アーモンドの花とガキ
アーモンドの花を嵐が散らし、一雨ごとに季節が進みます。冬が去ったのを知ったのは午後の陽射しの暖かさに微睡んでいた時のことでした。
「シモン、シモン。聞いたか?」
クロエさんがゆり椅子を前後に大きく揺らしました。それはそれで心地良いので、狸寝入りを決め込んでいると額をぺちりと叩かれました。
「起きてるだろ、お前。」
「いえ、今起きたところですよ。どうかしましたか?」
「ジェシカから聞いたんだが」
むふんと、クロエさんが嬉しそうに鼻を鳴らしました。
「祭りがあるそうじゃないか?」
「ああ、もうそんな時期ですか。」
冬の終わり、春の芽生える頃に街では、迎え祭と言われるものが催されます。春を迎える準備を整えましょう、という意味があり夕暮れごろから明け方まで酒とご馳走を食べながら踊り明かすのです。
「んなぁ!行くだろ?」
きらきらとした目に行かないという選択肢は映って無いようです。そういえばこっちの家に移ってから行ったことがありませんでした。
「行きたいですか?」
「そりゃあもう。」
クロエさんにとっては最初で最後の迎え祭でしょう。もしかしたら私にとっても。
「それなら行きましょうか。」
私はそう言ってドアを開けると、体いっぱいに湿り気を帯びた暖かい春の風が家の中に滑り込み、クロエさんの長い髪を揺らしました。
「もうか?祭は明日だぞ。」
「ジェシカさんや奥さんがクロエの服を選びたがるでしょうからね。多分、半日はあれこれ着せられますよ。」
「うん!そうだな。ジェシカと一緒にいられるのもあと少しだし。」
緑の香りの中を歩きながらクロエさんは鼻歌交じりに木の枝で地面を叩いています。春の訪れは旅立ちの予感もともに連れて来ました。うきうきするような、それでいて少し怖いような、心のざわめきは雪の溶けた大地のようにゆっくりと露わになり居ても立っても居られなくなるのはクロエさんも同じようです。終わりを意識した途端に日常の風景は儚げでかけがえのないものに感じます。
クロエさん今が一番幸せかもしれませんよ、谷の先には帰るべき場所はないかもしれませんよ、
「クロエさん」
「ん?」
先を歩いていたクロエさんが振り返って声が出ていたことに気付きました。
「えっと、靴は調子良いですか?」
「うん、ばっちし。ほれほれ」
そう言いながらスキップを見せてくれました。楽しそうなクロエさんに私も顔が綻びます。強い子だな。そう思いました。
「そうか、お前も行くか。」
親方は遠くを見るような目でそう言いました。
「はい。」
その日の夜、私は親方と二人で飲んでいました。女性陣は、案の定部屋に篭りきりであたふたと何かしているようです。
「いつか、こうなるんじゃないかと思っていた。」
「ええ。親方の言う通りになりましたね。この仕事は」
「いや、違う。お前の仕事は関係ないんだ。俺が言ったのは、」
親方は私の目をしっかりと見て言いました。
「ギデオンが死ぬ前後からだ。お前には何処か」
少し迷うように眉を動かしたものの先を続けました
「諦めちまったような、そんな雰囲気がしてた。谷の向こうに引っ張られちまいそうな。俺にはどうにも出来なかった。お前は何と言うか、閉じちまってたから。」
ジェシカさんの部屋から3人の笑い声が聞こえてきました。私は何を言うべきか分からず、じっとショットグラスを見つめていました。
「やはり行くべきではないと、思いますか。」
「ああ。前のままのお前ならな。」
親方が優しい目で言いました
「今は違う。変わったよ。今は死ぬ直前のジジイみたいな顔はしてねぇ。きっとな、あの嬢ちゃんのおかげだ。良い顔になった。なんと言うか、地に足着いた感じだ。」
親方はぐいとお猪口をあおりました。
「帰ってくるつもりなんだろ?」
「ええ、勿論です。」
変わった。ジェシカさんもかつてそう言いました。変わらないこと、変わること。人はどちらを望むのでしょうか。
「あの子、死なせんじゃないぞ。」
「はい。」
2階から拍手が聞こえてきました。きっとジェシカさんとクロエさんの服が決まったのでしょう。
「親方。」
私は姿勢を正し、机に手を着けて頭を下げました。
「今までお世話になりました。しみったれたこんなガキを気に掛けてくれて、ありがとうございます。」
「よせやい。」
親方が頭をポリポリと掻きながら
「照れるからよ」
赤ら顔に満面の笑みを浮かべました。
次の日イムラの役所に行きました。
「うん。聞いたよ。クロエちゃんから。こういうのって跳ねムーンって言うんだろう。」
何言ってんでしょうかこの男は。
「休職、と言うことで暫く関所は閉鎖し」
「あー、関所ね。あんなん良いよ。あってもなくても一緒だし。」
こいつは私の数年間が根底から覆りそうな発言を平気でします。
「干し肉いる?」
「頂きます。」
茶菓子の代わりに干し肉とはワイルドです。カウボーイにでもなるんでしょうか。
「やっぱ白湯には甘いものより干し肉だね、うん。」
「まだ、お茶っ葉切れてるんですか?」
「経費節約だってさー。厳しいのよサラちゃんは。」
他の職員の方はお茶を啜っていたような気がします。でも、言わないでおくのが平和への道でしょう。
「ま、俺としては賛成だよ。安全に志願者を谷の先に送り届けるのも仕事のうちさ。何より、祝福の帝都が実在するとなれば、」
イムラは周りを気にして顔を寄せて来ました。口が臭いのは我慢します。
「経由地になり得るこの街はウハウハさ。宿場町としても栄えるだろう。そうなれば、娼館の一つや二つ出来るかもよ〜」
げへへといやらしく笑うこの男は何のために市長をやっているのでしょうか。甚だ疑問に感じます。
「とにかく、これも仕事のうちだと思って頑張ってくれ。給料は出んけどな。その代わりと言ってはなんだが、装備や糧食等は全面的にバックアップする。最高の物を揃えて万全の体制でことに当たってくれ。だから領収書は貰ってこいよ。」
「ありがとうございます。」
これが彼なりの精一杯の優しさなのかもしれません。
「そんなことより、今日の祭さ」
そんなことってなんだよ。
「ダンスのお相手、見つかんないのよ。どうしよう。」
祭のしきたりとしてダンスのお相手は予め約束しておくのです。プロポーズや好意を伝える機会として使われることもあるので多くの人にとってお相手選びは妥協出来ないのです。
「サラさんは?」
「先週、君のパンプスが欲しい、って言ってから口利いて貰えない。」
「スナックの女性は?」
「ウケるー、って言われた。」
「お母さんは?」
「ごめんなブサイクに産んでしまって、って泣かれた。」
本当に母親にまで聞いてるとは。ちょっと引きます。
「良いじゃないですか。祭に行かなければ。」
「嫌だー!綺麗な女の子を見せびらかして嫉妬されたい!」
動機が不純だから誰も寄り付かないんでしょう。
「私も決まってませんよ」
「いやだってお前はさ、まぁ良いや」
イムラは皮肉っぽい表情を引っ込めて真剣な顔になりました。
「俺な、お前が羨ましかったよ。お前の真面目さとか純真さとか色んなとこ。だからみんなお前に関わりたいと思う。」
「私だって、イムラのキチガイじみた言動を羨望の眼差しで見てましたよ。」
「うるせぇ」
イムラは、はにかみながらすねを蹴ってきました。地味に痛い。
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