


私が残した傷痕は今だにジェシカさんを苛んでいました。


「私も嬉しかったですよ」


その言葉にジェシカさんが顔を上げました。


「それに、今でも良かったと思ってます。この街の皆さんと出会えて。」


ジェシカさん、イムラ、親方、奥さん、エフタさん


「私は自分のことしか考えていませんでした。ごめんなさい。」


視界の端に河川敷がふわりと浮かびました。けっして消えないあの夕暮れ。いつまでもその心象風景は私の中に遍在していました。身勝手な自分。沈む太陽。痛み。湿った緑の匂い。涙。でも、これらが今に至る道であれば後悔はしません。


「お前は変わったよ。また。」


ジェシカさんがふわりと笑いました。


「帰ってくるんだろ?」


「そのつもりです。」


ぎこちないステップを踏みながら、ジェシカさんが顔をぐいと近付けてきました。


「そんなんじゃ駄目だ。約束しろ。必ず帰ってくるって。」


ブラスバンドの指揮者が激しく腕を振っています


「でも、」


約束なんて誰にも出来ないんですよ。父も、私も。人には未来を約束することなんて


「違うよ。」


ジェシカさんは私の瞳の奥を射抜くように見つめます。心の声が聞こえているようでした。いえ、分かっていたのでしょう。


「約束はね、願いを、望みを、気持ちを口にすることなんだよ。あたしはシモンの気持ちが聞きたいの。」


ジェシカさんがくるりと回ると石鹸の香りが鼻を掠めました。そうか。そうだったんだ。父は。願いを口にしたのでしょうか。望みを?気持ちを?きっと、全部でしょう。彼は、私を愛してくれたのですから。それなら私は。


「ジェシカ。」


その言葉に目が大きく開かれ、驚きが渦となって躍りました


「心配かけてごめんな。必ず帰ってくるよ。約束する。」


みるみるうちにその目に涙が溜まっていきました。


「バカ。」


ジェシカさんは頭を私の胸に預けました。遠くでは拍手の音が聞こえます。イムラとクロエさんでしょうか。春の夜風は芽吹いたばかりの草木を撫で、さあ行こうと急き立てます。灯る炎に赤ら顔。瑞々しい恋人たち。この黄昏時の世界に私は人の営みを垣間見ました。こんなにも愛おしい。



曲が変わっても私たちはゆっくりとステップを踏んでいました。


いつまでも。


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