第323話 旅立ちは月降る夜に。俺が凍てついた扉を開くこと。

 スカイブルーの鮮やかな瞳が俺を映す。

 ブロンドの髪が、全く風を知らぬかのように柔らかに揺れているので、俺は彼がもう同じ時の中にはいないのだと自然に悟った。


 彼はわずかに目を細めると、いつもと全く同じやり方で爽やかに微笑んだ。


「コウ様、よろしければ俺に力を貸してくださいませんか? そんな気味の悪い陰気な同居人より、俺の方が余程涼やかかと存じます。…………愛らしい乙女でないのは、誠に申し訳ございませんと言うより他にありませんが」


 俺は涙を拭って彼を仰ぎ、首を振った。

 信じられないのと信じていたいのとで、頭の整理がつかなかった。


「クラウス…………何で…………?」


 今、目の前にいる彼がどこまでも純粋な霊体であることは、魔力の風味がすぐに教えてくれた。

 うまく言えないけれど、肉体の魔力が混ざらない魔力場は何かが決定的に足りない…………イメージだけで味わうアイスクリームのような、おぼろげな感じがするのだった。


 クラウスは肩をすくめ、俺の前にしゃがんだ。


「こんなこともあろうかと、霊体だけはしばらく力場に残留できるようにと事前に魔術を拵えておいたんです。…………しかし、まさか本当に使う羽目になるとは。参ったもんです」

「…………じゃあ、やっぱりもう…………」


 クラウスがもう一度微笑む。

 滲むような笑顔に、雪結晶がハラハラと降りかかる。

 彼は遠い波音じみた、穏やかな声で話した。


「コウ様。…………戦いましょう。フレイアが危ない」

「けど…………」

「何です? あんまり時間はありませんよ」

「でも、それなら…………君には会いたい人が…………」


 こんな時に、自分でも何を口走っているのかわからない。

 この時の狭間で、俺はもうただただ混乱しきっていた。残されたわずかな時間をどうして俺のためなんかに使うんだ?

 最後の最後くらい、自分勝手でいいのに。


 クラウスはやれやれとわざとらしく口の端を曲げ、言葉を継いだ。


「俺の使命は「貴方とフレイアを守り届けること」。…………急がなくても、姫様の一番近くへはもうすぐに行けます。今更、焦りはしません」

「でも、それって、君が君のままでってわけじゃ…………」

「ハァ…………コウ様」


 彼は小さく息を吐き、また笑った。


「俺がサンライン中の恋人に会いに回っていたら、何年あっても足りませんよ。一人一人に平等に愛を伝えるのは簡単ではありませんし…………何より、そうなれば乙女達は皆、絶対に俺を離そうとはしないでしょう。貴方の基準でものを考えられては困りますよ」

「…………ふざけている場合じゃないだろう!」

「そう、その通り。これが最後の機会。…………格好つけさせてください」


 彼が俺に向かって静かに手を伸ばす。

 俺は握り締めている剣を、少し躊躇ってから、彼に返した。


「…………ありがとう、クラウス」

「いいえ、これが俺ですから」


 時の歯車が轟音を立て、回り始める。

 クラウスは白く眩しい吹雪に姿を変えると、自らの剣を氷みたいに砕いて俺の周囲に舞わせた。


「――――さ、今際に一花咲かせましょう!! 頼みますよ、「扉の魔術師」様!!」



 軽口が耳に明るく響いて、俺は再び戦場に投げ出された。

 数多の魔力がひしめく複雑怪奇な力場に、輝く吹雪に巻き込まれた俺が舞い上がる。



 ――――――――…………魔人の描き出した黄緑色の曼陀羅が、燦然と頭上に輝いていた。

 双頭魚とローゼスを相手取るフレイアの必死の形相が、見下ろす俺の胸に刺さる。


 瞬きすればその刹那、魔人の光線がフレイアを串刺しにするだろう。

 時は限りなく凝縮されて、ゆっくりと流れていく。


 瓦礫に隠れて逃げ回っていた時には見出せなかった様々な流れが、今ならよくわかる。

 ローゼスの操る風の渦。双頭魚の呪いの濁流。そしてサンラインに濃く深く渦巻く、黒い魚の血流…………。


 大きなもの、小さなもの、いくつもの扉が俺を呼んでいた。


 彼方からさざ波が聞こえる。

 蒼い水面を桜色の花びらが漂って、丁寧に丁寧に、太母の護手達への問いかけを続けている。

 リーザロットはまだ諦めていないのだ。

 この呪わしい混沌の只中で、彼女はまだ戦い続けている。


 タリスカの嵐が一瞬、脳裏をよぎった。

 彼もまた争いの渦中にある。

 二振りの刃で語られるあの死神の言葉は、恐らく俺だけでなく、誰にも理解できまい。

 彼と刀を交わす、その相手を除いて…………。


 …………あーちゃんの俺を呼ぶ声が、どこかから鋭く届いた。

 沸き立つ不安をぐっと堪えて飲み込む。一度に何もかもへ手を伸ばすことは出来ない。奇跡も魔法も、耐えて考えて踏ん張って、ようやくこの手で呼び寄せられるのだ。

 今は、赴くべきじゃない。

 仲間を信じよう。

 大丈夫。祈りと信頼が力になるのを、俺はよく知っている。


 俺は全身の感覚を使って、サンライン中の気脈を探った。

 大地に、海に、空に、どれだけ汚され乱されてもなお流れ続ける魔力の水脈を探しに行く。


 どす黒い悲鳴の嵐に、俺一人ならばきっとあっけなく掻き消されてしまっていたことだろう。

 だが、今は心強い仲間がいる。前々から薄々思っていたけれど、クラウスはどちらかと言えば純粋な魔術師として戦う方が向いていたのではないか。

 氷晶の魔術師の導く風が、透き通って晴れやかに空へ昇った。



 ――――――――…………それは静か過ぎる星の海の中で、高く孤独に輝いていた。


 月はその存在を自身でさえ信じきれないといったような、物悲しい佇まいで浮かんでいた。

 ヴェルグの黄金色の眼差しとは違う、澄み渡った瞳が夜空をしっとりと浸している。


 今にも何か語り掛けてきそうだ。

 何を伝えてこようとしているのか、耳を澄ましてみる。

 見知らぬ月。

 サンラインの空に果ては無いとどこかで聞いたけれど…………ならば、あれは一体どこに浮かんでいるものなのだろう?


 聞こえない…………。

 それでも、静かにどこまでも心を凪がせる。


 いつからか、しんしんと雪が降り始めていた。重さも軽さも感じさせない、白い妖精のような雪の子達。無邪気なように見えて、どこか遠い距離を感じさせる。

 クラウスが、その空色の瞳を合図みたいに瞬かせた。


「サンラインでは、空も、海も、大地も、皆魔海に繋がっています。

 月影は…………さしずめ、魔海からの便りといったところでしょうか。魔海の波の飛沫を映して、この地へ降り注ぐ」


 俺は月を見つめたまま、姿無き彼に返した。


「こんなにたくさんの怨嗟が響き渡っているのに、まだ何か伝えたいことがあるのかな?」


 クラウスは金色の髪を風になびかせつつ、雪の子を緩やかに散らせた。

 砕けた彼の剣の欠片が、俺を囲って煌めき始める。雪の子がそこへ戯れると、一本の研ぎ澄まされた氷柱が出来上がった。

 クラウスは血に濡れて吠える双頭魚と魔人を見下ろし、また俺へ目を向けた。


「…………それを聞くのが、貴方の御業なのでは?」


 黄金色にひっそりと、月が嘆きかけてくる。


 怒りとも悔いとも違う、深く長い悲しみの声。

 それはレヴィや喰魂魚の歌、そして黒い魚の鳴き声と不思議と響き合っていた。

 この戦が始まるよりずっとずっと前から、この地に響いていたのだろう。


 太母の護手達の虚ろな詠唱が聞こえてくる。

 ひしめき合うジューダムの腕達の揺らめきが、生きながら静寂へと吸い込まれていく。

 サンラインの魔術師達の争う声もまた、夢うつつに消えていった。


 …………そして残るは静寂。


 魔海の飛沫がたくさんの涙となって降り注いでいる。

 見えない涙の雨は、しとしととサンラインを冷やしていた…………。


 俺は白い風となったクラウスに、呼びかけた。


「…………聞こえた?」

「ええ。貴方から伝わってきます。…………切ない歌だ」

「…………君の力を使いたい。…………残った、最後の扉を」


 空色の瞳の、雪の子と同じ無邪気さが月の歌に色を添える。

 彼の魂には隠し立ての無い俺が映っていることだろう。俺が彼を見るのと同じように。

 俺は頷き、彼の覚悟を受け取った。


「月と君の扉を開いたら、今度こそさよならだ」



 ――――――――…………氷柱の刃を月へと振り上げる。


 クラウスが剣を振りかぶる幻が夜空に浮かんだ。

 俺は氷柱を解き放つ。


 クラウスが月へ剣を振り下ろした。風がその軌跡をなぞって、月を白く凍てつかせる。

 氷柱が月を一直線に貫いて、細かに砕け散らせた。

 魔海の涙がたちまち雹へと変わり、サンライン中に降り注ぐ。


 俺はすぐに風を集める。

 たちまち雪の結晶が集まって、大きな3本の矢を作り上げた。


 クラウスが振り返って、剣を掲げる。

 俺は応えて、彼の扉に触れた。



「…………また会おう」



 俺はクラウスが完全に風となるのに合わせて、雪の矢を思いっきりフレイア達の元へと投げつけた。




「――――――――貫け!!!!!」




 矢が急降下する。

 1つの矢は魔人の脳天を貫き、残りの2つは双頭魚の咽喉とローゼスへと降った。



 …………時が一気に加速する。

 フレイアが、思いがけない矢の強襲に飛び下がった。

 バラバラと降り注ぐ雪は、火蛇の熱を浴びて強い煙を立てて溶けた。


「コウ様…………クラウス様!?」


 彼女の驚く声が、間近に聞こえる。 

 俺はもう一匹の火蛇を伴って、フレイアの前に立っていた。


 矢の衝撃で舞い上がった砂煙が、冷たい風の名残に吹き飛ばされていく。

 フレイアは何か察したように一瞬だけ耳を澄まして、俺を仰いだ。


「行って…………しまわれたのですね…………。クラウス様は…………」


 俺は2匹の火蛇に、フレイアと自分とを守るよう伝えた。

 咽喉を破かれて横たわる双頭魚が、身体を痙攣させながら雪を浴びている。次第に力の失せていく目には、最早永い悲しみ以外に宿るものはない。


 魔人が膝をついて街へ倒れ込むと、さらに凄まじい砂塵が舞い上がった。

 彼の魔力もまた、ひんやりとした雪の光に晒されて深く埋もれていく。


 フレイアが表情を険しくして、砂塵の向こうを睨んだ。

 俺も同じものを、恐らくより蒼褪めた顔で見つめていた。


 顎門アギトの姿を模した兜のシルエットが、近付いてくるにつれくっきりと浮かび上がる。

 鋭く飛び出た目庇が少し欠けている。

 だが彼の銀の牙は…………吹き荒れる凄惨な魔力は、些かたりとも損なわれていなかった。

 むしろ滔々と溢れる同胞魔人の血に触発されてか、狂気はさらに極まって昂っていた。


「コウ様…………お下がりください」


 フレイアが血の滴る足を前へにじり出した。

 双蛇がその炎を激しく滾らせる。今ある命を限界まで迸らせるように、過ぎ去った魂を見送るように。


 俺は三日月みたいに邪の芽が笑うのを黙って噛みしめていた。


 …………どうする。

 どうする…………!?


 ローゼスがさめざめと冴えた刃に黒々と風を巻かせる。

 フレイアの深呼吸が、俺の鼓動を速めた。


 二人が仕掛けたのは、同時ではなかった。

 ローゼスが刹那速く、2匹の火蛇をもすり抜けて彼女の懐へ飛び込んできた。



「――――――――フレイア!!!!!」



 金属の弾かれる音が、高く月へと伸びた。

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