第322話 赤く鮮やかな汚泥に溺れて。俺が邪悪の扉に縋ること。
魔人が振り上げた腕をフレイアへと打ち下ろす。
デンザの爆破の魔術に匹敵する高速の衝撃が路地を粉々に砕いた。
濛々と舞う砂塵の内から飛び出したフレイアは、魔人でもローゼスでもなく、双頭魚へと斬りかかっていった。
彼女の詠唱が、渦巻く無数の魂の悲鳴の中で鋭く響いた。
「――――汝、混沌より出でし者よ!」
レイピアの刃の上を火蛇が紅く滑る。
彼女は崩れかかった建物の壁を蹴って、魔人が続けざまに放った荒々しい拳を躱した。
「――――我は、混沌を臨む者!
――――逆巻く火炎を標と立てる!」
フレイアは跳躍を繰り返し、あっという間に双頭魚の頭上へと到達した。
振りかぶられたレイピアの刃は煌々と白熱し、夜空を糾弾するかの如く輝いていた。
「――――汝の海を抱くは、漆黒の御手!
――――あまねく混沌の主!」
紅玉色の瞳に灼熱が焚かれる。
双頭魚は急いで身を捩らせたが、もう遅かった。
「――――燃え上がれ、燈火!!!」
袈裟斬りにレイピアが走る。
双頭魚は鱗の無い横腹を大きく裂かれ、悲鳴を上げた。
フレイアが身を翻し、空を落ちていく。
双頭魚の傷口を踊る火炎が、鎧じみた分厚い外骨格に覆われた頭部にまでみるみる広がっていく。双頭魚は苦痛に身を捩りながら、街へ身を転がした。
着地したフレイアがさらなる追撃に移ろうとしたところを、ローゼスの風刃が襲う。
紙一重で見切って躱したその先に、魔人の拳が重なった。
「――――くっ!!」
破城槌の如き拳撃を、彼女は火蛇の回転で弾くようにしていなす。
ローゼスが猛追してくるのを目にするや、フレイアは魔人の腕へと跳躍、そのまま駆け上った。
怒り狂った魔人が腕を振り上げるのに合わせて、フレイアは宙へ高く飛び出した。
放たれた火蛇が鞭のようにしなり、彼女を魔人の頭部へと一気に引き上げる。
そのまま、彼女は魔人の片目を深く抉った。
魔人が悲鳴を轟かせて悶え、目を覆う。
フレイアは近くの建物の屋上に降り立つと、振り向いてローゼスの打突を両手で受けた。
「…………っ」
ギロチンじみたローゼスのロングソードがフレイアの喉元へと迫る。
フレイアは剣と身体を滑らせてローゼスの首筋へと切っ先を伸ばしたが、ローゼスは即座に切り返した。
咄嗟にレイピアから離れた火蛇が、危ういところでフレイアを致命の一撃から守る。
火蛇の衝突と同時に、双方距離を取る。
散った火花の残響がまだ震える中、暴れる双頭魚が彼女らの足元の建物を横殴りに崩した。
「――――フレイア!!」
叫ぶも、声は轟音にたやすく飲み込まれる。
ローゼスとフレイアが体勢を崩し、瓦礫の海に飲み込まれていく。膨大な砂塵が一面に立ち上って、たちまち何も見えなくなった。
そこへ繰り出される、魔人の息つく間もない打撃。
俺は叫ぶことも出来ず、息を詰まらせた。
「…………ッ」
フレイアの魔力がじんわりと漂ってくる。
それは風前の灯火とまでは言わないが、ひどくか弱いものだった。
ほとんど気迫だけで保っているようなものだろう。
…………俺のせいだ。
俺を守るために、彼女は本来2匹連れている火蛇の1匹だけで戦っている。
攻めきれないのも、守り切れないのも、俺のせいなんだ…………。
どうしようもないのはわかっているが、悔しさやら不安やらで吐き気すら込み上げてくる…………。
と、ふいにユラリと粉塵の内で小さな火がちらついた。
ハッと我に返った次の瞬間、激しい爆発が辺りを襲った。
俺は近くの瓦礫を盾に爆風を避け(それでも飛んでくる礫は、
全身炎にまみれ、消火するためにもがいている。
フレイアの炎が砂塵の静電気に引火したのか!
魔人もまた爆発に怯んで攻撃の手を止めている。その隙にフレイアの小さな身体が、再び魔人へ向かって跳ね上がった。
半ば捨て身の攻撃だったのだろう。彼女の傷も浅くはなさそうだった。
その間に、双頭魚がローゼスを襲う。
ローゼスは炎を纏ったまま相手の懐に飛び込むと、すれ違いざまに双頭魚の片方の胸ヒレを斬りつけ、弾丸の如くフレイアを目指した。
ローゼスは勢いを殺さず、一切の詠唱も無しに宙へ灰青色の足場をいくつも作り上げると、鎧の重さを全く感じさせない獣じみた動きでフレイアへと飛び掛かった。
ローゼスは全身に風を纏って炎を吹き晴らす。
彼のその銀の刃で、フレイアの細腕を叩き割らんばかりに苛烈に、鰐の牙のように重く打ち掛かった。
双頭魚がそこへ迫りくる。
ローゼスはいきなり身を引くと、急に陽炎のように姿を揺らして行方をくらまし、双頭魚をフレイアへと向かわせた。
フレイアは双頭魚の左右の頭が交互に繰り出す激しい噛みつきを火蛇と剣で払う。
怒涛の猛攻に、どうしても守りが崩れ始める。
ふいに再出現したローゼスが脇から刺突を放った。
「――――ッ!!!」
フレイアが火蛇の名を叫ぶも、逸らしきれず切っ先は彼女の横腹を裂く。
噴き出た血の鮮やかさに、俺は邪の芽の高笑いを聞いた。
――――――――…………見たことか。
お前が弱いから。
お前が役立たずだから。
あの娘は死ぬのさ。
…………無惨に。
無意味に。
…………お前のために。
お前を好いて。
お前を信じて。
…………何の成果も残せずに。
虚無となる。
「黙れ…………」
――――――――いいや、黙らない。
なぜならあの娘を救えるのは、この俺だけだから。
今お前に残っているのは、この俺だけだから。
「うるさい…………うるさい、うるさい、うるさい!!!!!」
――――――――死なせるか、染めてやるか。
世界の終わりか、暗黒の始まりか。
…………選べよ。
選択ってのは、いつも残酷なんだ。
わかってんだろう? クソガキ。
魔人が、曼陀羅に似た黄緑色の魔法陣を頭上に大きく展開させる。
彼の瞳が魔法陣と同じ色に毒々しく明滅し、フレイアに狙いを定める。
一瞬後の予感が、俺の脳裏によぎる。
邪の芽が笑う。
扉はすぐそこに…………フレイアの…………火蛇の燃える扉は、手を伸ばすまでもない距離に控えていた。
俺を待ちわびて、切望して、助けを求めている…………。
「でも…………」
俺は何億倍にもたわめられた時の狭間で震えていた。
もしフレイアの扉を開けば、俺は自ら邪の芽に彼女を捧げてしまうことになる。
だがそうしなければ、あの子は死んでしまう。
俺には何も残らない。
俺はあの子は見殺しにする。
同じ赤にまみれて、俺は…………。
無意識と意識の狭間で、俺は手を伸ばそうとしていた。
冷たい雪結晶が俺の額に触れた時、俺は泣いていたかもしれない。
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