第324話 粘つく血泥の底から…………。俺が彼の傷口に触れること。
フレイアが危ない――――…………。
ローゼスの銀の牙が彼女の咽喉を裂くその寸前、何者かが間に入った。
弾かれたローゼスの剣の震えが俺の耳にまで冷たく響く。
割って入った人影はサラサラと流れる灰青色の水流を刃から砕け散らせ、ローゼスに向けて放つ。
鋭く尖った水の矢に射られたローゼスは剣を翻し、守りの姿勢でさらなる水矢を捌く。
フレイアは突如現れた人物を、目を大きくして呼んだ。
「ヤガミ様…………!?」
「師匠、コウは任せろ!」
ヤガミは刃の折れた剣の先を俺へ向け、叫んだ。
「扉を!!!」
「あ…………ああ!!」
俺が力場に集中する隙に、すでに体勢を立て直していたフレイアが火蛇を飛ばしてローゼスを牽制する。
俺の傍まで下がったヤガミは、ペットボトルの中身程のわずかな水流を俺と自分との周りに渦巻かせ、深く息をした。
――――――――…………ヤガミの力場に溶け込むのは異様な程に簡単だった。
それだけ彼の力場は、痩せ細っていた。
渦から散らばったわずかな水流は夜霧となって薄く広がり、辺りを包み込む。
いつも彼が広げて見せる灰青色の湖の力場は、今は路地に点在する小さな水溜まりとしてしか映っていなかった。
それもひどく砂だらけの泥溜まりだ。魔人や双頭魚の血も入り混じって、あの冷たく静謐な灰青色はもう見る影もない。
フレイアとローゼスの斬り合う様子が火蛇の真っ赤な明かりに照らされて見えた。崩れた瓦礫の中を、踊るように激しく飛び回っている。
俺を守る必要がなくなった二匹の火蛇を従え、フレイアは今までよりもかなり積極的に刃を振るっていた。
だが、敵も負けてはいない。魔人の血を浴びたローゼスは、どういうわけか以前と比べて遥かに活気づいていた。
何らかの魔術…………呪術か。それとも、純然たる彼の狂気ゆえか…………。
瞬きも許されない高速の攻防が火花を苛烈に舞わせる。
恐らく斬り合いはこれで最後になるだろう。一閃一閃が、言葉よりも音よりも光よりも鮮やかに殺意を物語っている。この斬り合いが途切れた時、きっとどちらかの命が散る。
二人の気迫は、轟く雷雨に似ていた。
「すっげ…………」
苦笑交じりにヤガミが呟く。
改めて見ると、彼は全身ぐっしょりと血にまみれて、まるで溺れているみたいに息を上がらせていた。
彼はとんでもなく荒れた視線をこちらへよこして言った。
「見ての通りだ。死にかけのボロ雑巾だよ。…………牛乳拭いた雑巾と同じ匂いがするだろ? あっちのがマシだろうが」
「…………それより、お前、どうやって…………」
「「自分」の力場がこれだけ広がってりゃ、どうとでもできる。あの太母の護手とかいうヤツらは皆殺しにしてやった。…………いただけ全部、喰らい尽くしてやった」
「は…………?」
「喰らい尽くしてやった」
そういって引き攣らせた顔は、到底笑っているようには見えなかった。
よく見ればジューダム王にやられた腹の傷口がまた開いていて、泉みたいに血が溢れている。
俺の視線を察してか、ヤガミは額に湧いた脂汗を拭って言った。
「暴れたからな。こんなもんだろ? …………見かけほどひどくはない。気にするな」
「…………どうやって俺達を見つけた? っていうか…………」
「白い、小さな魚が…………導いてくれた。俺をよく知っているみたいだったが…………」
「白い…………魚?」
俺の頭の中を、半透明の小さな魚がよぎって消える。
テッサロスタで太母の護手と戦った時に、俺の元にも彼は現れた。
ヤガミの…………ジューダム王の弟・ソラ君。あの子もここにいるのか…………。
「それ…………」
お前にはわからないのか?
俺がソラ君のことを話そうとした矢先、ヤガミが激しく咳き込んだ。
「ヤガミ!」
「う…………るせぇ!」
手負いの獣の獰猛な眼差しは、支えようとした俺の手を触れるまでもなく跳ね除けた。
彼は夜空を睨み、言葉を続けた。
「やるぞ。ぐだぐだしてる暇はねぇ」
灰青色の瞳の見据える先からは、大小雑多な牙の魚の群れが迫ってきていた。異形の魚達は魔人やローゼス、フレイアを恐れてやや遠巻きに周回していたのだが、それが今、再びこちらへ集結しつつある。
幻霊もいる。崩れた路地の、建物の内の、あちこちから、彼らは俺達を眺めていた。
ゆっくりと伸ばした彼らの手の先から、スゥと姿が消えていく。
ゆらりと風に乗った蜘蛛の糸は、彼らの因果の命綱だ。それは不気味に揺れ、巡らされた霧に紛れた。
「確かに、話は後だな」
「…………」
ヤガミが頷く。
熱が出ているのがもう顔色でわかる。どれだけ威勢を張っても、瞳の色は疲弊に濁り沈んでいる。
いや…………疲労だけじゃないか?
太母の護手のことを語った時の引き攣った表情が、また彼の顔を歪ませた。
「…………コウ」
「…………何だ?」
「ジューダム王の景色だ、これが…………」
牙の魚達が目前に押し寄せてくる。
同時に、四方から幻霊が一斉に現れた。
無数の牙、捩じた牙。ただ一本だけの牙。目に映る異形の魚の白い死の森に、ふと意識が無色に染まる。
忌まわしい幻霊の無機質な腕が音も無く伸び上がる。
俺は無意識に、彼らを見つめていた。
死者でも生者でもない、「在るはずのない」者の目を。
そこにくっきりと映り込む、己の姿を。
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