第306話 魔王とその器。俺が血の海でもがくこと。

 顎門アギトは鈍重そうな見た目からは想像もできない速度で、俺へ襲い掛かってきた。

 畜生、もう何も間に合わない――――…………!!


「――――――――ッ!!!」


 鋭い大鮫の牙が俺に迫る。

 あわや上半身が食い千切られる寸前、何者かの刃が顎門の横腹を斬り付けた。

 顎門は悲鳴を上げることなく、微かな血を舞わせて距離を取る。


「コウ、無事だな!?」

「――――ヤガミ!」


 ジューダム王の片割れは、水流逆巻く剣をかざして俺の前に立っていた。

 傷だらけではあるものの、大きな怪我は見られない。

 共力場を通してリーザロットの力も感じる。彼の刃にはすでに、彼女の加護が宿っているようだった。

 他の誰の力も感じられない中、なぜか彼の力場にはすんなりと入り込めた。


「助かった! でも、この力場は…………」

「ジューダム王の領域だ。「本人」以外を排除するように作られている」


 ヤガミが苦笑し、レヴィから溢れた血の海に佇むジューダム王を睨む。

 王は氷像の如き冷然とした表情で、もう一人の己を睨み返した。


「貴様は…………」

「お前だよ」

「…………肉体如きがくだらない真似をする。貴様の魔力の源は他ならぬこの俺のものだ。敵うはずもない」


 今一度、王が顎門を差し向ける。

 弾丸じみた勢いで迫りくる大鮫に、ヤガミは灰青色の瞳を瞬かせて刃を振るった。


 生じた大渦が無数の竜巻を作り、顎門の行く手を遮る。

 すかさず、ヤガミは剣を翻した。

 彼から射られた視線が俺に鋭く刺さる。


 応えて、俺は彼の扉を探した。

 灰青色の水面がわっと意識に広がる。あっという間に辿り着いた扉――――というより最早、扉の真隣りで戦っているようなものだった――――を開くと、天地が真っ逆さまに滑り変わった。


「――――ッ!?」

「慌てんな! これでいい!」


 ヤガミが宙を仰いでいる。

 遥か上空………血の色の空から、顎門が迫ってきていた。王とレヴィの身体はどこかに消え失せ、代わりに今までとは比べ物にならない数の白い腕が、狂ったように蠢いていた。


「小賢しい真似を――――…………。…………行け」


 凍てついた王の声が、どこからともなく力場に響き渡る。

 顎門と共に白い腕が、一斉にこちらへ伸び上がってきた。

 地獄が降ってくる。


 無数の腕のひしめき合う音がザワザワと耳に障る。

 自分の心臓の鳴り騒ぐ鼓動が、視界を震わした。


 ヤガミが袈裟斬りに素早く剣を走らせる。

 蒼く巨大な竜巻が真っ赤な空を覆い尽くし、白い腕達を引き千切って一帯にさらなる血の嵐を吹き荒らした。


 ナタリーのでもレヴィのでもない悲鳴が鼓膜をつんざく。

 ジューダムの兵達の声か…………!


 だが、顎門は止まらない。

 荒ぶ血風をものともせず、その身体を真っ赤に染めながら迫ってくる。

 牙の魚よりも大きく、速く、明確な殺意の塊。


 ヤガミがもう一度剣を構える。

 真っ向から斬り裂く気だ。


「…………――――やれ…………やっちまえ!!!」


 俺が叫ぶのと、彼の剣が大きく突き出されるのとは同時だった。

 姿勢をうんと低くしたヤガミの刃が、すれ違いざまに顎門の腹を真っ直ぐに破る。

 凄まじい血飛沫が飛び散り、俺は拳を握り締めた。



 ――――…………だが、その拳を解くことはできなかった。


 散った飛沫を浴びたヤガミの瞳が、大きく見開かれたきりになる。

 俺は愕然として、言葉を失った。


 ヤガミの身体が、彼が顎門にしたのと全く同じように斬り裂かれている。

 顎門はいない。ただ大量の血溜まりだけを後に残し、ヤツは跡形もなく姿を消していた。

 辺りは黒ずんだ赤に染まり、波も嵐も不気味に収まっている。


 ヤガミは腹の辺りを抑えると、咳き込んで血を吐いた。


「おい! ………おい! ヤガミ!!」


 駆け寄ろうとする俺の足を、何かが強く掴んで止める。

 いつの間に湧いたのだろう。まるで女性のものみたいな白い細い腕が、何本も俺に絡んでいた。


「っ…………!? このっ、離せ!!!」


 蹴りつけて腕を追い払う。

 次から次へと絡んでくる腕を乱暴に払いのけ、俺は膝をついているヤガミの傍にかがんだ。


「おい…………!」

「…………大したことない。見かけだけだ」


 そんなわけねぇだろう!

 そう言いたいのに、とめどなく流れ出る鮮血の生々しさに言葉が奪われていく。

 ヤガミは蒼褪めた顔で俺を睨み、口元を拭った。


「そういう目で見るなっつってんだろ。…………アイツの魔力は俺の魔力だ。だから、ひっくり返される。俺達がやったのをやり返された。…………それだけだ!」

「…………今、この力場の出口を探している。…………お前はもう下がっていろ。その傷はヤバい」

「…………うるせぇな…………!」


 ヤガミがよろめきながら剣を振るい、俺の足元の腕を斬り捨てる。

 短い女性の悲鳴が微かに聞こえる。

 彼はくすんだ灰青色の魔力を再び共力場に流しつつ、話した。


「いいから、もう一度戦うぞ。「俺」がこのまま俺達を引かせるわけがない。むしろ…………リズ達の方が危ない」

「けど…………」

「お前、師匠に惚れてるんだろ!? なら、つべこべ言ってねぇでやれ! …………リズ達の領域に乗り込む。…………いいな?」

「勝手に話進めるなよ! お前、その傷はマジで…………」

「「俺」のことは俺が一番よくわかってる! …………早く、やれ」


 血の気の失せた顔に光る、獣の如く血走った両目。

 俺は胸倉を掴んで殴ってやりたくなったが、息を吐いて堪えた。


「…………わかったよ」

「ああ」


 無理はするなよ、と言うだけ無駄だろう。

 俺は散らばりそうになる意識を寄せ集め、リズの魔力を辿った…………――――――――。

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