ナイフと灯火
「おい!大丈夫か!シモン!」
ゆっくりと目を開けると、アヒトさんの心配げな顔がぼんやりと見えてきました。太陽は傾き始め、だいぶ寝ていたことが分かりました。
「なんだよ、何があったんだよ。」
「いえ、」
あれは間違いなくアヒトさんは達を探しているマフィアでしょう。エリさんはどうも厄介な貴族に惚れ込まれたようです。
「転んで頭を打ったみたいです。もう大丈夫で、イテッ」
起き上がる途中、脇腹に激痛が走りました。きっと蹴られた時にあばらにヒビでも入ったのでしょう。
「転んで、頭から血流して、肋骨まで痛めたのか?そんなん変だろ。」
アヒトさんの顔がだんだんと険しくなっていきます。
「たまたま岩が、」
とにかく対策を考えないと。ここから先は大人の仕事です。イムラにも相談すべきでしょう。
「とにかくベッドで安静にしろよ。肩、貸してやるから。ほら」
アヒトさんに引きずられるようにして部屋のベッドに寝かしつけられました。その時のアヒトさんの表情は固く引き締まり、別人のようでした。
「シモン!どうしたんだ!大丈夫か?」
次の日、朝方に帰ってきたクロエさんがベッドに駆け寄って来ました。
「あの、転んじゃって、」
頸動脈を締められたせいで起きた頭痛は治まったものの、あばらの痛みが酷く起き上がるのが辛いのでベッドで寝ています。
「お前なぁ、ダサいなんてもんじゃ」
「クロエ、お願いがあります。」
私の真剣な声にクロエさんは軽口をやめました。
「今すぐ、エリさんとアヒトさんを連れてジェシカさんのところに行って下さい。そして、これをイムラに。」
封蝋を押した手紙をクロエさんに渡しました。ただならぬ事態だと気付いたのか、口を真一文字に結んで受け取りました。
「お前は?どうするんだ?」
不安げに眉を寄せるクロエさんはいつもより幼く見えました。
「大丈夫です。何も聞かずに行って下さい。」
「分かった。行こうエリ。お泊まりだよ。」
「ジェシカー?」
クロエさんとエリさんが部屋を出ると、アヒトさんと二人きりになりました。
「俺は、誰にも迷惑かけるつもりはない。」
「きっと、あの街の皆が助けてくれます。心配しなくても、」
「よくそんなこと言えるな!」
アヒトさんが声を荒げました。
「人のことより、まず自分の安全だろ!違うのか?間違ったこと言ってるか?」
「アヒトさん。」
諭すようにゆっくり言葉を繋げました。
「頼ることを覚えなければ、壊れてしまいますよ。」
アヒトさんは言葉に詰まり、私に背中を向けました。
「分かった。行ってくる。」
ドアが閉まり、一人になると痛みを余計に意識します。そのまま寝っ転がり、今後の算段を頭で整理しました。あのマフィア達はホームから離れた場所で揉め事を起こしたく無いようです。自警団のしっかり機能しているナランチャの街の中まで入ってこないでしょう。その後の対応についてはイムラがなんとかしてくれるはずです。ぼんやりと頭の中の霞が増えていき、浅い眠りにつきました。片手に剣を握ったまま。
日が完全に沈み、夜が始まったばかりの頃にがちゃりと玄関のドアが開く音で目が覚めました。いよいよ来たかと、ベッドの上で起き上がります。ここには目当ての人間がいないと諦めてくれれば僥倖です。でも、もしもまだクロエさんやアヒトさんを付け狙うようであれば、ここで。それだけ何をするか分からない連中なのです。ぎいぎいと廊下の床が鳴ります。この部屋に近付いて来ているようです。布団で隠した剣は鞘から抜かれて嬉しそうに光っています。足音はピタリと止みドアノブがゆっくり回りました。私は呼吸を整え、自分を落ち着かせます。ドアが静かに開くと
「シモンー、起きてるかー」
クロエさんが入って来ました。
「どうしたんですか?」
驚いた反面、言いつけを守らなかったことに少し怒りを覚えました。
「いや、あんまりに遅いから。」
何を言っているのでしょう
「私はジェシカさんのところに行きませんよ。」
「いや、違う違う。」
クロエさんがかぶりを振りました。
「エリとアヒトがなかなか帰ってこないからなにしてるのかと。」
「えっ?」
帰ってこない?どこから?
「昼頃、忘れ物したから一旦帰るって....」
冷や汗が額に浮きました。
「まさか、」
最悪の想像が脳裏を過ぎります。いや、でも、
「シモン、どういうことだ?いい加減、話せよ。」
クロエさんがにじり寄ってきました。
「アヒトさん達は...」
クロエさんには知る権利があると思いました。
「そうだったのか...」
「ええ。」
クロエさんはベッドに腰掛け静かに話を聞いていました。
「もう、見限ったのでしょう。見つかってしまったから。私もこんな体たらくですし。」
クロエさんは黙っています。
「彼らの選択です。ここにいるより逃げた方が安全でしょう。それに方向も分からなければ探しようが、クロエ!」
ドアに向かって走り出そうとしたクロエさんの腕をすんでのところで掴みました。
「離せよ!まだ間に合うかも知れないじゃないか!」
「連れ戻してどうするんです!私たちでは守りきれないかもしれないんですよ!それにそうやって彼らは判断したんです!駄目です行っては!まだ奴らがうろついているかも知れませんし、もう狼が出る時期なんですよ!」
クロエさんがもがくたびに肋骨が痛み、顔が歪みます。
「それはエリ達も一緒だ!あんな小さい子が逃げてるんだぞ!なんにもするなって言うのか!」
「分からずや!」
私はクロエさんの腕を引っ張ってベッドに倒し、扉の前に立ちはだかりました。
「なんにも出来ないんですよ!それに引き留めた方があいつらに捕まる危険が高いんです!」
「そこをどけ!シモン!」
クロエさんは懐から小さなナイフを出しました。私は絶句しました。
「まだ....そんなものを...」
「わたしは本気だ!どけよ!」
私は悲しくなりました。クロエさんがナイフを手放せなかったのは、またいつか一人で生きていかなくてはならないと覚悟していたであろうこと。そしてエリさんに自分を重ねていることです。震えるナイフの刃を私がそっと握ると、クロエさんは硬直しました。ずるいのは分かっています。でも
「クロエさん、この前の質問の答えです。」
クロエさんが顔を上げました。もう答えなんて出ていたのです。
「一緒に谷に下りましょう。クロエさんと一緒に旅をします。」
ナイフを握った私の手から血が滴り落ちました。
「でも、今ここから出て行くならその話は無しです。」
クロエさんは宙を見つめ震えながら硬直しています。もう片方の手でクロエさんの指をナイフから解きました。なんの抵抗もありませんでした。
「ずるいよ...ずるいよ...シモン...」
「わかってます。」
「なんでそんな...」
「はい。」
クロエさんはぺたりと座り込みました。
「エリのところに行くべきなのに...」
クロエさんの頬に涙が伝いました。
「ずるいよ、ずるいよ、ずるいよ.....シモン....」
この裂くような胸の痛みは怪我のせいだけではありませんでした。
一週間ほどクロエさんは口を利いてくれませんでしたが、一緒に旅の支度を整えるうちにポツリポツリと話してくれるようになりました。納得はしてくれなくても理解はしてくれたようです。
ニ月ほど経ち、谷に雪が降り積もって音が無くなってしまった頃に宛名しか書いていない小包が届きました。
「あっ!」
小包を開けたクロエさんが声を上げました。
「どうかしましたか?」
新しい薪をストーブにくべると炎は木の皮をご馳走のように舐め尽くし、ぱちぱちと喜びの声を上げました。
「なんでもない。シモン!」
ニヒヒと笑うと、顔をぐいと近付けてきました。
「言いそびれたけど、これからもよろしくな。じゃ、お仕事行ってきまーす。」
クロエさんは真新しい靴を履いて家を飛び出していきました。真っ赤なコートは雪景色に映え、雪原に立つ灯火のようです。急に機嫌が良くなったのを不審に思って小包を覗くと、そこにはちょうど食べごろのオリーブの塩漬けが入っていました。きっと、春はもうすぐそこです。
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